『マックパワー』1996年5月号
月初めに北イギリスのサンダーランドでラジオアートに関す る集まりがあり、招待を受け、レクチャー・パフォーマンスを やりに行った。「ヒアリング・イズ・ビリーヴィング」と題す るこの集まりには、カナダからダン・ランダー、オーストラリ アからダグラス・カーン、オーストリアからハイディ・グルン トマンといったラジオ・アートないしはオーディオ・アートの 名うての人物たちが集まり、発表を行なった。 この種の集まりに行っていつも思うのは、日本のように主催 者側の「強制」が少ないことだ。日本の場合は、宴席はむろん のこと、観光旅行までびっちりセットされていて、自由時間が 全くないことが多い。ここには、過剰なホスピタリティがそう させている面もあるが、むしろ、招いた以上ゲストをとことん 有効に使ってやろうというケチな魂胆が感じられなくもない。 サンダーランドというのは、北海に面し、スコットランドに 近い小さな町である。行く前に、どんなところかと思い、Yahoo で検索してみたら、市のカウンシルがやっているホームページ が出てきた。それで見るかぎり、あまり見るべきところがない ようだったので覚悟して行ったが、都心部の規模は吉祥寺ぐら いの大きさがあり、半日歩きまわっても見切れなかった。 1日早く行ったわたしは、早朝に目を覚ました。早朝に起き るなどということは、日本ではめったにない。フルーツのたっ ぷりついた朝食を堪能し、午前8時にはホテルの前の海岸を散 策した。気温はそれほど寒くない。緯度では北海道より北に位 置するが、メキシコ湾の暖流のために、気温はそれほど低くな らないのだと聞いた。が、東京と違うのは、およそ人影が少な いことだ。これは、どこへ行っても感じることで、東京の街に 比べると、西欧の町は「死んで」いるかのように見える。 わたしの場合、講演をやるときでも、パフォーマンスをやる ときでも、その現場の環境に自分の身体を馴染ませておくとう まくいくことが多い。へたな準備をするよりも、現地に入る時 間をなるべく早く取り、現場で講演の原稿を書いたり、パフォ マンスの材料を買いそろえたりする方がよい結果をもたらすこ とが多いのである。今回は、45分という短い持ち時間なので、 しゃべるテキストや資料映像は日本で準備を済ませていたので、 あとは、身体のなかへ現地の〈気〉を吹き込むだけだった。 ひと気のない住宅街を抜けると、小さな商店が集まっている エリアがあった。肉屋、服飾品の店、雑貨屋といった田舎のあ りきたりの店だけだが、ウィンドウのなかの品物は、わたしに はめずらしいものもある。しばらく歩くと、またひと気のない 住宅街になる。そんな空間移動のくりかえしを何度か経験した 後、川に出た。永代橋ぐらい鉄橋を渡ると、サンダーランドの 都心部に達する。 ここもご多分にもれず、新しくショッピングモーるが出来、 その一角にコーヒーとスナックのスペースがある。最近は、ど こへ行っても、ショッピングモールばやりだ。CDとヴィデオの 店、ケーキ屋、靴屋、衣料品店・・・吉祥寺あたりと変わらな い。が、コンピュータに関しては、ぐーんとレベルが下がる。 店も少ない上に、あっても本気で売る雰囲気ではない。 この点ロンドンは、もう少しマシだが、東京やサンフランシ スコに比べると、コンピュータを家電並に購入するという傾向 はまだ始まっていない。サンダーランドの帰りに4日間ロンド ンを徘徊したが、コンピュータの販売店が集中しているトッテ ンハム・コートのグッジ・ストリートとウォーレン・ストリー トのあいだを歩いても、秋葉原や新宿西口のコンピュータ街の 活気とは程遠かった。 しかし、それでは、コンピュータに対する一般の関心が薄い のかというと全然そうではないことがおもしろい。ある日、ロ ンドンのゴワー・ストリートの有名なディロン書店に行き、各 階をうろついて、本を物色し、地下のコンピュータ本のコーナ ーに行った。ソフトとハードの本をつまみ食いしながら、奥へ 進むと、どこからか複数の人間がキーボードを激しく叩く音が 聞える。事務所があるのかと思ったが、それにしては音が活発 すぎる。 Windows95のパッケージが積んであるのが見えたので、近づ くと、何とその奥の狭いスペースがコンピュータ・ルームにな っていて、子供と大人の顔が見えた。簡単な受付があって、 Dillons Cyber.St@tion Internet Instoreというデザイン文字 が見える。聞いてみると、ここで3ポンド払うと30分インタ ーネットを使えるという。あとは、10分ごとに1ポンド。ペ ンティアム・マシーンが8台あり、64Kのラインに接続されて いる。 本のスペースに比べ、そのスペースは極度に狭く、その上、 キーボードを叩いている人に後ろには大抵誰かが立っていて、 そのモニター画面をのぞいているから、さらにスペースは狭く なる。このときは、3人子供がアクセスしていて、その後ろに は親らしいおばさん、おじさんが立っていた。子供たちは、ど このサイトかわからないが、立体のショッピング・モールにぐ んぐん侵入していくウォークスルーのサイトにアクセスしてい た。 一見、最新のテクノロジーを拒否しているようでいて、古め かしいドアーを一つ開くと、そこからハイテクが出てくるとい うのが、どうもヨーロッパのやり方らしい。チェアリング・ク ロスの老舗書店フォイルでも、20年間変わっていないように 見える本棚のかたわらにコンピュータが置かれ、本の検索とイ ンターネットが出来るようになっていた。日本のように、「イ ンターネット」という言葉だけは誰でも知っているが、その実、 意外と使われていないというのとは、全く違うやり方で着実に ハイテクが浸透しつつあるという印象をおぼえるのである。 さて、「ヒアリング・イズ・ビリーヴィング」で、断然おもし ろかったのは、ウィーンのハイディ・グルントマンのプレゼン だった。彼女は、ヴィデオで彼女が関わっている最近のラジオ ・アートの実験を見せ、それからパソコンを使って彼女のグル ープのホームページ (http://kunstradio@thing.or.ost/) を 紹介した。"kunstradio"とはドイツ語でラジオ・アートという 意味である。 このとき彼女が使ったマシーンは、Windowsマシーンで、会 場になっているサンダーランド大学のコンピュータ・ルームか ら借りたものだった。それも、前々から周到な準備がしてあっ たというようなマシーンではなく、ごくありきたりのPCだっ たが、それが、すぐに会場のプロジェクターに連結され、モニ ター画面が大きなスクリーンに映し出された。プロジェクター が、マルチスキャンになっていたのである。 これは、一見、ささいなことであるが、実は、重要なことであ る。 日本では、パソコン画面をヴィデオ画面に出したいと思って もダメなことが多い。スキャン・コンバータを用意すれば別だ が、会場に用意されたパソコンがヴィデオ出力をもっているこ とは稀だし、パソコン画面とヴィデオを交互に出せるようにな っていないのである。が、この問題は、プロジェクターをマル チスキャンにしておけば、一挙に解決するのである。もっとも、 わたしの大学の教室のプロジェクターは、マルチスキャン方式 であるにもかかわらず、天井のプロジェクター部分のスイッチ をいじらないとMac やWindows のリフレッシュレートに合わせ ることができないようになっている。要するに、コンピュータ とヴィデオをいう異機種を交流させるという発想がなければ、 せっかくの装置も意味がない。 今年の「ヒアリング・イズ・ビリーヴィング」では、実演よ りもプレゼンを重視したが、わずかに「スキャナー」がライブ 演奏を披露した。スキャナーというのは、ロビン・ランボーと いうスキンヘッヅ(但し「極右」では全くない)の人物の別名 で、近年は、普通のレコード店にも彼のCDが並ぶほどメキメ キ知られるようになった。その基本的なスタイルは、盗聴した 電話やマイクロウェーブ回線の声、ラジオ、テレビからのノイ ズを使って演奏するというもの。 スキャナーの作品には、ピアノをひきながら、それに電話の 声やラジオのノイズをブレンドしていくようなリリカルなもの もあるが、アンビエント・ミュージック風のものからオーディ オ・アート、ラジオ・アートまで多彩な実験を試みており、実 際に話をしてみても、なかなか知的で、かつ反逆的なセンスの 男だった。ロンドンのMTVのビルの屋上に密に登り、そこのパラ ボラアンテナと平行にポータブルのアンテナを立て、その電波 を盗聴するというようなこともやる。 いまアートの世界で送信ということに関心が向いているのは なぜだろう? わたしが、「アーティスト」としてラジオ・ア ートの集まりに招かれるということがすでにそのことを示して いるが、「ヒアリング・イズ・ビリービング」の初日、わたし は太さ8センチ、長さ50センチほどの筒を受け取った。わた し宛てに届いたのだというが、気持ちが悪い。爆弾かもしれな い。添付されていた手紙を読むと、それは、ロンドン在住のア ーティスト、キース・ド・メンドンカからのもので、なかには、 FM送信機が入っているという。しかも、あろうことか、その アイデアは、わたしのホームページの「マイクロラジオ」をサ ーフするうちに、わたしがデザインした送信機のマニュアルを 見つけ、そこから得たというのである。 残念ながら、その筒に封入された送信機は途中でバッテリー が切れたのか、作り方が悪かったのは、すでにこと切れていた が、ちゃんと作動すれば、郵便の輸送中に付近のラジオにノイ ズを入れたり、その送信機に接続されたマイクからの音を聞か せる仕掛けになっていた。彼は、これをメールアートの発展だ という。その昔、輸送中に作動するようにしたビデオカメラを 小包便で送り、そのときの画像を使って作品を作った人がいた が、この試みは、何も記録しないという点で、これとも違う。 それに、どこかズサンな感じがしておもしろい。 アートにせよ思想にせよ、既存領域の逸脱ということに挑戦し なければ、新しいものはうまれないことはいうまでもないが、 そうした領域逸脱の風は、いま、ヨーロッパで強くなっている ように思う。西ヨーロッパでけではない。東ヨーロッパ(たと えばプラハやブダペスト)でも、領域逸脱の風は強くなるばか りだ。さて、日本はどうなのだろうか?