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シルクウッド

 その女性が仲間たちと騒がしく画面に登場したとき、わたしは、それがメリル・ストリープであるとは思えなかった。ストリープの役柄は、たいてい、ミドル・クラスの娘や婦人であり、ロワー・クラスのはすっぱな感じの女性を演じることは少ない。
 そのストリープが、この映画では〈原発ジプシー〉と同様の底辺労働者を演じている。十代で三人の子供を生み、結婚をしたものの、いまは子供を男親にまかせて、別の男と暮らしている女。月一回子供と会っても、情動の不安定な頼りない母親である。
 カレン・シルクウッド(ストリープ)は、恋人のドルー(『ニューヨーク1997』のカート・ラッセル)とレズビアン主義者のドリー(『マスク』のシェール)と三人で奇妙な共同生活をしている。彼らは、ただ金のためだけに危険を覚悟でプルトニウム燃料工場に勤めている。
 実話にもとづくこの映画の舞台はオクラホマ・シティのカーマギー社だが、その労務管理は、映画で見るかぎり、堀江邦夫の『原発ジプシー』や樋口健二の『闇に消される原発被曝者』で暴露された状況とうりふたつである。労務者が作業中に、知らずに放射能をあびることはめずらしいことではなく、被曝者は、シャワー室に連行されて皮膚がすりむけるほど全身を洗浄される。しかも、それは、労務者を救うためであるよりも、事故が世間ざたにならないための処置であるにすぎない。
 このような劣悪な環境のなかで、カレンが次第にこの会社の告発者になってゆく過程を、マイク・ニコルズ監督は、アメリカ映画ではめずらしい鋭さで描いている。映画で一年以上の時間の経過を描くのは難しく、あまり成功しないことが多いが、この映画は、少しずつ身ぶりと表情を変えてゆくストリープの演技によって、時間の経過をたくみに映像化している。
 合衆国で七〇年代に高まった反核運動のなかでカレン・シルクウッドの名は、彼女がカーマギー社の告発に深くコミットするなかで、一九七四年に突然謎の事故死をとげたこととあいまって、反核運動の伝説的な存在になっている。
 しかし、重要なことは、彼女は何らかのイデオロギーや高尚な知識によって〈活動家〉になったのではなく、極めて個人的な肉体的ショックを通じて告発者に変身する点だ。ここでも男は何ともだらしなく描かれている。それは、脚本を書いたノラ・エフロン女史の悪意ではなさそうだ。女性が本気にならなければ、何も変わらない。
監督・脚本=マイク・ニコルズ/メリル・ストリープ、カート・ラッセル他/83年米◎85/ 6/11『ミセス』




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