118

ラヴ・ストリームス

 離婚は、まだ否定的なものとみなされているが、それは、いずれごく当たり前のものとなるかもしれない。
『ラヴ・ストリームス』は、まさにそうした状況への過渡期を執拗に描いている。それは、日本の現状からすると暗いあるいは狂っているという印象を与えるかもしれないが、アメリカではそれほど特殊なわけではない。
 この二十年間にアメリカの家族は確実に解体した。レーガンは、保守派の要請を受けて家族制度の建て直しをはかろうとしたが、成功しなかった。母と子、父と子が暮らす「単親家族」は依然増え続けているし、結婚しない男女の数も決して少なくはなってはいない。
 最初、こうした傾向をアメリカ映画は否定されるべきものとして描いてきた。問題は組み合わせである。新たな出会いのなかには必ず愛がよみがえるだろう−−こうした発想が一九七〇年代にまだ映画の基調になっていた。ということは、アメリカの大衆意識のなかにそうした発想が支配的だったということだ。
 それが、ポール・マザースキーの『結婚しない女』あたりから変わってきた。結婚は必ずしも価値ではなくなった。うまくいかなければ離婚すればよいし、さらに、結婚しない方が自由であるかもしれないという意識がひろまってきた。
 しかし、この段階でも未解決の問題が一つ残った。子供の問題である。ロバート・ベントンの『クレイマー、クレイマー』では、離婚はもはや完全な社会制度の一つとみなされているが、その結果としての子供の悩みに対してはまだ疑問を呈しており、まさにそれがこの映画の泣かせどころになっていた。
 実際問題として、離婚する男女、離婚で一方の親から引き離された子供の悩みや悲劇はなくなっていないとしても、子供がステップ・ファーザーやステップ・マザーと住むということは、いまや一定の家族形式になりつつある。
 この点からすると、『ラヴ・ストリームス』の世界は、アメリカの現実よりも一歩遅れているといえるかもしれない。
 そもそも、サラが不幸なのは、彼女が愛を〈流れ〉(ストリーム)と思い込んでいるところにある。愛はいつから〈流れ〉になったのか? 愛が身や心の内側から奔出する〈流れ〉であったのは、一九世紀までである。一九世紀においてすら、愛はすでに〈努力〉になっていたし、愛の、絵に描いたような実体は存在しなくなっていたのである。
 ロバートは、決してそうしたどちらの愛も信じてはいないが、だからといって彼がそれらの愛を乗り越えているわけでもない。むしろ彼は、自然発生的な愛にも、また努力の目標としての愛にも飢えているために、それらをあえて無視しようとしているにすぎない。彼は、妻と別れ、毎日のようにコールガールと戯れている。そして、子供に対してもおよそいい加減な態度ですませる。しかし、そのあげくに姉のサラだけを愛していると自分を納得させるのである。これは、〈流れ〉としての愛を拒否してきたロバートがそのような愛を認めたことを意味する。
 他方、もはや愛の相手を失ったサラは、小馬、山羊、犬、鶏などのペットを買い集め、彼らを愛そうとする。これは、彼女にとって〈流れ〉としての愛を捨てることを意味する。
 しかし、皮肉なのは、結局サラは、ボーリング場で知り合った男と去り、ロバートはペットたちとともに彼の広い邸宅に一人取り残されるという最終シーンである。
 わたしは、ニューヨークで、ペットとともに暮らす多くのシングルを見た。それは、ひょっとして、男と女、ゲイとゲイ、片親と子供といった今日の家族の形態をさらに超えた最後の家族形式かもしれない。
監督・脚本=ジョン・カサヴェテス/出演=ジョン・カサヴェテス、ジーナ・ローランズ他/84年米◎87/ 9/ 9『ラヴ・ストリームス』パンフレット




次ページ        シネマ・ポリティカ