トランスローカルなウェブへ(9)

『マックパワー』1995年12月号

  HTMLで書かれたホームページから呼び込まれたVRMLブラウザ
の3D画面に移ると、さすがに、別の世界に移動したという気に
はなるが、そんなことをしばらく続けているうちに、所詮はの
っぺりした同じサイバースペースのなかを動き回っているにす
ぎないという気持ちに支配される。サイバースペースが質的に
もトランスローカルになるのは、まだまだ想像力や空想の力を
借りなければならないのである。
  しかし、本や雑誌のような活字メディアを考えれば、そこに
どんなに異様な写真やグラビアが加わっていても、所詮は平た
い紙面にインクの染みや線が走っているだけなのに、そこから
かぎりない世界が浮かび上がってくるのだから、外的な形式だ
けからインターネットの視覚的スペースの単純さを問題にする
ことはできないということになるだろう。
  だが、電子メディアが活字メディアと異なるのは、それが、
本質的にメタファー的な機能――つまり自分の前や背後に何か
を想定し、そこへおもむかせる機能――を捨てようとしている
点である。イヴァン・イリイチの『テクストのぶどう畑で』
(岡部佳世訳、法政大学出版局)によれば、「本の文化をいく
世代もの間支えてきた基盤は、よく言われるような印刷術では
なかった」という。「それは、印刷術誕生より十二世代前のひ
とかかえの技術革新であった」。
  この本は、中世ヨーロッパの話題に終始しているかに見えな
がら、その実、コンピュータが浸透する今日の最も重要な問題
をあつかっている。イリイチは、つねに、現代を思考してきた
し、いま、450年もつづいた「古典的」読書という形式が決
定的な終焉に達しつつあるという認識から上述の本を書いた。
  表音文字としてのアルファベット、表意文字としての漢字、
いずれの場合も、知覚される形は、そこを越えて呼び出される
何かのための通路でしかない。古い文字が運命を暗示するメタ
ファーであったり、解読されるべき神秘的な暗号であると考え
られたのは、もともとメタファーが文字の本質をなしていたか
らである。
  このことは、別な角度から考えると、文字が、「万物は意味
を懐妊しており、その意味は、読者によって明るみに出される
のをひたすら待っている」ということを前提としているという
ことであり、文字は、万物が〈懐妊〉(conception)  している
〈概念〉(concept) を出産させる義務があるわけである。
  コンピュータは、おそらく、こうしたメタファー/コンセプ
トションとは異なるものをめざしている。むろん、あらゆる技
術と歴史の慣例として、その本性を既存の仮面で覆い隠しては
いるが、次第にその素顔が見え隠れするようになるだろう。写
真や映画が普及させた映像も、文字の伝統のなかでとらえられ
てきたし、いまだに映像の記号学や意味論、シンボリズムやメ
タファー論が存在するが、映像を文字とは異なるもととしてあ
つかう決定的な方法は、映像を編集することであり、変形する
ことであり、それに触れることである。映像との真正のつき合
い方は、その意味を解読することではなく、それ自身とたわむ
れることである。
  イリイチによれば、現在われわれが使っている本の基礎は、
12世紀後半に、「名称や項目をアルファベット文字順に並べ
る手法」が確立することによって作られたという。見出し、図
書目録、用語索引といういままでなかった技法は、やがて、建
築、都市、法律、経済のなかにも従来とは違った新しい秩序や
規律を持ち込むことになった。15世紀になってグーテンベル
グがやったことは、実は、数百年まえから用意されてきた事態
の、ある意味ではあたりまえの帰結であった。
  ここから考えると、映像は、まだ、文字におけるアルファベ
ット順のインデクスの発明に匹敵するようなものを発明してい
るとは思えない。ハイパーリンクは、たしかに、重要な要素の
一つではある。ある画面から意味やコンセプトを引き出そうと
するよりも、かぎりなく他の画面に跳び移ること。これは、確
実に新しい。
  しかし、ハイパーリンクという発想は、ハイパーテキストか
ら生まれたものであり、ハイパーテキストは、本のページをめ
くるデジタル技術である。それは、本よりもランダムなアクセ
スを可能にするというが、本に習熟した者ならば、読み慣れた
本を指先の操作で必要なページや個所をすばやく開くことがで
きる。が、それは、あくまでも読むためのアクセスである。
  ハイパーリンクということが、本へのアクセスとは決定的に
異なる要素をもっているということは、インターネットのウェ
ブ・ブラウザを使う際に明らかになる。依然として、文字をた
くさん使ったホームペイジも少なくないが、われわれは、それ
を、本を読むようなやり方で読みはしない。まさに〈流し見る〉
(ブラウズ)するのである。そして、とりわけ画像から画像に
跳んで行く場合には、ひとつの画像がイコンとしてもつ象徴的
な意味が問題なのではなくて、ひとつの画像と別の画像との出
会いのなかで生み出される〈レフェレンシャル〉な関係が重要
なのである。
  英語では、「イコン」も「アイコン」も同じく iconである
が、まさしく iconにおける重心移動、つまり象徴論やイコノ
ロジーがあつかう聖画のような「イコン」からコンピュータの
選択表示としての「アイコン」への重心移動が、コンピュータ
においていま何が起こりつつあるかを示唆しているように思わ
れる。われわれは、もはやアイコンの向こう側に「聖なるもの」
を見たりはしないのであり、少なくともアイコンを使うという
ことは、リンゴマークのかなたにスティーブ・ジョブズやステ
ィーブ・ウォズニアックの姿を思いうかべることではなくて、
「コントロールパネル」や「セレクター」を立ち上げ、関係フ
ァイルにリンクすることなのである。
  おもしろいのは、プラグマティズムの創始者と称されるチャ
ールズ・S・パースが、iconという概念を彼の思考のキーワー
ドの一つにしたとき、そのiconには、シンボルだけでなく地図
やインデクスのような〈レフェレンシャル〉な記号が含まれる
のだった。これは、単にパースという言語論者がそのような考
えを生み出したというだけでなく、パースがその思考を編み出
した時代に、
iconをそのようなものに変質させる事態が生じていたというこ
とでもある。
  ちなみに、フェルディナン・ド・ソシュールが、言語とは記
号の差異にすぎず、意味は記号と記号との差異関係のなかで決
定されるというあの記号学の思考をジュネーブ大学で講義しは
じめたとき、時代は、まさに、「聖なるもの」や超越的なもの
が失墜し、言語も「関係の束」に解消しようとしていた。ニー
チェが「すべての神々は死んだ」と書き、「超感性的なものの
終焉」とニヒリズムの開始を告げた時代と重なっている。
  ニーチェは、『人間的、あまりに人間的』のなかで、「書物
は書かず、多くのことを思索し、ものたりない仲間のうちで暮
している人は、通常、すぐれた手紙の書き手である」と書いて
いる。ここで彼が、自分自身のことを言っているのは明らかだ
が、同時に、歴史のある真実を語ってもいる。書物の終焉は、
近代という時代の終焉の一つの現われであり、ニーチェやカフ
カが、書物を出すということにそれほど熱心ではなかったのも、
このことと関係がある。とりわけカフカは「手紙の人」であり、
彼が書いたものは、おそらく、「作品」よりも手紙の方が多い
に違いない。
  手紙と書物的なテキストの違いは、後者の完結性に対して、
前者が無限のリンク性をもっていることだ。ドゥルーズとガタ
リは、『カフカ  マイナー文学のために』(宇波/岩田訳、法
政大学出版会)のなかで、「手紙はひとつの根茎・網・クモの
巣である。手紙の吸血鬼性、まったく手紙に固有な吸血鬼性が
ある」と述べたのち、「カフカのなかにはドラキュラ的なもの、
手紙によるひとりのドラキュラがいる」と書いている。
「手紙のドラキュラ性」は、インターネットのメールにおいて
制度化する。おそらく、インターネットは、書物を書かない
「手紙の人」を増大させるだろう。
  Eメールは、とりあえず「メールを交換する」という言い方
を許容しているが、本来は、近代のキーワードとしての「交換」
とはなじまない。それは、かぎりないリンクのなかでこそ活気
を帯びるのであり、「交換」であるとしても、それは、果てし
のない交換である。実際、ノってメールを送るとき、それは、
相手に返事を書くためではなく、一つの場所から他の場所へリ
ンクを多重に張っていきたいという欲求からキーボードをたた
くのであり、まさにドゥルーズとガタリがカフカに対して言う
「自分のからだを、彼の部屋のベッドの上でいくつかの境界線、
いくつかの変身を通過する手段として生きる」ためにそうする
のである。
  ところで、問題は、このリンクの平板さである。冒頭で触れ
たのもこのことなのだが、インターネットは、たしかに〈コン
セプション〉をハイパーな〈リンク〉性に転換するインパクト
をもっている。〈コンセプション〉とわたしが言うのは、近代
の思考や生活を規定してきた基本的な動向をこの語で言い表す
ためだが、それは、あるものが「意味」やより深い何かを「は
らんで」いて、それらが、われわれの活動のなかで次第にあら
わになり、そうなることが「善」であるとする近代のベースを
なしている。生産を礼賛し、「いまここ」よりもやがて来る「 
はず」の未来や「また」再来するかもしれない過去を重視する
発想は、すべてこの〈コンセプション〉にもとづいている。
  コンセプションからリンクへ。しかし、この動向は、ネット
ワーク、ウェブ、リゾーム、アントレラ、アジャンスマン等々
の言葉によってさまざまに言い換えられながらも、まだ、明確
な形をとっているとはいえない。これは、新しい方向が観念と
しては明らかになってはいても、いまだ〈身ぶり化〉していな
いことを意味する。早い話、この間に新しいOSやさまざまなア
プリケーションが生まれたが、コンピュータとユーザーとの身
体関係は、キーボードとモニターを通じた平板なものにとどま
っている。この点では、「ごろねテレビ」やチャンネル・サー
フィンという新しい身ぶりを生み出したテレビの方が多様性に
満ちており、電話の身ぶりもコンピュータほど単調ではない。
  わたしは、いま、VRMLで手話のシステムが組むことに関心を
もっているが、近年、コンピュータの先端部分にいる人たちが
一様に身障者 (disabilities ) の世界にコミットしはじめて
いるのはおもしろい。Virtual Reality という言葉の命名者で
あるジャロン・ラニアーは、今年の8月、サンフランシスコで
開かれた Virtual Reality and Persons with Disabilitiesと
いう会議で基調演説をおこなったし、フライトシュミレーショ
ンの草分けで、現在シアトルのヒューマン・インターフェイス
・テクノロジー研究所のトム・ファーネスも、身障者や心身症
患者にVRのインターフェースを使わせるさまざまな実験を試み
ている。
  半身不随の患者がVRの装置でコンピュータを操作し、音楽を
演奏する実験の記録ヴィデオを見たことがあるが、ここで重要
なのは、「異常」が「正常」にもどるかどうかということでは
ない。むしろ、「異常」という名でひとくくりにされてきた
〈無身体〉的な状況が新たな身ぶりとして形をなす機会を得た
ことであり、コンピュータ・テクノロジーがそのような表現を
引き出したことである。それは、「異常」を「正常」に引き戻
すのではなくて、全く新しい次元に身ぶりを引き上げるのであ
る。この飛躍がもっと明確につかみなおされるならば、コンピ
ュータ・テクノロジーは、そのリンクする本質機能を多様で豊
かな身ぶりのなかで展開することができるだろう。