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グロリア

 ジョン・カサヴェテスといえば、アメリカでは、今日の映画世代に最も強い影響を与えた監督の一人として、ロバート・アルトマンやフランシス・コッポラに比肩されるが、日本では、一九六五年にライオネル・ロゴーシンの『バワリー25時』といっしょにアート・シアターで封切られた『アメリカの影』の斬新な演出を記憶している人よりも、『パニック・イン・スタジアム』でSWATの隊長に扮した俳優カサヴェテスのイメージを記憶している人の方が多いだろう。たしかに彼は、数多くの映画やテレビに出演してきた。が、それは、主として独立プロの作品を作る資金かせぎのためであり、実際に彼は、そうした資金によって製作・監督した作品によってアメリカ映画の世界に強い影響を与えてきた。
 だが、カサヴェテスの映画は、彼が同時に役者であることとも決して無関係ではない。ジェイムズ・モナコは、『アメリカン・フィルム・ナウ』のなかで、カサヴェテスの演出法をチェーホフの作劇法になぞらえ、彼は役者の才能と技術を全面的に生かす〈役者中心主義〉の監督だと評しているが、この方向は、彼を一躍有名にした『アメリカの影』(一九六〇)から最近の『Iープニング・ナイト』i一九七七)にいたるまで一貫しており、また今回とりあげる『グロリア』もその例外ではない。
 実際、マフィアに一家を惨殺された六歳のプエルト・リコ人フィルを演じるジョン・アダムズの演技は、教え、指導された演技というよりも、むしろ彼自身のなかから湧出したものであり、この映画は、彼の個性や才能にあわせてつくられたと言っても過言ではない。このことは、役者として豊富な経験をつんでいるジーナ・ローランズの場合でも同様で、彼女は、『ピープル』誌が言うような「全盛期のハンフリー・ボガートを思わせるようなタフな女」を見事に演じたのではなく、今日のアメリカの(とりわけニューヨークの)一人の女として、個人として自分を表現しつくすことによってあのリアルなパーソナリティをつくり出したのである。それは、決してマフィアの親分の元情婦という特殊なパーソナリティにつきるものではなく、アメリカの働く独身女性の誰しもがふだんは無意識のなかにとじこめているようなパーソナリティを表現しているのだ。
 その意味では、この映画は、犯罪映画やアクション映画であるよりも、むしろ個人と個人(この映画で、女と子供があくまでも〈個人〉として描かれているのは特筆に値する)の連帯をあつかった映画であり、血なまぐさい殺人やサスペンスが主題をなしているようにみえながら、映画の社会性は、むしろ『クレイマー、クレイマー』に一脈通じており、しかも『クレイマー、クレイマー』よりもはるかに鋭い社会性をそなえているのである。 生まれたときから暮してきた家族からある日突然もぎはなされる子供、家事や育児などまっぴらごめんだと思っている独身女性−−これらは、伝統的な人間関係が崩壊し、〈ォ〉、膜牛・〉、哩ニ庭?誤植〉ニいった観念そのものがラディカルに変わろうとしている今日のアメリカ(とりわけニューヨーク)を最も特徴づけている要素であり、アメリカ人にとっては決して避けて通ることのできない問題である。カサヴェテスの映画では、つねに、家族の問題が一つの大きなテーマになっているが、『グロリア』も、〈齔ォ愛〉とか、?膜潔潤rとか〈人種的絆〉とか〈男女愛〉とかいった伝統的な人間関係が全然通用しない状況を設定し、そこで個人と個人がいかに連帯しあえるかを問うている。その意味では、家庭が部屋とそこに住んでいた人々もろともにショットガンで破壊されてしまうというイメージほど、家庭の破壊ということをストレートに印象づけるものはないし、また、そうした家庭の父親を『パパ/ずれてるゥ!』のバック・ヘンリーが演じているというのもなにやら暗示的だ。
 ところで、カサヴェテスが役者の個性と才能を生かすやり方は、『グロリア』では、街を描く際にもそっくりそのまま踏襲されていると言える。この映画には、ニューヨーク市のブロンクス、マンハッタン、クイーンズ、ニュージャージー州のニューワークの街々が登場するが、カサヴェテスは、これらの街をドラマの単なる書割としてではなく、ドラマの構成に参加する〈役者〉としてあつかっている。言うなればカサヴェテスは、あらかじめ決められた効果や雰囲気をつくり出すために街を使うのではなく、街に語らせるために街を撮影するのである。
 すでに冒頭のシーンがそれを暗示している。カメラは、ブルックリン・ブリッジのかかるイースト・リヴァーの夜景、自由の女神、クイーンズボロ・ブリッジ、朝方のヤンキー・スタジアム……をロング・ショットで撮影してゆくが、一見、マンハッタン島の周囲のひとつながりの情景を移動撮影しているようにみえながら、情景自身は、夜から昼間へとカメラの時間とは全く別の時間を生きているのである。つまりこの映画では街は、カメラによってとらえられるのではなく、カメラに向かって語りかけてくるのであり、その意味で、ここでは街の〈表情〉や〈身ぶり〉が、登場人物たちの表情や身ぶりにまさるともおとらぬくらい多くのことを物語っているわけである。
 惨劇が起きるアパート・ビルは、サウス・ブロンクスのヤンキー・スタジアムのすぐ近くにある。サウス・ブロンクスと言うと、いまでは、もう少し北方の−−ちょうど『ジャグラー ニューヨーク25時』に出てくる−−ビルの廃墟がつらなる一帯を思いうかべがちだが、マンハッタンからハーレム・リヴァーを越えて数ブロック行っただけのこのあたりは、ブロンクスと言っても、雰囲気はマンハッタンに似ている。もっとも、マンハッタンは、物理的には碁盤の目のように区画されていて、空からみるとどこも同じようにみえながら、実際には通りが一本ちがっただけで環境が別世界のように変わるから、もっと正確な言い方をしなければなるまい。『グロリア』のおもしろさの一つは、マンハッタンのそうした多様性をみせてくれる点だ。
 ヤクザの組織を完全に敵にまわしてしまったことをさとったグロリアが、銀行であり金を下ろし、バスでブロードウェイをワンハンドレッドテンス・ストリートのあたりまで下って、今度はタクシーにのりかえてイースト・エイティシクス・ストリート2番地のアパートメント・ハウスへ行く。ここは、フィフス・アヴェニューをはさんでセントラル・パークを真近にひかえ、美術館や高級アパート・ビルがたちならぶ。プエルト・リコ人の子供を連れたとてもカタギにはみえない女にすぐ部屋を貸すようなホテルもアパートメント・ハウスも、このあたりにはない。グロリアとフィルは、フロントに「ウィ・ハヴ・ノー・スペース」とニベもなく断られる。が、そのときのグロリアのせりふがよかった。「あたしらは、スペースじゃなくて部屋をさがしているんだよ!」
 もっと庶民的な所に行こうと言ってグロリアは、バスでマンハッタンを南下し、グランドセントラル駅からIRTの地下鉄に乗ってクイーンズのウッドサイドに足をのばす。そして駅前のフラット・ハウスで二人は一夜をすごすのだが、その宿泊代が二ドル五十セントである。フィルが窓から外をのぞくと、駅前の路上をハデな服を着た女が客を求めて走ってゆく。このフラット・ハウスは、売春婦が客をくわえこんだり、流れ者が一夜の宿をかりるドヤで、マンハッタンにもバワリーやスパニッシュ・ハーレムなどの貧民街に行くと必ず何軒かあるが、部屋代はもう少し高い。
 ところで、グロリアとフィルはこうしたドヤにばかり泊まるわけではない。サーティフォース・ストリートのペン・ステイションのホテルにも泊まるし、ニューワークのホテルにも泊まる。わたしは、ドヤやホテルを転々と泊まり歩く二人の姿をみて、ギャングに追われて逃げまわる女と子供というイメージよりも、ニューヨークにいる典型的な親子のイメージを思いうかべた。というのも、ニューヨークでわたしが見慣れた親子というのは、たいてい片親と一人っ子の組み合わせで、そういうカップルが、幾組も、ごく普通に、もともと親子というものはそういうものであったかのように暮していたからである。あきらかに、両親そろった家庭というものは崩壊しつつあり、両親がそろった家庭があっても、その両親は再婚したカップルで、子供は片方の親としか血縁関係をもっていないのである。
 こうした傾向が映画に反映されないわけはなく、『クレイマー、クレイマー』にみられるように、今日のアメリカ映画がとりあつかう最もナウな親子関係は親一人子一人なのである。その意味で『クレイマー、クレイマー』がこうした片親子関係の日常的な側面を描いたとすれば、『グロリア』はまさしく、その非日常的側面、つまりその夢多き部分を描いたのである。
監督・脚本=ジョン・カサヴェテス/出演=ジーナ・ローランズ、ジョン・アダムズ他/80年米◎80/12/ 2『キネマ旬報』




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