トランスローカルなウェブへ(18)

『マックパワー』1996年9月号

  Macのユーザーならば日々思い知らされていることだと思うが、
コンピュータのパフォーマンスが上がれば上がるほど、重要なの
はフィーリングやセンスになる。ここで「コンテンツ」や「コン
セプト」と言わないのは、これらの語は、まだ、頭でっかちで観
念的な感じが強いからだ。
  キーボードやマススの操作がどんなに早くても、また、コンピ
ュータ言語の知識がそなわっていても、それだけでは、ろくなホ
ームページも作れない。むしろ、漠然とであれ、新しいセンスが
パッと浮かぶことが先決で、装置やテクニックは、それを具体的
にどのように映像化したり、音にしたりするかという過程で問題
になるにすぎない。
  ただし、このことは、技術的な操作の前に全体像が浮かんでな
ければならないなどということではない。表現がもはや「表象」
されたものを「エクス」(外へ)「プレス」する(出す)ことで
はなく、また、「リ」(再)「プレゼント」(現)することでも
ないということは、これまでさんざん言われてきたが、まだまだ
そんな誤謬が念仏のようにとなえられているので、こんなしつこ
い言い方をしなければならない。
  皮肉なのは、そういう論述を好んでふりまわすアートの世界で、
依然として表象→表現という図式が実践されていることだ。特に、
「ハイテクアーティスト」のやることといったら、大体が、「全
体のイメージ」を提示して、あとは、技術屋さんにまかせること
である。わたしも、アート展に関わりをもってきたが、電子テク
ノロジーを使ったアートの大半が〈発注芸術〉なのにはあきれる。
ロクに映画のこともわからないやとわれ映画監督が必ずといって
よいほど、キャメラのレンズを覗いているスナップを撮りたがる
のは、その技術コンプレックスをとりつくろっていてまだ可愛げ
があるが、ハイテクアートのアーティストときたら、コンピュタ
ーの前に座ってアリバイを作るどころか、最初からSEにおまかせ
してあっけらかんとしているのだ。
  それが、最初からコラボレイションとして設定されているのな
ら、ともかく、そのSEたちは黒子でしかないのだから、問題だ。
それが、分業を本質とするモダニズムの時代であれば、首尾一貫
したことだとしても、一方で脱モダニズムを標榜し、「表象=再
現前の時代は終わった」てなことを言いながら、その一方で、そ
れを実践しているのだから話にならない。
  考えてみると、それは、建築がアートと見なされるようになっ
てからの傾向だろう。モダニズムの時代でも、ブラッシを握れな
い、デッサンの出来ない絵描きは少なかった。コンセプトだけ出
して、あとは設計者や現場の人が具体化する――しかもそれが
「アート」と見なされる――ようになるには、そう昔からのこと
ではない。ハイテクアートは、そういうモダニズムのなれの果て
の伝統を引き継いでいるわけだから、そこには、新しさなどある
わけがない。
  アーティストが作品の技巧的・技術的側面に責任を持つという
ことは、別に前近代の伝統ではない。というよりも、アートは、
技巧的・技術的なものとの格闘のなかで新しい「コンテンツ」や
スタイルを創造してきたのであって、最初に全体像などがあった
わけではない。アーティストが一人で制作できない大がかりな作
品のために技術者の助けを借りる場合でも、自分で出来ないから
他人にやってもらうというのでは、ダメなのだ。
  しかし、そうなると、CGの操作にしても非常に特化した形での
専門技術者が相当数かかわらなければ出来ないいまの映画などは
アートではないということになるだろう。そのとうりである。そ
ういうものは、アートでなない! それは、「エンタープライズ」
(事業)であっても、アートではない。むろん、エンタープライ
ズが悪いわけではないが、流れ作業や高性能のマシーンで作った
食品を「料理」とは呼べないように、それは、アートとは区別し
なければならないのだ。料理には、料理人による料理のプロセス
があるように、アートには、アーティストによるアートの技術的
・技巧的プロセス、素材との融和や闘いの一回的なプロセスがあ
る。
  先日、わたしは、小杉武久の演奏を聴きに神戸に出かけた。
6月から芦屋市立美術博物館で彼のサウンド・インスタレーシ
ョン展と実演などがやられていて、7月6日に最後の演奏があ
るのだった。わたしは、国内に関しては恐ろしく出無精だが、
小杉の演奏には、けっこう行っている。
  小杉武久は、日本のみならず世界のラジオ・アートやサウン
ド・アートの草分けの一人であり、現代音楽の重要なアーチス
トであり続けているが、自分の雑文を記録に残すということに
熱心ではなかった(概して、彼ら「フルクサス」のアーティス
トたちはそうであった)ので、実演という一回的な出会いが極
度に重要になる。幸い、近年は、大阪でサウンド・アートを主
にサポートしているHEAR (TEL.06-447-5534)の岡本隆子さんの
努力で小杉や彼の周辺のアーティストの活動が資料化されつつ
あるが、小杉の場合、たとえば、観客の要望に応えてサインを
するようなアクション一つとってみても、ある種のパフォーマ
ンスであるようなアーティストであるから、そもそもヴィデオ
や本やCDで彼のアートを追体験しようということ自体がまち
がいなのである。
  とはいえ、岡本さんが最近プロデュースしたCD「group 
ONGAKU」(HEAR-002)は、1959年に小杉が刀根廉尚(在ニュ
ーヨーク)、水野修孝、塩見千枝子(現、允枝子)らと共に結
成した「グループ音楽」の60年と61年の演奏テープを初め
て公開した。小杉らのパフォーマンスには、いつもミステリア
スなことがつきまとうが、このCDも、すんなり出来上がった
ものではない。そのディスクは、最初、アメリカでプレスされ、
日本に空輸されたのだが、空港から業者に配達される途中で、
それを積んだトラックが横転して炎上し、運転手は死亡、CD
は灰となってしまったという。現在の版は、展覧会に間に合わ
せるために日本で急遽プレスしなおされたもので、枚数も少な
く、もはや入手が難しくなっている。
  エレクトロニックスを駆使する今日のアーティストのなかで、
小杉武久ほど、テクノロジーを身体化してしまうアーティストは
少ない。彼は、インスタレーションの電線一本もすべて自分で取
りつける。音を出す装置の大半は、日本橋や秋葉原、果ては海外
のどこかのラジオマーケットで手に入れた部品で自ら組み立てた
ものであり、コンピュータ類も、その機能を知り尽くしたあとで
ないと使うことはない。
  その日も、朝から1、2度休んだだけで、夕方5時まえまで、
特製の電気ヴァイオリンとワイヤレス送信機、エフェクター、P
Aなどを結びつけた装置を縦横に駆使し、見たところは、会場の
中央に上向きに置かれた大きなスピーカーの上に吊されたマイク
でフィードバックをしているだけのようなのに、小杉がヴァイオ
リンを弾きながら会場を動きまわると、実にポリモーファスな音
場が多重に、多元的に生み出されるのだった。
  テクノロジーがアートになるるには、むなしい時間を必要とす
る。映画は、8ミリ映画が普及し、そして8ミリビデオが一般化
して初めてアートになることができた。手紙は、いま、一部でア
ートになろうとしている。(わたしは、いま、「メールアート」
のことを言おうとしているのではない)。手書きの、郵便局を通
す手紙は、インターネットの電子メールによって、確実に、その
実用性を半減した。が、そのときになって初めて、それは、個々
人のフィーリングやセンスを集約的に帯電させるアート的なフィ
ールド(場)となった。
  インターネットが、アートになるためには、いま過剰によせら
れている期待が失われなければならない。それが、動画、アニメ、
ヴァーチャル・リアリティ、ライブ・ラジオ、デジタル・マネー
等々の便利な装置であるかぎりは、まだアートになることはでき
ない。
  しかしながら、テクノロジーは、他方、先駆的な実験という形
でアートになることが出来るし、これまで、すべての実験的なア
ートは、そう言う形でアートを再生してきた。スターンの『トリ
ストラム・シャンディ』は、まだ小説という形式が全盛をほこっ
ていた時代にその終末を先取りした驚くべき実験であった。映
画でもヴィデオでもそのような実験はかぎりなく発見できる。
だから、インターネットも例外ではないだろう。
  わたしが繰り返し記述してきたコンピュータにまつわる「ト
ラブル」の数々も、単に出来の悪いマーシーンと愚鈍なユーザ
ーとの出会いとしてではなくて、テクノロジーをアートに転換
する実験の意識的・無意識的なプロセスの一つと見なしてほし
いと思う。わたし自身は、一度もコンピュータを道具と考えた
ことはない。手でこね回す彫刻の素材、まずは身体化しなけれ
ば何も始まらない楽器のようなもの。最初は機械だとしても、
いずれはドゥルーズとガタリがアルトーを発展させて言った
「器官なき身体」にすること。だから、使いこなせない部分が
あってはならないし、セットアップをひとまかせにすることは
できないのである。
  インターネットで、自分のマシーンやサイトで〈何〉を実現
するかということに先だって、日々、どのようにそれらを使う
かということを意識せざるをえないのも、そのためだ。それは、
いわばレッスンでありデッサンである。舞踏家が自分の身体を
本当の意味で知らないでどうして踊ることなどできようか?
  現実は、しかし、コンピュータとのそうしたつき合いを「無
駄」なものと見なす傾向が強いし、その傾向はますます強くな
りそうである。実用的な道具としてのコンピュータ。それに関
する情報も、それにともなってますます使い捨てのものに限定
されていく。
  先日、わたしは、自分のイントラネットの調子がおかしいの
で、それまでいいかげんにしてきた物理的なイーサネット・ア
ドレスをマシーン一台ごとに点検することにした。が、自分で
愕然としたことに、UNIXマシーンとは違って、Macについては、
わたしだけでなく、周囲にいるMac使いがそれについて全く知
らないということだった。結局、これは、アップルコンピュー
タのテクニカルカスタマーズ・センターで教えてもらったのだ
た、話のわかる人につながるまでが大変だった。
  センターによると、「通常は」、MacTCPを立ち上げ、Option
キーを押しながら、「Ethernet」のところをクリックすると、
その画面に番号が出てくるが、ときにはうまくいかないときも
あるという。そして、そのときは、テクニカルカスタマーズ・
センターにフォーマット済みのフロッピーを送り、
GetEtherAddress というソフトを入手してほしいという。 幸
い、わたしの場合は、すんなり、MacTCPの画面に16進の番号
が現れ、一件落着した。
 こんなことのくりかえし。おそらく、この一見不毛な手仕事の
なかで、何かが生まれてくるのだろう。それは、何か?
  この連載は、紙面の急な都合で、今号かぎりで終わりである。
この続きは、わたしのホームページ(http://anarchy.k2.tku.ac.jp)
と電子メール(tetsuo[at]cinemanote.jp)で!! バイ・ナウ。