トランスローカルなウェブへ(12)

『マックパワー』1996年3月号

  1月18日午前3時。真っ白なワープロ画面に、はて、何を
打ち込もうかと想念を集中させようとしていると、急に「アー
トの記念祭」(L'Aniniversaire de l'Art) のことを思い出した。
数日前、パリからこの祭りへの誘いの FAX が舞い込んでいたの
だが、すっかり忘れていたのである。
 「アートの記念祭」というのは、FLUXUS 系のアーティストの
ロベール・フィリウ (Robert  Filliou) が1963年に始めた
まさにトランスローカルなプロジェクトで、毎年1月17日に
「芸術の誕生」を祝おうというものである。フィリウ曰く、「
人間なしにアートはなく、アートなしに人間はない」。198
7年、ヴァンクーヴァーのハンク・ブルらの影響で、この祭り
は、同時にFAXアートの祭りにもなった。わたしが、この祭りの
存在を知ったのも、この時点からである。
  この祭りのいいところは、すべてやりたい者がやるという徹
底した自発性にまかされている点だ。「今年はおれがやる(主
催する)よ」と、誰かが言いだし、何かのイヴェントを決める。
あとは、そこにFAXなりテレビ電話なりインターネットなりをつ
なげばよい。参加者も自由意志であり、その情報は個人的なネ
ットワークで流されるだけ。だから、場合によってはひどく盛
り上がりに欠けることもある。また、その反対に、1991年
のときのように、湾岸戦争とぶつかり、この戦争をめぐる議論
と作品が活発にやりとりされたこともある。そのとき、たまた
まアンマンにいたあるアーティストは、イラクへの空爆に飛び
立つ米兵の姿をアンマン空港で撮影し、それをホテルからテレ
ビ電話で送った。それは、おそらく、空爆の開始を一般に知ら
せた映像としては世界で最初のものだったろうと言われている。
しかし、だからといって、そのことがマスコミで取り上げられ
たりしないというところがいいのである。
  今年は、パリのアラン・ジベルティが引き受け、ラームズ・
パークとレリントンというバーにノードを設定した。夕方6時
開始。祭りだから、パーティとイヴェントがメインだが、そこ
に外からメディアによる介入を行なう。今回のメディアは FAX 
だけ。わたしがもらった FAX には、詩の朗読やパフォーマンス、
FAXアートなどの予定が記されているが、現場に行けない者が介
入できるのは、FAXアートだけだ。
  日本時間の午前3時は、パリ時間では前日の午後7時。だか
ら、パーティはまだ始まったばかりであり、FAX を送るには最
適の時間である。ワープロ画面の空白に小型の広場恐怖症的発
作をおぼえたわたしは、その画面を放置したまま Draw を新た
に立ち上げた。画像を入れたディレクトリをのぞいたら、ホー
ムページで使おう思ってスキャンしたあったワルター・ベンヤ
ミンの顔写真があったので、これを使うことにする。あとは、
丸や四角の図形を組み合わせて思いつきの絵を作る。題して、
「デジタル的複製時代の芸術の1,000,033 回祭」(1.000.033 *?me
 Anniversaire de l'Art dans l'*?poque de la reproduction 
digitale)。1.000.033回というのは、よくわからないが、もら
ったFAXに、今年は「1.000.033回目」だと書いてあったのだ。
  さて、それから数時間して、そろそろ空が明らむころになっ
て、かたわらの FAX マシーンがピッと鳴って、紙を吐き出しは
じめた。ウェブ・アクションが始まったのである。今回は、
(どちらかというと電子メディアよりもライブに熱を入れる)
フランスがノードだったこともあってか、FAXのやり取りは地味
だったようだ。早書きに手書きしたものや大半が文章から成る
ものが数枚フィードバックされた。
  FAXも完全な自発性でやり取りされるので、わたしが送ったか
らといって、その返事が必ずくるわけではない。パリに送った
わたしの作品がどこに転送されるかもわからない。誰かが見て、
バーのテーブルの上に放置されてしまったかもしれないし、と
んでもないところに転送され、その一部に表示してあるこちら
の FAX 番号を見た人が、何かを返してくることもある。すべて
は偶然とハプニングである。この辺に FLUXUS の精神が依然脈
打っている。
  幸い、わたしは、この日、アリゾナ州のテンピーから3ペー
ジのおもしろい FAXを受け取った。わたしのものが、パリから
テンピーに転送されたわけである。そのなかの一つの図柄は、
わたしが送ったものに呼応している。そして、わたしのよりも
もっとアクチュアルである。これを見て、わたしは、もう少し
アクチュアルな感じを出せばよかったと後悔する。しかし、こ
の手のウェブ・アートは、リンクされた集団的流れのなかで誰
かがおもしろいことをやればよい。おれが、わたしが、という
ことは重要ではない。この「芸術の誕生」を祝う祭りでは、誰
もコピーライトや作品の所有権などということを問題にしない。
どんどんコピーし、変形して送ればいいし、さもなければ、こ
の祭りは成り立たない。
  テンピーからの FAXアートの絵の一枚は、設計図風に描かれ
ている。中央に丸いフラスコがあり、そこに放電装置のような
ものが付いている。そこで作られているのは「アメリカ人」だ
ろうか?  装置のフィルター部分のような個所に説明がある。
「エレクトロニクス産業」と結び付いた「メディア」から延び
ている左の放電装置には、「国際条約と合意」、「宗教右派か
らの圧力」、「PACの金」とある。PACとは、政治基金を募って
候補者に「寄付」する機関である。そして、左側の装置にも、
「巨額な麻薬取り引きの影響」、「安い石油製品へのアメリカ
の依存」という皮肉の利いたコメントがある。
  なるほど、いまのアメリカのメディアは、これらの関数のな
かで青息吐息である。この状態は、やがて日本にも影響を及ぼ
さないではいないだろう。すでに、一昨年ごろからおかしな状
況が生まれはじめていたが、最近の動きは、ただごとではない。
とりわけインターネットにおける検閲の問題は、ある意味で、
40~50年代の「赤狩り」を思わせるところがないでもない。
  最初、テレコミュニケーションに関する法を変えようという
動きが出たとき、そこには検閲や倫理の問題は入っていなかっ
た。電子メールのプライバシーの問題、コピーライトや暗号の
問題はあったが、既存の法律をスーパー情報ハイウェイの計画
に見あったものにするとか、インターネットを連邦通委員会 
(FCC) の管轄にするかどうかといった側面が議論の中心だった。
ところが、インターネットが急速に普及するなかで、風向きが
変わってきたのである。
  まず、1995年6月14日に、テレコミュニケーション改
正法案に Communication Decency Act (CDA) が加えられること
が上院で可決された。CDAというのは、直訳すると「コミュニケ
ーション上品法」とでも言うべきもので、有線による通信にお
いて卑猥や猥雑な表現を禁じる法律である。これに対し、すで
に多くの反対がわき起こり、インターネット上にいくつもホー
ムページが出来た(たとえば http://www.cdt.org/) が、宗教
団体の多くは、この法案を支持した。が、まだこの段階では、
テレコミュニケーション改正法案に CDAだけでなく、さらに罰
則をもり込むという動きは主流にはなっていなかった。
  問題が一挙にエスカレートしたのは、雑誌『TIME』の月3日
号が「サイバーポルノ」特集をしてからである。このなかでカ
バー・ストーリーを書いているフィリップ・ウィルマー=ディ
ウィトがもとにした資料は、ジョージタウン大学のマーシー・
リムが『ジョージタウン法律学紀要』(6月号)に書いた「研
究」論文である。そこで、リムは、「現在インターネット上に
載せられている90万枚のデジタル画像のうち、 83.5%がポル
ノである」と指摘した (Http: //www2000.ogsm.vanderbilt.edu/cyberporn.debate.cgi)。
  こうした数字の根拠がどこにあるのか、するていと、オレの
ホームページの画像も勘定に入っているのかい、ということは
不明だが、毎度のことながら、世のなかの動きは、そういうこ
ととは無関係に進む。7月26日、グラスリーとエクソンの両
議員がこの問題を議会で取り上げ、キャンペーンを張った。そ
して、ついに8月4日、「10万ドルの罰金と2年間の懲役」
刑を含むテレコミュニケーション改正法案が下院を通過してし
まった。現在、この法案は、両院協議会でその最終ヴァージョ
ンが審議されている段階だが、この法案をとりまく最近のアメ
リカの社会的雰囲気からすると、いずれ上院を通過し、立法化
される気配が強い。
  政治の世界にはアートが価値あるものと考えるような偶然や
ハプニングはない。誰かが突然死んだとか、大地震が起こった
とかいう、予想のつかない事態が発生したとしても、それを次
の企画と演出の素材にしてしまうのが政治であり、政治家の仕
事である。サイバーポルノ問題の場合、明らかに、リムの記事
→『TIME』の特集→グラスリー/エクソン・キャンペーン→下
院通過に至る一連の動きはあらかじめ仕組まれたものである。
  最近試写を見た映画『アメリカンプレジデント』のなかで、
やもめの大統領に恋人が現われたが、その女性がかつてアパル
トヘイトに反対する集会で国旗を燃やしていたことが反対派の
議員に暴露され、大統領が追い込まれそうになるくだりがあっ
た。そのとき、大統領は、最後まで沈黙を守った末、感動的な
演説を行なう。そして、ときには国旗を燃やすことができると
いうことも、アメリカン・デモクラシーの重要な部分なのだと
説くのだが、これは、あくまでも映画の世界のお話しであり、
最近のアメリカでは、こういう正攻法は通らない。
  インターネット上のポルノは、大半が女性の裸と性器の露出
を主眼としたものであり、これでは、70年代にあれほど盛り
上がったフェミニズムや反セクシズムの意識はどこへ行ってし
まったのかと思わせるが、いま起こっている全面禁止の方向は、
そういう議論も最初から出来なくしてしまうのである。もっと
も、日本に住む者は、すでにこの法案と同等の規制のなかで暮
してきたので、いまアメリカで起こっていることの深刻さが身
近には感じられないかもしれない。