128

〈戦争〉を継続する戦争映画

「戦争は別の手段による政治の継続である」と言ったのはクラウゼヴィツだが、ある意味で戦争映画は別の手段による戦争の継続である。
 実際に、戦争映画は軍人によってつくられるのであり、最近の『フルメタル・ジャケット』で元海兵隊指導教官のリー・アーメイが最初はアドヴァイザーとして参加するうちに主役の一人になってしまった例はむしろノーマルなことなのである。監督や役者が『地獄の戦線』(一九五五)のオーディー・マーフィーのように「激戦の勇士」でないとしても、戦争映画には必ず軍人や従軍カメラマンのアドヴァイザーが撮影に参加する。
 では、戦争映画ではどのような形で〈戦争〉が継続されているのだろうか?
 戦争には必ず敵と味方が存在するが、戦争映画の敵は決して映画のなかにはいない。『太平洋の地獄』(一九六八)の撮影のとき、海兵隊員としてかつて日本軍と闘ったリー・マーヴィンが共演者の三船敏郎に対して反日意識をおさえきれなかったというエピソードがあるが、そのような形で措定された敵は戦争の敵ではない。
 ヴェトナム戦争では、アメリカ人とヴェトナム人とが敵・味方に分かれた。もっと厳密には、さまざまな敵・味方が区別されるが、いずれにせよ、その敵と味方は映画の「外」にいた。このことは、他の戦争においても同様だ。とすれば、戦争映画では、この関係がそのまま映画のなかに持ち込まれるのだろうか? じょうだんではない。もしそうだったら、戦争映画はもっと撮りやすいにちがいない。
 戦争映画が〈戦争=映画〉であるためには、必ず敵が必要であるが、その敵は一般に映画の「外部」——つまり撮影現場か観客の世界——に求められる。実際、『地獄の黙示録』の撮影はフィリピンへの〈侵略戦争〉であった。しかし、観客世界への〈侵略〉の規模と影響力にくらべれば、撮影現場の〈戦争〉はとるにたらないものである。
 この原稿を書くために古い切り抜きをひっくり返していたら、一九七九年五月の『ニューヨーク・タイムズ』のある記事のなかで、「ハリウッドはわたしたちのニュールンベルグ裁判を提供してくれるのだ」という発言に出会った。これは、『ディア・ハンター』と『帰郷』がオスカーを受賞し、ブロードウェイでは『ディスパッチズ』A『G・Rポイント』などの「ヴェトナムもの」が上演された、当時の新しい状況変化をふまえて言われた言葉なのだが、そのディスクールの無意識部分を合わせて考えるならば、これはなかなか言いえて妙である。
 東京裁判がそうであったように、ニュールンベルグ裁判にも復讐の要素がある。つまり戦争犯罪を裁く裁判は、戦争の継続であるという側面を消し去ることができない。言い換えれば、裁判という形の戦争もあるわけであり、戦争はさまざまな形で継続されるのだ。
 戦争映画を一つの軍事法廷と考えるならば、通常の意味での戦争肯定映画と「反戦映画」との区別は無意味になるだろう。映画が巨大な予算と膨大な集団作業を要するものである以上、映画の〈好戦的〉性格を完全にぬぐい去ることは原理的に不可能である。問題は、たかだか〈攻撃的〉な映画であるか、それとも〈防御的〉な映画であるかの違いであるにすぎない。
『若き勇者たち』、噬宴塔{ー/怒りの脱出』、噬gップガン』といった作品が、「反共的」な「戦争プロパガンダ映画」であることは確かだとしても、ヴェトナム戦争を否定的に描いている『プラトーン』、噬nンバーガー・ヒル』、囓Fよ、風に抱かれて』、噬tルメタル・ジャケット?宸ニいった映画が〈戦争〉に加担していないということにはならない。
 ただし後者は、形式上〈敵〉と?末。方?誤植〉フ両方を同じ場面にならべるという——まさに裁判の——「公平」さをよそおっている点で、一応デモクラティックではある。たぶん、マス・メディアにできるデモクラシーとはこの程度までだろう。そして、現実のデモクラシーは、決して暴力なしに達成されてはいないのだ。
 最近の「ヴェトナムもの」では、アメリカの敗北を描くことが一つの流行になっている。その口火は、『プラトーン』によって切られた。が、一九六〇年代末から一九七〇年代初めにかけてアメリカン・ニューシネマが好んで採用したスタイルを思い出せば、それは全くめずらしくない。
 ヴェトナムの敗色が濃くなり、ソンミ村での虐殺事件が暴露され、アメリカの国内外でヴェトナム反戦の声が高まるにつれて、ヴェトナム戦争への反対を含意した映画が多数つくられた。その多くは、丁度かつてのソ連で体制批判の映画が物語の時代や場所を移した形で作られたのと全く同様に、時代や状況設定を変えてアメリカの帝国主義的政治や力への過信を批判した。
 たとえば『ソルジャー・ブルー』は、明らかにソンミの虐殺とインディアンの虐殺とをダブらせていたし、マイケル・ウィナーのような監督までも、?囃ヌ跡者』A『チャトズ・ランド』といったアメリカ資本の作品で一八八〇年代の西部をヴェトナムに見立ててアメリカの体制を暗に批判した。
 その種の「反戦映画」は、初めは、なかなか新鮮な印象を与えたが、ピーター・フォンダの『さすらいのカウボーイ』なんかになると、わたしは、「高橋和巳みたいにウジウジやればいいってもんじゃねぇぞ」と言いたくなってしまった。そんなわけで、『プラトーン』以後、続けざまに登場した「ヴェトナムもの」を見て、またぞろあのマゾ・スタイルが復活するのではかなわないなと思った。
 敗北を描くということは、少なくとも勝利することが支配的な願望となっている状況下では、その映画の?柾﨣?攻撃的?誤植〉ネ機能を自省することを意味する。しかし、ハリウッド映画は、基本的に〈情報攻撃的〉であることを避けることが出来ない。グローバルな流通回路を通じて全世界に流布される作品は、確実に瑣末な文化や思考を侵略する。それは、ヴィデオでもレコードでも同じことである。
 だから、その内容が「敗北」や「反戦」であっても、情報としての繁殖度と破壊力次第では、「反戦映画」が〈戦争=映画〉になってしまうのだ。現に、第二次大戦中に溝口健二がつくった『元禄忠臣蔵』などは、もっぱら静かに死んで行くことを描いた「敗北主義的」な映画であるが、フィルムの乏しい時代に軍部公認の潤沢なフィルムを使って作られ、封切られたこの映画の機能は、死の戦争に人々をかりたてる〈戦争=映画〉であった。
 こう考えてくると、戦争映画が、〈反戦争=映画〉としての機能をもつことが出来るかどうかは、その映画が、観客側にどれだけ〈ゲリラ戦〉を許すかどうかにかかっているということも出来る。つまり、観客がそれをどこまで勝手に解釈し、自分のために〈使用〉できるかどうか、観客がどの程度までその映画の上映方法や流行の仕方に影響を与えられるか、といった可能性の許容度である。
 たとえば『トップガン』について言えば、そもそも一方的に受容するしかないリズムで撮られた空中飛行が全体の中心をなしているこの映画で、観客がそこに別種のリズムや解釈をもちこむことは非常に難しい。この映画は、最初から〈情報攻撃的〉な〈戦争=映画〉でしかないのだ。
 もっとも、少し時間がたって、F‐14トムキャットなどよりもはるかに早い戦闘機が現われ、われわれのスピード感が大いに変化してくれば、この映画のリズムに振り回されずに、そこにわれわれ自身の時間を投げ込むことが可能になるかもしれない。まさにハワード・ホークスやジョン・フォードの〈戦争=映画〉が、一九五〇年代になってフランスで〈反戦=映画〉として再解釈されたように。
 映画を観客が自分のために〈使用〉できるということは、映画が〈法廷〉として機能しないということである。アメリカの戦争映画がアメリカの勝利を描くにせよ、敗北を描くにせよ、それを一つの〈裁き〉として提出するかぎり、その映画は〈戦争=映画〉であり、火薬を使わない情報による戦争を継続しているのである。
 観客にとって、〈裁き〉が存在するかぎり、映画は超越的な位置にあり、それを全面的に拒否するか受け入れるかしか選択の方法がない。これは、情報戦争が全面化している今日の状況下において〈ゲリラ〉的な闘いすら許されないということにほかならない。
 では、最近の「ヴェトナムもの」は、どの程度まで〈裁判〉でない要素をもっているだろうか?
 ヴェトナム戦争が失敗であったという点では、『プラトーン』と『ハンバーガー・ヒル』の二作は明確な〈裁き〉を示している。そこではアメリカ軍は、味方のいる陣地を爆撃してしまうほど愚かであり、誰のために、何のために闘っているのかもわからなくなっている。むろん、戦争のむなしさが描かれてはいるが、戦うということ、攻撃するということそれ自身の悪についてはさほどの反省はない。
 かつてわたしは、ヴェトナム戦争を「完全な失敗」であると認める軍人にあったことがある。彼は、ヴェトナムの失敗を細かく分析し、あの戦争が「割の合わない」戦争であったことをクールに論証したのち、「おれならばもっとうまくやった」と答えるのだった。
 アメリカがヴェトナムから手を引いたのは、こうした考えをもつ勢力が次第に力を得たからであって、戦争そのものに対する反省が浸透したからではない。むろん、ヴェトナムは多くの人々に戦争の愚劣さを教えはしたが、それは勝てない戦争の愚劣さを教えたのであって、勝てる戦争をも愚劣だと見なしはしなかったのである。
 ただし、『プラトーン』も『ハンバーガー・ヒル』も、今後何十年か時間がたって、ヴェトナム戦争の直接的な記憶をもつ者がほとんどいなくなったとき、ヴェトナム戦争とは切り離されて見られることによって、いまとは全く別の意味と機能をもつということはありえる。しかしながら、そのとき、これらの作品はいささか『エイリアン2』に似てきはしないだろうか?
 両作品に共通するのは、敵=ヴェトコンが、こちらが攻撃しても攻撃しても、あとからあとから沸いて出てくるようなメカニックなイメージをもったものとして描かれていることである。それは、まさにエイリアンのオートマティックな攻撃のイメージであり、そこには敗北するか、殲滅するかの二者択一しか存在しないのである。
 対象を「即物的に」とらえること——これは、対象を攻撃し、武装解除することであり、近代戦の根底を支配している戦争イデオロギーである。狭義の「戦争」は、このイデオロギーを火薬や核分裂のエネルギーを使って具体化するが、言語と情報の手段によって具体化する戦争があるということを忘れることは出来ない。ヴェトコンをメカニックなイメージでしかとらえることの出来ない映画は、そうした〈戦争〉に加担しているのであり、うわべでどんなに戦争への批判を提示しても、すでに敵を殲滅してしまっているのだ。
 その点では、『友よ、風に抱かれて』も、いわばエイリアンに殺された兵士たちへの鎮魂篇といった趣がある。映画の主要舞台がヴェトナムの戦場ではなく、すべてがアーリントン国立墓地で戦死者を弔うハザート曹長(ジェイムズ・カーン)の目から描かれているという点は、一面で、戦争のもつ宿命的な性格を示唆しているとも言えるが、しかしながら、ヴェトナムを入るべきでなかった場所、エイリアンの支配する場所としてとらえ、そこに侵入することを強制された若者の悲劇を強調している点では、この映画も、〈ポスト・エイリアン2〉なのだ。
 だから、この点では、ヴェトコンの女性狙撃兵を登場させたキューブリックの『フルメタル・ジャケット』は、ポスト・ヴェトナム戦争映画としては、一歩抜きん出ていると言わざるをえない。この映画の前半部は、南カロライナの海兵隊訓練基地を舞台にしており、そこで展開されるドラマの成り行きは、構造的に『シャイニング』によく似ている。
『シャイニング』には、相手の意識や感情が変わってしまうまで相手を罵り続ける訓練教官はむろん登場しないが、冬場で客のいない人里離れたホテルの建物空間が、ハートマン軍曹に代わってジャック・トランス(ジャック・ニコルソン)を狂気のなかに追い込んでいく。実際、『フルメタル・ジャケット』の前半部の最後の方で、狂ったレナード(ヴィンセント・ドノフリオ)がトイレで銃をいじりながら見せる表情と目つきは、『シャイニング』のジャックのそれとうり二つである。
 これは、一見、キューブリックの安易な繰り返しを露呈しているようにも見えるが、見方を変えれば、〈戦争〉の根底には操作された空間のなかで意識や感情、さらには身ぶりが強制的に変えられるということが存在することを示唆し、この映画を単なる「戦争映画」でなくしてもいる部分なのである。この前半部によって、ヴェトナム戦争は、「戦場」の外にまで拡げられるのであり、その「継続」として情報を用いて行なわれている〈戦争〉の諸形式があらわになり始めるのである。
 前半部が、火薬と核を用いた「血を流す」戦争と、情報による「血を流さない」戦争との不可分離な関係を示唆しているとすれば、後半部は、アメリカ人が、敵をエイリアンとしてではなく人間として見出すプロセスにあてられている。
 が、人間としてとらえられた「敵」とは何か? というよりも、われわれが相手を「敵」としてとらえるとき、相手に対して何を仕掛けているのか?
 ここでもキューブリックは、旧作の映像を想起させることによってその解答を示唆している。というのも、建物に潜んで次々にアメリカ兵を撃ち倒す女性狙撃兵にようやく接近し、彼女に傷を与えて追い詰めたジョーカー(マシュー・モディーン)たちがとる身振りとポスチャーは、まさしく、?嚴梃vじかけのオレンジ?宸ナアレックス(マルカム・マクドゥエル)が作家夫人を犯す(寸前の)シーンとダブりあうからである。言い換えれば、ヴェトナムの殺戮と日常的世界で男たちが行なうレイプとは互いに通底しあっているのであり、両者は互いに一方の「継続」戦争なのである。
 もっとも、この種のことはとっくにフロイトも言っていたことであり、いまさらあらためて映像化するまでもないだろう。が、〈裁判〉としてのヴェトナム映画がリバイバルする時代には、それを〈判決〉のない無限の円環のなかに引き込んで、一方的な〈判決〉をかぎりなく引き延ばすことが必要なのだと思う。そして、その意味では、『フルメタル・ジャケット』は、他の最近の「ヴェトナムもの」よりも観客にある程度恣意的な映像の〈使用〉を許すのである。
[フルメタル・ジャケット]前出[地獄の戦線]監督=ジェス・ヒッブス/脚本=ジル・ダウド/出演=オーディ・マーフィ、マーシャル・トンプソン他/55年米[太平洋の地獄]監督=ジョン・ブアマン/脚本=アレクサンダー・ジェイコブズ/出演=リー・マーヴィン、三船敏郎他/68年日・米[地獄の黙示録]監督=フランシス・F・コッポラ/脚本=フランシス・F・コッポラ、ジョン・ミリアス/出演=マーロン・ブランド、デニス・ホッパー他/79年米[ディア・ハンター]前出[帰郷]監督=ハル・アシュビー/脚本=ナンシー・ダウド、ウォルド・ソルト他/出演=ジェーン・フォンダ、ジョン・ボイト他/78年米[若き勇者たち]前出[ランボー/怒りの脱出]前出[トップガン]監督=トニー・スコット/出演=トム・クルーズ、ケリー・マクギリス他/86年米[プラトーン]前出[友よ、風に抱かれて]監督=フランシス・F・コッポラ/脚本=ロナルド・バス/出演=ジェイムズ・カーン、アンジェリカ・ヒューストン他/87年米[ソルジャー・ブルー]監督=ラルフ・ネルソン/脚本=ダグラス・ヘイズ/出演=キャンディス・バーゲン、ピーター・ストラウス他/70年米[追跡者]監督=マイケル・ウィナー/脚本=ジェラルド・ウィルソン/出演=バート・ランカスター、ロバート・ライアン他/70年米[チャトズ・ランド]監督=マイケル・ウィナー/                                   [さすらいのカウボーイ]                              [エイリアン2]前出[シャイニング]監督=スタンリー・キューブリック/脚本=スタンリー・キューブリック、ディアン・ジョンスン/出演=ジャック・ニコルソン、シェリー・デュヴァル他/80年米[時計じかけのオレンジ]監督・脚本=スタンリー・キューブリック/出演=マルカム・マクダウェル、パトリック・マギー他/71年英◎88/ 4/10
『月刊イメージフォーラム』




次ページ        シネマ・ポリティカ