トランスローカルなウェブへ(6)

『マックパワー』1995年9月号

s  毎年西海岸のサンノゼでMecklermediaが主催するヴァーチャ
ル・リアリティの会議は、今年は、これまでのフェアモント・
ホテルではなく、コンヴェンション・センターで行なわれた。
わたしは、この会議のためにこの3年間、毎年サンノゼに足を
運んできたが、正直のところ、この会議がなければサンノゼに
来たいとは思わない。要するに退屈な街なのだ。わたしは、い
ま「街」という文字を使ったが、厳密に言うと、サンノゼは、
「街」というよりも「町」である。わたしは、「街」と「町」
とを区別して使う。前者は、うさんくさくかつ活気のある街路
をもっていなければならない。後者は、田舎と区別された都市
をあらわす一般概念にすぎない。
  しかし、そんな非「街」の町サンノゼも、毎年ながめ、歩き
回っていると、それなりの屈折を発見できるし、また、この間
にわずかながら生じた変化を発見できるのである。
  サンノゼは、シリコンヴァレーの中心地であるから、一見、
コンピュータ・カルチャーの横溢した場所であるかのように思
われるかもしれないが、実際には、コンピュータよりも車の文
化がまだ強い町で、車の修理工場や部品店が多い。コンピュー
タショップなどは、町の中心にはほとんどない。ところが、今
年は、若干雲行きが変わってきた。車の部品を並べていた店が
アート・ギャラリーやレストランに変わるといったいわゆるジ
ェントリフィケーション現象が見られるようになったのである。

  フェアモント・ホテルの前のファースト・ストリートを北の
方に歩いていったところにある2軒のカフェーは、以前からア
ーティストや一癖ある連中が集まっている、サンノゼでは数少
ない〈街〉的な場所だが、ここも、ますますいい雰囲気になっ
てきたし、もう少し北に進んだところにある「サルとルイジの
店」というイタリアの下町風ピゼリアの客相も変わってきた。
その隣のゲイバーに置かれているミニコミの数も種類が増えた。
コミュニティの活動も活発になっているようだ。
  ある日、会議が終えて、食事でもしようと、この通りを歩い
ていたら、「サンノゼ・ラテン芸術センター」という表示が見
えたので立ち止まった。去年は、そこにそんな看板はなかった
ように思う。ガラス窓に「アメリカン・インディアン・ホロー
コースト写真展」と書かれている。ほー、と思って、なかに入
り、表の明るい光でよく見えない室内を見回していたら、メキ
シコ人の風貌の老人が近づいてきて、親しげに微笑んだ。
「これは、アメリカで初めて開かれたアメリカン・インディア
ン・ホローコースト写真展なんですよ」老人は、胸を張ってそ
う言った。
  室内には、かなりの数の写真が飾られている。その多くは、
本などからの複写で、非常に素朴なタッチの絵が描かれている。
「わかりますか? われわれの祖先は、この絵にあるように残
酷なやり方で拷問されたり、殺されたりしてきたんです」女性
が木に吊されている線画を指差しながら老人が説明した。

  アメリカの会議で楽しいのは、出席者がみなそれぞれに個性
的なプレゼンをやることだ。背広のオジサンがぼそぼそしゃべ
るだけといったプレゼンは皆無で、逆に、一人ぐらいそういう
のがいた方がよいのではないかと思うくらい、みながメリハリ
のあるプレゼンをやる。アカデミックな会議ではまだまだOHPを
使う人が多いが、VRWORLDのようなコンピュータ関係の会議とな
ると、コンピュータを使ったプレゼンが大半である。なかには、
たった30分のプレゼンにシリコングラフィックスのONYXのよう
な猛烈なヤツを持ち込む御仁までいるからおもしろい。
  "VRWORLD'95"でプレゼンテイターが使っているマシーンは、
Macが6、DOSが4の比率だった。アメリカでのDOSの浸透度は言
うまでもないことだが、意外だったのは、MacユーザーよりもDOS
ユーザーの方が、なかなか効果的な画面づくりをしていることだ
った。Macを使ったプレゼンは、みな似た雰囲気になってしまう
のである。これは、オーサリング・ツールの種類の問題なのだろ
うか?

  それにしても、アメリカのコンピュータ会社の社長や幹部は、
みなプレゼンがうまいのには舌を巻く。いまはなきNeXTWORLD 
EXPOでスティーヴ・ジョブズが新作を自ら実に魅力的に披露す
るのを見て感動したことがあるが、彼ほどの役者はそう多くは
ないにしても、少なくともソフト会社の社長が、自社のソフト
を巧みに操れる――あるいは操れるように振る舞う――のでな
ければならないというのが、アメリカでは暗黙の決まりになっ
ているようだ。

  VRWORLDで毎年楽しみにしてきた実演は、Virtus Corporation
の社長デイヴィッド・スミスによる新作紹介である。彼は、
往年のハリウッド俳優のような「美男子」(つまりいまのハリ
ウッドでは「大根」)で、「舞台」に立った押し出しは悪くな
い。しかし、なぜか、今年は、予定されていたプレゼンが当日
になってキャンセルとなった。新しいソフトが間に合わなかっ
たのだろうか?
  わたしがこの人のプレゼンを見たのは一昨年の"VR'93" (ま
だ"world"が付いていなかった)が初めてだったが、そこで彼は、
自社で開発したVirtusWalkThroughとVirtusVOYAGERという(い
までは日本語版も出ている)ソフトを使ってモニター上に簡単
な建物を作り、その外部と内部とを自由にウォークスルーして
見せた。
  このときの会議の全体的な雰囲気として、まだパワフルなワ
ークステーションをよしとし、パソコンはおもちゃといった傾
向が強かったので、スミス氏のプレゼンは、ちょっとオタクっ
ぽい、浮いた感じになった。が、彼が強調したのは、VRシステ
ムは、何もワークステーションでなくMacintoshでも可能なの
だということだった。
  これは、彼の一貫した考えらしく、翌年の"VR'94"でも、彼は、
VIRTUS VRという新作ソフトをMacintoshの上で動かして見せた。
わずか30分たらずの時間に、彼は、用意されたモジュールを
使って街と部屋を作り、そこにテレビや額縁などのインテリア
を並べ、QuickTimeの動画をテレビのスクリーンに、静止画を額
縁のなかにはめ込み、十分見ごたえのある3次元空間を構築し
たうえで、そのなかを自由に動いて見せた。
  このときは、すでにリンダ・ヤコブソンのGarage Virutual 
Realityのような本が出て、人々のあいだにローコストでVRシス
テムを組むという意識が強まっていたので、スミス氏のプレゼ
ンには、前の年よりも熱い反応があった。実際にこの年には、
ヤコブソンをモデレイターとする「ローコスト・ヴァーチャル
・リアリティ」というセッションも設けられ、PCによるVRへの
関心は前の年には考えられないほど高まっていた。むろん、PC
のパワーも格段に進んだ。

  このセッションでは、「ローコストVRのパイオニア」のバー
ニー・ローエルによるAVRIL(A Virtual Reality Interface 
Library) プロジェクトの紹介があった。ローエルの話は何度
も聞いたことがあるが、その話はすべて実践に裏打ちされて
いて説得力がある。小柄な体にVRの可能性の追求と普及への
情熱をみなぎらせているような人で、しかも商売への野心は
感じさせない。すでに彼は、PC上でVRを構築できる最初のフ
リーソフトREND386を同僚のデイヴ・スタンプといっしょに開
発したが、そのエピソードをつづった短文は、次のように結
ばれている。

{以下の引用は、頭のところを最低2文字送って下さい}
    将来はどうなのだろうか。可能性はたくさんある。動く
だけでなく、形も変えるようなオブジェクトのサポートは十
分可能だろう。動画サポートの改善も進行中だ。最も重要な
のは、仮想世界を複数で共有できるようなネットワーク機能
であろう。
  さて、このような変化が次々と起こっても、REND386プロ
ジェクトで今後も変わらない目標が一つだけある。それは、
VRをできるだけ多くの人に、できるだけ安い費用で使えるよ
うにすることだ――できれば無料で!
      (カール・E・ロフラー編/安木・福富監訳『ヴァー
チャル・リアリティーズ』技術評論社)

  AVRILは、REND386の問題点(たとえば、プログラムしにく
い、386と486マシーンでしか動ず、画像のエンハンスが難し
い等)を改善したもので、ローエルは、これをREND386と同様
に彼が教えているウォルタールー大学のFTPサイト(ftp.sunee.
uwaterloo.ca)に置き、誰でもが自由に使えるようにした。そ
れから1年、今年のVRWORLD'95では、前年にVRの領域ですぐれ
た仕事をした人にMecklermedia社から与えられる「VR産業賞」
の一つが、バーニー・ローエルにも与えられた。
  わたしは、彼のウェブページ (http://colomb.uwaterloo.
ca/~broehl/moreinfo.html) をのぞいて初めて知ったのだが、
彼は演劇にもコミットしていて、現在、Theatre on the Edge
という即興的要素の強い劇団とKitchner-Waterloo Live Theatre
というコミュニティの劇団にも所属しているという。なるほど
ねぇ、こういう人でプログラミングにも強い人がたくさん出て
こないと、コンピュータの世界はおもしろくならないのだ。

  日本では、最近、あまりヴァーチャル・リアリティの話を
聞かない。業界レベルでは、昨年幕張で第2回「産業用バー
チャル リアリティ{ナカグロなし}展」が開かれたし、最近
創刊されたCAPE Xが、VRのかなり充実した特集をやってはいた
が、一般のメディアは、かつてVR、VRとバカみたいに騒いだ
のはどこへ行ってしまったのかと思われるくらい閑散として
いる。
  しかし、アーサー・クローカーとマイケル・A・ワインシ
ュテインが Data Trash (St. Martin's Press, 1994)のなか
で「ヴァーチャリティ」という言葉をこの時代のアンブレラ・
コンセプト(傘のようにさし掛ければ何でも覆う概念?)と
して実にひらめきあるやり方で使用しているように、VRは、
もはや単なるコンピュータ・テクノロジーのレベルにとどま
ってはおらず、より文化的・社会的なレベルで問題化してい
るのであり、また、それにともなってVRテクノロジーの方も、
たとえば HTMLのVR版とでも言うべきVRMLによるさまざまな
実験に見られるように、軍事に象徴されるような特権的な
領域から、よりインターパーソナルな領域に下りてきている。
まさにローエルが、2年前に「最も重要なのは、VRの世界を
複数で共有できるようなネットワーク機能であろう」と書い
たことが、着実に具体化しつつあるのである。
  わたしも、遅ればせながらわがIndyにVRML用のブラウザ
WebSpaceをインストールしたので、次回はVRMLについて考
えてみたい。