トランスローカルなウェブへ(4)

『マックパワー』1995年7月号

  カナダのウェスタン・フロントで早くからメディアやネット
ワークを使ったアート活動を手がけてきたハンク・ブルのおか
げで、わたしも何度かテレビ電話による実験――というよりも、
ある種のパーティにつきあう機会を得た。
  先日も、リヴァプールにいる彼の友人を巻き込み、ヴァンク
ーヴァー=リヴァプール=東京の3地点をテレビ電話で結んで
何かをやろうということになった。リヴァプールではアーティ
ストが集まり、パファマンスや詩のリーディングをやるという。
ハンクとわたしは、それにオンラインで参加する。こちら側も
人を集めてパーティをやってもよいが、このときは、リヴァプ
ール時間の午後8時半が東京時間の午前4時半、ヴァンクーバ
ー時間の午後3時半と、ハンクのところもわたしのところも、
パーティには中途半端な時間なので、フィジカルなパーティは
はあきらめた。
  テレビ電話を使ったアート実験というと、サンタモニカのエ
レクトロニック・カフェが有名で、ハンクは、大分以前から彼
らとさまざまなテレコムアートを試みている。が、フルクサス
の末裔を自負するハンクは、エレクトロニック・カフェのよう
な大がかりな装置は使わない。ロサンゼルスのマーケットで見
つけたという2台セットたったの100ドルという日本製だ。
ただし、この製品、数年まえは秋葉原のツクモに2台 29,800円
(新品)ぐらいでごろごろしていたが、ごっそりテレクラに流
れたとかで、いまでは大阪の日本橋あたりでたまに見つかると
いう貴重品。
  テレビ電話は、規格が統一されているから、どこの製品を使
っても問題なく画像のやりとりができる。一台10万円を払う
ことをいとわなければ、カラー画像を送れる機種もある。エレ
クトロニック・カフェのように、コンピュータでシステムを組
んでしまうこともできるが、こうなると、ローテクを使い方で
ハイテクにしてしまうようなおもしろさが半減するように思え
てならない。わたしにも、フルクサスの末裔的意識が濃厚にあ
るのだ。
  もっとも、以前、FTPサイトでNeXTのフリーソフトを物色して
いたら、ドイツのマックス・ベームという人が作ったEasyBTXと
いう「インタラクティヴなヴィデオテックス」のデモソフトを
見つけたので、早速ダウンロードしてテストしてみた。しかし、
コンパイルは出来たものの、テレビ電話とはうまくハンドシェイ
クしてくれなかった。きっと Macintoshならテレビ電話と交信で
きるソフトがあるだろう。NeXTのは、その後まだお目にかかれな
いので、コンピュータとテレビ電話を連結する実験は手がけてい
ない。
  それに、わたしが使っているサンヨー製「静止画テレビ電話 
TDA-1」は、コンピュータの必要性を感じさせない。NTSCのヴィ
デオ出力があり、4コマの画像をメモリーできる。ヴィデオ入
力端子がある上に、8コマもメモリーできるハンクのにくらべ
ると、やや見劣りがするが、これでもけっこうおもしろく使え
るから。

  5月5日(こちらでは6日)の当日が近づくにつれ、ハンクと
わたしとのあいだで電子メールのやり取りがひんぱんになった。
リヴァプールのエディが、テレビ電話を調達できないので、自分
のを1台急送したという。大袈裟な装置ではないから、送るのも
簡単だ。ハンク自身も、急な用事が出来、当日はヴァンクーヴァ
ーからではなくてトロントから参加することになるかもしれない
という。彼は、どこへでもテレビ電話機を持っていく。
  メールのやりとりで中心になったのは、テーマをどうするかで
あった。いや、「テーマ」という言葉は、適切ではない。ハンク
もわたしも「テーマ」という言葉は使わなかった。正確には、わ
たしたちは、「何をウィーヴ weave するか」を話あったのだった。
これは、「内容」でもないし、「形式」でもない。テクノロジカ
ルな「形式」としては、電話線を使ってテレビ電話でモノクロの
静止画を送りあう、ということが決まっている。が、その条件の
なかでも、画像の送り方には無限の方法がある。また、「何を」
といっても、これは、「形式」と区別された「内容」ではない。
両者はたがいにからみあい、アクション全体を方向づけながら、
かつアバウトな要素をもったものであるはずである。
  で、結局、ハンクのひらめきで、「マスク」ということに落ち
着いた。発端は、地下鉄サリン事件で登場したガスマスクと、い
まメキシコのチアパス州で自治をとなえている「革命」の活動家
たちが顔を覆っている覆面であった。
  これに触発されて、わたしは、ハンクに、ニューヨークでガス
マスクを物色した話を書いた。カナル・ストリートのはずれにあ
る軍事用品のジャンクを売っている店の壁一面に第一次大戦から
ベトナム戦争のころまでに使われたガスマスクがびっしりと飾ら
れていたので、通りがかったわたしは、「あれは、売りものなの
?」とたずねた。すると、1個50ドルなら売るが、買うなら壁
から下ろすが、買わないならダメだという。さすが一次大戦のこ
ろのものは全体が朽ちているが、ヴェトナム戦争時代のは、まだ
使えそうだ。しかし、長い間壁に吊されていて、ゴムが朽ちてい
ることは考えられる。  
  スキンヘッズの店員が、品定めはさせないと言うので、仕方な
く、壁の高いところにある20数個のガスマスクをじろじろと眺
めてリモートな品定めをすることにした。が、人体の形をしたも
のというのは、不思議なアウラをもっているもので、それらを眺
めているうちに、わたしは、そうした中古のマスクの内側におさ
まったいたはずの身体を思い浮かべていた。当然、死体からはず
されたものもあるだろう。そう考えると、ちょっと気持ちが悪く
なってきた。50ドルは高くはないが、あきらめて店を出た。い
ま考えると、やはり買ってくればよかったと思う。テレビ電話で
送る映像としても最高ではないか。
  日本では、チアパス問題は、全くニュースにならないが、いま
アメリカではホットな話題である。シンクタンクのランド・コー
ポレイションは、チアパスの「革命」を「後進地域の革命ではな
く、新しいタイプの革命のポテンシャルになる」という警告とも
賞賛ともとれるレポートを作った。インターネット上には、この
チアパス革命をささえるザパティスタEZLNのホームページがあり、
マニフェストや毎日のように更新されるニュース、現場の雰囲気
をヴィヴィッドに伝えるモノクロ写真がGIFとJPEG で置かれてい
る。
  4月27日付けのニュースにはおもしろい記述があった。メキ
シコ政府の外務大臣が、チアパスの情勢にいらだち、「チアパス
で起こっている戦争は、『インクとインターネットの戦争にすぎ
ない』と宣言した」というのだ。これほどの褒め言葉はない、と
いうわけで、このニュースの著者Justinは、その末尾を、「おれ
のWWWサーバーをクラッシュさせるアーミー・ハッカーを待ちなが
ら・・・」と結ぶ。
  さて、5月5日が終わった深夜1時(リヴァプール時間の午後
5時)、テレビ電話に連結した電話が鳴った。テストをやること
にしていたのだ。リヴァプールの交換手がわたしの名を確認する。
少し待つとハンクの声が聞えてきた。「マスクって、覆面や仮面
もマスクだけど、ハイデッガーが脱構築した《真理》概念〈アレ
テイア〉は、ある種の〈アンマスキング〉だよね・・・オウム真
理教は、〈アンマスキング〉(暴露)じゃなくて、終始〈マスキ
ング〉(隠蔽)だけか・・・」などと、しばらくくだらないおし
ゃべりをしていると、「お話し中のところ申し訳ありませんが」
と丁寧な女性の英語が入って、エディとつながったことを知らせ
てくる。そして、すぐにスリー・ウェイの会話が始まった。
  ハンクもわたしも、むろんテレビ電話を使うのは始めてのエデ
ィも、スリー・ウェイでテレビ電話を試みたことはない。そこで
、まずテスト。ハンクが送信ボタンを押したらしく、「ピロピロ
ピロ」という、ディジタル化された映像が音声信号に変換された
ものが電話線を流れるときの特有の音が聞える。この音が何とも
妙(たえ)なのだ。そして、数秒後、テレビ電話機の4.5インチ
モニターに(丁度Netscapeで画像が出て来るときのような調子で
)ハンクの顔がワイプインする。わたしも、目をむいた顔を即座
に送り出す。やがてハンクから "Great!" という声の返事が返っ
てくる。
  しかし、リヴァプールからの画像がうまく届かない。何回かに
1度は、トロントにだけ届くが、わたしのマシーンは全く信号を
感知しないのだ。あの妙なる音だけが聞える。なぜだろう。音を
聞いているかぎりでは、音が遅延するような感じは全くない。実
にクリアーだ。おそらく、どこかでフィルター効果が起こり、リ
ヴァプールから送られてくる信号の最初の部分にある信号がカッ
トされてしまい、わたしのマシーンが受信状態に入らないのだろ
う。結局、3時間後の本番では、スリー・ウェイをあきらめ、東
京→←トロント→←リヴァプールの回路でウェブを張ることにな
った。
  この種のウェブ・アクションでは、コンセプチュアリゼイショ
ンと準備の段階でそのプロセスの大半が終わるといった趣がある。
つまりムダに見える部分がメインで、本番はむしろどうでもいい
のである。このときも、送りあったマスクの画像が何であるかは
あまり重要ではなくなった。むしろ、送り/送られ/転送される
ひとつの画像ともう一つの画像とのタイミングやリズム、その間
にとりかわされる会話がこのアクションを支えているように思え
た。
  パーティやサロンスペースが必須であるのもこのためだ。わた
しの経験では、テレビ電話のヴィデオ出力をプロジェクターで大
きなスクリーンに投射するとか、複数のモニターに映し出すとか
すると大抵うまくいく。リヴァプールでも、プロジェクターで画
像をパフォーマンス会場のスクリーンに映し出し、パフォーマー
や詩人たちが、その映像をバックにしてアクションをやった。が、
パフォーマーたちは初体験のためか、バックの画像を意識しない
らしく、画像を無視した詩の朗読が延々と続いて、画像が送れな
くなったこともあった。が、これはむしろおもしろかった。
  マルチメディアは、こうした勝手なコラボレイションを必要と
するが、現実には、このコラボレイションが単なる「共働」にな
ってしまっていることが多い。異なるメディアの異なる機能を分
業的に駆動させようというわけだ。しかし、collaboration には、
思想は違うが、何かのために一緒に事を進めるといった含みがあ
るように、コミットする者が、誰かの指揮下に動くというのでは
なく、「おれがやる!」、「あたしやる!」式に各自がうるさい
くらい積極的になり、ときには衝突もありといった関係が必要な
のだ。日本でマルチメディアが静的(スタティック)になりがち
なのは、ソフト的側面に問題があるだけでなく、《リトル・ラス
カルズ》的なワルガキ精神が希薄になっているためかもしれない。