トランスローカルなウェブへ(3)

『マックパワー』1995年6月号

  サリン騒ぎなどもあり、東京の空気がよどんできたので、ニ
ューヨークに新鮮な空気を吸いに行ってきた。マンハッタンの
風は、特にこの季節には、今日さわやかな微風が吹いたかと思
うと、次の日には強風が吹き荒れたりする。その急変の仕方が
尋常でないところがよい。
  ニューヨークの街の雰囲気で変わってきたのは、ある種のサ
ロン文化が台頭しはじめたことだろう。その典型が本屋で、
Barnes & Nobleが先鞭をつけたスタイルが、ほかの本屋にも拡
がりはじめている。すなわち、店内のあちこちにソファーやテ
ーブルを置き、客に自由に本を読ませるというスタイルである。
店の一角に喫茶やバーのスペースを作り、そこに本を持って行
って読む客もいる。立ち読みどころか座り読み自由というわけ
である。
  これほどではないにしても、サロン的雰囲気を持った本屋は
なかったわけではない。ミッドタウンにあるDrama Book Shop 
には、20年以上もまえから、店内にソファーや吊り椅子(天
井からヒモで吊ってある)があり、客がのんびりと本を読んで
いた。ヴィレッジのStrandなどでも、review本(マスコミに送
られる書評依頼の本)を集め、半額で並べている地下のスペー
スには、昔から、床に座り込んで本を読んでいる客がかなりい
た。
  しかし、最近のようにそうしたことを積極的に歓迎するかの
ような動きは、何かが変わらなければ不可能である。明らかに、
直接の営利だけを求めないビジネスが起動しはじめているので
ある。
  もっとも、ヴォランティアやフリー・ウェアのことを考えて
みればわかるように、直接の営利だけを求めないビジネスの歴
史は最近はじまったものではない。日本では阪神大震災からに
わかにヴォランティアへの関心が高まったが、ヴォランティア
というのは、別に非常事態が起こらなくても、毎日ごく自然に
やるものであり、ニューヨークにも数多くあるパブリック・ア
クセスのテレビ局などは、そうしたヴォランティアで成り立っ
ているところが多い。
  Mosaic**は、Netscapeのような商品を生みはしたが、フリー
ウェアーは、最終的に商品になるソフトのテスト版というわけ
ではないし、まして開発者の恵みの精神を満たすプレゼントで
もない。結果的に従来型のビジネスをうるおすかもしれないが、
フリーウェアには、そんなことよりもはるかに規模が大きく、
影響力のある〈連動作用〉のようなものを生む要素があり、い
まや、それこそがビジネスの価値になるという事態が始まって
いるのである。
  イースト・ヴィレッジのSt. Marks書店は、店を新しくした
が、店内をサロン風にはしていない。その代わり、ますますハ
ードカバーの専門書のストックを充実させ、日本の本屋の最近
の傾向とは逆の方向を目指している。ニューヨークでは、80
年代になって、質のよい本を置く店が次々に破産し、ペーパー
バックと雑誌しか置かない店か、かつての Barnes & Noble の
ように、オーバーストックの本を安く大量に売りさばくスーパ
ーマッケット方式の店だけが生き残った。これは、ある意味で
、コンピュータの浸透、人々の本離れと連動した出来事だった
と言ってよい。
  しかし、90年代になって、事態が変わってきた。本が復活
しだすのである。物としての手ごたえのある本から小出版の印
刷物までをちゃんとそろえている古典的なタイプの本屋が復活
してきたのである。この傾向を見て、わたしは、最初、それま
での傾向の単なる反動だと思った。ニューヨークは、意外に古
いものと新しいものとが混在する場所である。だから、古いも
のが壊れると、それを復活する動きが出てくる。クォリティ・
ブックを置く本屋の復活をわたしはその程度のものと考えた。
  だが、それはちがうのではないかと、最近は思っている。む
しろ、ディジタル・カルチャーの浸透に対応した新しい事態で
はないかと思うのである。ヴィデオが浸透して、一旦は映画が
衰えたが、やがてヴィデオで出来ないことを映画が目指し、映
画の新しいスタイルが生まれたように、本は、いま、少なくと
もアメリカでは、一段階別のレベルでとらなおされようとして
いるように思えてならない。したがって、そこでは、映像のよ
うに、見た先から忘れていくようなトラッシュ情報は問題にせ
ず(それは電子メディアがやればよいから)、じっくり読み込
めるデンシティの高い情報があつかわれることになる。
  本に対する意識が変わってきたことを示すもう一つの現象と

して、〈アンチコピーライト〉の書籍の増加がある。これは、
要するに版権を放棄し、自由な複製と引用を許す書籍のことで
ある。この種の本を積極的に出している Autonomediaの奥付を
見ると、少しまえのものだと、c[丸cマーク]の上に斜線を引
いたマークを使っていたが、最近は、a[丸a]を使い、それが
定着しつつあるようだ。これは、70年代以後、ヨーロッパの
都市でよく見られるようになったA[丸A]を思わせるところが
あるが、A[丸A]の Aは anachismの Aと anti-の Aの両方を
意味していた。
  アンチコピーライト・ブックは、フリーソフトウェアの書籍
版であり、その推進者たちは、このことを意識している。つま
り、書籍を物の論理ではなく、電子情報のロジックでとらえた
とき、その流通によって直接利潤を得ようというのは、もはや
時代遅れだという認識をもっている。本が物資性を持っている
点では変わらないにしても、その機能を物とは違うものにする
ことは可能である。情報は、流通することによって webをつく
り、リンクを張る。その「価値」の強度は、利潤のような差異
性ではなくて、遺伝子の組み替えの質を決定する recombinant
な突然変異性である。物が情報として流通するときは、そのよ
うな機能を発揮する。
  読まれずに捨てられても買われさえすればよりという物とし
ての本に代わって、情報としての本は、とにかく読まれ、変質
してrecombinantな組み替えを限りなく続けなければならない。
そのためには、勝手な引用や自由な複製が歓迎され、無機的な
貨幣による代価ではなくて、予想もしない反響や影響がフィー
ドバックされる。それでは、出版社は食えないではないか、と
いう疑問を呈する向きもあるかもしれないが、食うための物質
産業と食うことにはネバーマインドの情報産業とを同じ企業が
同時に手がけざるをえなくなるというのが、今後の動向になる
はずだ。
  しばらくぶりに再会した Jに言われて、めったに行くことの
ないミッドタウンのパブリック・ライブラリーに出かけた。わ
たしは、ニューヨークへ行っても、フォーティン・ストリート
からチャイナタウンぐらいまでのダウンタウンにばかりいて、
アップタウンはおろか、ミッドタウンにもめったに足を延ばさ
ない。そのわたしが、わざわざ地下鉄に乗ってフォーティセカ
ンド・ストリートの図書館におもむいたのは、特別の理由があ
る。すなわち、そこでウェブページを来館者に自由に使わせて
いると聞いたからである。
  いかめしい門をくぐり、大理石の階段を一気に3階に上がる。
蔵書の検索室に入ると、コンピュータが見えた。Gateway 2000 
PS-90である。4基のテーブルに8台。Mosaicらしい画面が見え
るが、どのターミナルもふさがっている。少し待ってみようと、
隣の一角にずらりと並んだ検索用のコンピュータに向かった。
たわむれに と入れてみる。文献はゼロ。次に
 と入れたら、Joy Kogawa とわたしの名前がモニター
画面に突如現われた。ジョイ・コガワというのは、カナダの有
名な詩人であり、わたしは海外で「親戚か?」と聞かれること
があるが、この人の祖先は「粉川」ではなくて、「古川」であ
る。
  何点かおもしろい本の情報を引き出してから、Gateway マシ
ーンの方を見ると、一台空いている。早速使ってみることにし
た。DOSマシンのMosaic は、はっきり言ってダサイ。文字が大
きいから、老人にはよいだろう。さて、Mosaicが走っているか
らといって、それが、全世界の webサイトにつながっていると
はかぎらない。どうせ、館内をリンクしているにすぎないので
はないか・・・。
  半分タカをくくって、Mosaic の Opneメニューに http://
 www.gatech.edu/graf/を打ち込んでみる。出る。早い。この
サイトには、わたしが昔撮ったニューヨークの落書の写真が
として展示されている。が、これは合衆国ないのサ
イトだ。日本にはつながっているのか? そこで、
http://www.iij.ad.jp/につないでみる。これも早い。すぐに
ホームページが現われた。要するに、完璧なインターネットサ
イトなのである。
  ニューヨーク・パブリック・ライブラリがこのサービスをは
じめたのは、今年の1月からだという。他の市でもこのような
試みが進んでおり、アメリカでは、営利目的のインターネット
・カフェなどよりもはるかに大きな規模と浸透度でインターネ
ットのパブリック・アクセス化がはじまっているわけである。
市民でないものも含む誰でもが使って世界にアクセスできるメ
ディアをタダで提供すること――これは、単に余剰の気まぐれ
な恵みなどではない。