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メトロポリス

 古い無声映画で人物のモーションが映るシーンを見ると、なぜかわたしは、SM映画を見ているような気がしてくる。それは、いまから何十年もまえに、カタコト音をたてる素朴な映写機で無声映画を見たときには決して感じなかったことだ。
 こんなことを言うと、それはおまえの隠れたSM趣味が年とともに昂進したのだろうと言う人がいるかもしれないが、事実はそうではないと思う。むしろ、今日古い無声映画を見る場合、その映写装置も映写環境も、その映画が製作されたときのものとは格段にちがっているため、新しいテクノロジーが古いテクノロジーをレイプするような事態が生じるのではなかろうか?
 ジョルジオ・モロダー製作の『メトロポリス』は、フリッツ・ラングが七百万マルクの巨費(現在の二十三億円)をかけて一九二六年に完成し、センセイションを起こした同名の無声映画に若干の色彩処理とポップなサウンドの音楽を加えて再編集した〈無声映画〉であるが、単に映写技術のレベルにおいてだけではなく、映像自身のなかで古い技術と新しい技術とがじかに接し合うことになる。
 この映画が描く西暦二〇二六年の都市では、上流階級と労働者階級とが極端に異なる生活を営んでいる。前者はこの大都市にそびえ立つ超高層のビルに住み、楽園生活を送っている。後者は都市の地下にある大工場で過重な労働を強いられている。そこに、労働者たちの信仰的な信頼をかちえているマリアという女性がおり、その存在に不安をおぼえたこの都市の支配者がプラハのゴーレム伝説の魔術師を思わせる人物にマリアとそっくりの人造人間を作らせて労働者を操作しようとする。ところが、このエロティックなアンドロイドは、労働者を挑発し、地下工場に暴動を起こさせてしまう。
 この女性アンドロイドに率いられて労働者が工場を打ち毀しながら走り抜けてゆくシーンと、そのために排水装置が止まって地下街に水が流れこみ、人々が逃げまどうシーンは、エイゼンシュティンの『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段の場面やプバフキンの『母』のデモ・シーンに劣らぬ迫力をもっており、一見に値する。しかし、感動する一方でわたしは、この映画技術が、あたかも巨大なオーブンのなかに群衆を閉じこめ、その庫内温度を上げることによって彼らを走りまどわせて楽しんでいるかのような印象をフッといだいてしまうのだった。これは、モロダーの再編集がもたらした逆説的な成果である。
 新しいテクノロジーは人間をレイプし、そういう仕方で新しい感覚を作り出してきた。そうした最新の映画テクノロジーがおしみなく投入されているラングの『メトロポリス』は、その内容が一見テクノロジーの発展を批判しているように見えながら、その実、テクノロジーへのオプティミズムにもとづいている。だから、最後に、この都市の支配者と労働者はあっさりと和解してしまうのである。これは、まさにワイマール時代の政治的な不徹底さをはからずも反映しており、そのツケは、次のナチ時代になってレイプ・テクノロジーの全般化という形でまわってくるのである。
監督・脚本=フリッツ・ラング/出演=ブリギッテ・ヘルム、アルフレット・アーベル他/26年独/新版84年米◎84/12/20『カメラ毎日』




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