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ビデオドローム

 ヴィデオドローム−−すべてに先だってこの語が眩暈のような予感を呼び起こす。ヴィデオドロームとは何か?
〈ドローム〉(drome)とは、ギリシャ語のドロモスに由来し、走路や走行を意味する。〈アエロドローム〉とは飛行機(アエロ)の走路−−つまりは飛行場であり、〈ヒッポドローム〉といえば、馬(ヒッポ)の走行路−−つまりは競馬場のことである。だから、〈ヴィデオドローム〉とは、ヴィデオの走行路のことであり、ヴィデオ映像が〈走行〉するすべてのメディアにこの語があてはまる。が、それならば、なぜヴィデオドロームであって、ヴィデオメディアではならないのか?
〈ドローム〉という語が、〈アエロドローム〉や〈ヒッポドローム〉のように用いられる際には、走行という作動的な性格よりも、走行路という場所性に力点が置かれる。しかし、ドロモスとしてのドロームは、まず第一に、走るということであり、走る場所よりも走る速度が問題なのだ。とすれば、ヴィデオドロームという言葉は、ヴィデオ映像の速度を留意したものであるはずである。
 この映画の監督デイヴィッド・クロネンバーグは、十代のころからスピードに興味をもち、イタリア製の自動車やモーターバイクのコレクションをしているという。
 テクノロジーの発達は、ある意味で速度の発達−−昂進−−であり、速度の昂進は、われわれの知覚と知覚映像の持続性を変えてきた。徒歩、走行、馬、汽車、自動車、飛行機というように移動速度が昂進するにつれて、知覚される映像は、身体運動の持続時間から機械の作動持続時間によって現象するものとなり、ついには、肉体をいささかも移動させることなしにものを知覚できるところまで行きついた。
 ブルックリンからマンハッタンへ向かう地下鉄のGラインに乗ってディカルプ駅をすぎると、トンネル内にしつらえてライトで照らした巻絵のようなインスタレイションが、地下鉄の窓からまさしくアニメイション映画のように見える。映画と列車とは、丁度裏がえしの関係にあり、肉体を一定の速度で移動しながらものを見る代わりに、肉体を固定しておいてものの方を一定の速度で動かしたにすぎないのである。
 シネマドローム−−つまり映画的映像の速度−−は、従って、肉体の移動速度をゼロにして成りたつような相対速度であり、それは、依然として、肉体のコントロール下にあると言える。
 しかし、これに対して、ヴィデオドローム−−つまり電子映像の速度は、肉体の移動とは無関係であり、神経と脳細胞の反応速度と合体しさえする。それは、肉体運動のレベルでコントロールされることはなく、それどころか、ある頭脳や神経細胞と結託して他の肉体や頭脳をコントロールする力をもつ。
 テレビ、ヴィデオコーダー、パソコン、ポケットテレビなどが日常生活に浸透するにつれて、肉体は電子映像の環境にとりまかれ、ヴィデオ環境と頭脳・神経的世界とが癒着しはじめる。
『ビデオドローム』は、こうした今日の世界をわずかに誇張して描いているにすぎない(さしあたり〈描く〉という言葉を使うことが許されるとすれば)。一見SF的なプロットが頻出するにもかかわらず、トロントの街路の雰囲気は、それほど加工されてはいない。とりわけ、ブライアン・オブリヴィヨン教授(ジャック・クレリー)とその娘ビアンカ(ソニヤ・スミス)の本拠になっている〈カソード・レイ・ミッション〉(陰極線ミッション、つまりテレビのブラウン管を使った貧民救済)の建物がある通りの雰囲気は、テレビ受像機を街頭にすえて物乞いをしている乞食がいても、実際のスパディナ・アヴェニューのあたりの街並を彷彿させる。この乞食は、ニュースを流しているテレビに、通りがかりのマックス・レン(ジェイムズ・ウッズ)が立ちどまって見入ると、五十セントでいいからめぐんでくれと言うのである。五十セントというのは、物乞いの相場として極めて妥当な額である。
〈カソード・レイ・ミッション〉の建物の入口には、丁度ニューヨークのバワリーの貧民救済所のように、うさんくさい風貌の人々が列を作り、そのなかでは、小さなスペースに仕切られたブースのなかで疲れた顔の男や女がテレビ画面に見入っている。ここを管理しているビアンカ・オブリヴィヨンは、社会とのつながりを失った人々にテレビを通じてつながりをとりもどさせるのだとマックスに説明する。これは、今日のテレビの実際的な機能をほんの少し意識化しているにすぎない。日本でも、テレビはすでに老人たちにとって唯一の社会的な通路になっている。のみならず、社会そのものが電子映像と分かちがたく結ばれ、われわれは、テレビを通じてでなければ社会との結びつきをもてなくなっているのである。実際、〈疑惑の銃弾〉事件は、テレビ映像のなかで最も〈リアル〉であり、その外ではほとんど存在していないも同然だった。
 日常的環境がヴィデオドローム(電子映像場)となり、〈人間的現実〉(ヒューマン・リアリティ)とヴィデオ・リアリティとの区別が不分明になると、すべての闘争や人間活動は、ヴィデオドロームとヒューマン・リアリティとのあいだで進行=走行することになる。しかし、ヴィデオを完全に否定し去ることはもはや不可能であるから、ヴィデオをヒューマン・リアリティのための道具として用いようとする方向と、一切のヒューマン・リアリティをヴィデオで置きかえ、ヴィデオドロームを全般化させようとする方向とが対立しあうことになる。
 その際、両者の闘争は、これまでヒューマン・リアリティの拠点となってきた肉体−−そしていま電子テクノロジーとともにヴィデオドロームと化そうとしている肉体−−という場でしのぎをけずることにならざるをえない。マックスは、まさにそのような肉体そのものであり、彼において〈人間的現実〉派とヴィデオドローム派とが熾烈な闘いを行なう。
 マックスが〈ヴィデオドローム・プロブレム〉に悩まされるようになる発端は、彼のCATV局〈チャンネル83〉の技術者であるハーラン(ピーター・ドヴォルスキー)から衛星通信を傍受したものだと称するアングラ・ヴィデオを見せられ、この番組名が〈ヴィデオドローム〉というのだと教えられてからである。〈チャンネル83〉は、ポルノの専門局で、マックスは仕事柄、ハードコアやSMのヴィデオをよく見るが、女を拷問し、殺害する場面ばかりを毎日ライブで流しているこの番組にすっかりひかれてしまう。
 あとになって、マックスに〈ヴィデオドローム〉を見せたハーランは、ある秘密組織のメンバーで、表向きはメガネ会社を営んでいるバリー・コンヴェックス(レス・カールスン)の手下であることがわかる。彼らは、いまや〈チャンネル83〉のような〈くそだめ〉メディアによって〈軟弱〉になってしまった北アメリカを救うために、ヴィデオドロームを用いてマックスを〈洗脳〉し、彼を自由にあやつって〈チャンネル83〉の重役を皆殺しにして、このテレビ局をつぶしてしまおうというのだった。彼らが、〈くそだめ〉(セスプール)メディアに代わるものとしてどのようなメディアと文化を考えているかは、コンヴェックスの会社の〈春のコレクション展示会〉が行なわれている会場の−−どちらかといえばロココ調のパフォーマンス・スペースの−−雰囲気から想像がつく。
 コンヴェックスとハーランの一派は、ヴィデオドロームを道具として用いるが、それは、ヴィデオドロームが全般化することをくいとめるためである。しかし、ヴィデオドロームは、より本質的には人間の発展の〈新しい段階〉であって、それは、人間が〈テクノロジカルな動物〉になることを要求しているのだと考える一派がいる。ブライアン・オブリヴィヨン教授がまさにその教祖であり、彼は、その教説を語ったヴィデオ・レターを世界中に送っている。
 マックスも、実は、ブライアン教授のヴィデオ・レターを見ていた。それは他のテレビ局の番組に出演し、セックスや暴力の映像が与える社会的影響についてディスカッションしたときだ。CRAMトロントというラジオ局で〈エモーショナル・レスキュー・ショウ〉という人生相談の番組を担当しているニキ・ブランド(デボラ・ハリー)と知り合うのもこのときだが、ブライアン教授はテレビ・モニターを通じてこの番組に参加していた。ブライアンの説によると、テレビ・スクリーンは〈精神の眼に書きこまれて〉おり、〈脳のフィジカルな構造〉をなすにいたっているので、〈現実〉はヴィデオ映像と区別できない。テレビ画面で起こることがあなたの直接経験となり、まるで脳腫瘍のような〈コントロールできない肉〉となってゆく。ここでは、肉体の死は決して人間の最終的な死ではなく、〈発展〉であり、脳の新しい部分を増殖させることなのだ、という。
 拷問、強姦、殺害のなかには、いずれも肉体を消滅させたいという意思が働いている。が、この消滅は、肉体に暴力を加える主体の肉体だけは消滅させずにおくような中途半端なものである。列車や映画のテクノロジーは、乗客や観客の身体性を安全な位置に固定したうえで世界を自由に変速可能なものにしようとする。これは、ある意味で、世界を拷問し、強姦し、殺害することでもある。しかし、電子テクノロジーは、もはやそのような手前勝手な傍観者的肉体が存在する余地を与えない。
 マックスが、オブリヴィヨン父娘に説得されて、コンヴェックスとハーランを殺害するのは、そもそも、ヴィデオドロームの世界では、それを道具としてだけ用い、自分はそこから自由な場に身を置くことは不可能だからだ。このことは、彼らを殺害したマックスの場合も同様であり、彼は、自らの肉体を自分で消滅させざるをえない。
『ビデオドローム』を見ながら、わたしは、クロネンバーグが、なぜこれをヴィデオではなく、映画で撮ったのかということを考えた。つまり、シネマドロームではなくて、なぜヴィデオドロームなのか、と。
 ヴィデオの映像〈感光〉速度は神経・脳細胞の反応速度よりも遅いことはなく、そのために、神経・脳細胞の〈器官〉になりうるという観念を基礎づける。たとえ誰一人としてヴィデオモニターを見ていないとしても、カメラ自身が知覚〈器官〉としてつねに見ているのであり、ヴィデオ映像は、見られているものとしてのみ存在する。これは映画の映像とは根本的に違うところだ。映画の映像は、フィルムの現像処理が済むまでは、それを誰かが同時的に知覚することはできない。言いかえれば、映画の映像は、もともと誰も見なかったものとして与えられる。従ってここでは、映像に対して誰でもが等価な位置に立っている。
 シネマドロームがヴィデオドロームよりも遅れているために、映画の映像は、特権的な視点−−すでに誰かによって見られているということ−−をあらかじめもつことはない。映画的な映像は、ヴィデオ映像よりも物的であり、それに対して観客がどのように対応するかという社会性によって物から記号の方へ身を移してくる。ここには、肉体をもった観客が、映像に対して自由な対応をする余地が残されており、映像は、まだ、肉体との位置関係で自由な記号論的結合を行ないうる記号にとどまる。
 クロネンバーグは、ヴィデオドロームが電子テクノロジーの時代の一つの不可避的な方向であることを語りながらも、それをオブリヴィヨン教授のように積極的に肯定することも、コンヴェックスのようにその意識操作的な側面だけを都合よく利用しようとも考えないようだ。彼は、ヴィデオドロームに一歩遅れたレベルにとどまろうとする。彼は、映画の可能性をヴィデオの批判的機能として見ているかのようだ。
 ヴィデオのテクノロジーは、やがて映画のテクノロジーを完全に時代遅れのものにするだろう。すでに、映画のスクリーンにひってきするヴィデオ・スクリーンは出来ており、フィルムや映写機を使わずに映画と同じような映像をうつし出すことは可能になりつつある。しかし、すでにのべたように、フィルム映像とヴィデオ映像とは本質的に異なっている。その意味で、ヴィデオと映画は、今後、その相異をより明確にしながら進まざるをえないし、さもなければ少なくとも映画が生き残れる可能性は無いだろう。すなわち、映画の映像が、ヴィデオと異なり、誰もあらかじめ見てはいなかったという状態で与えられることがより積極的に活かされるのでなければ、映画はヴィデオに吸収されるということだ。
 その意味で、この映画が、主人公マックスの消滅で終わるのは、実に暗示的である。映画は、まさに、主人公の肉体の消滅以前のところでしか不可能なのであり、肉体を電子信号(ヴィデオドローム信号)に解体して、直接的に観客の神経や脳細胞に作用させるところまでは進まないのである。現在のテレビは、まだ、ブラウン管や液晶スクリーンを用いて映画上映のマネをしているが、これは、ヴィデオにとっては過渡期現象にすぎない。おそらく、ヴィデオ・スクリーンを一切使わずにヴィデオ信号を〈精神現象〉として現象させる技術が現われるだろう。
 だから、映画『ビデオドローム』は、一つの有効な終末と危険な端緒とのはざまに立っているわけである。
監督・脚本=デイヴィッド・クロネンバーグ/出演=ジェイムズ・ウッズ、デボラ・ハリー他/83年カナダ◎85/ 5/ 6『ビデオドローム』




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