トランスローカルなウェブへ(2)

『マックパワー』1995年5月号

  Macintoshを間近に見たのはいまから10年ほどまえのことだ
った。当時『Business Week』のライターをしていたフィル・マ
ッテラのウェスト・ヴィレッジのアパートに遊びに行ったとき、
彼が自慢げに512KB(たぶん)のMacintosh を操作して見せたの
だ。いまから見れば、大したことではない。フロッピーからテ
キストとモノクロの画像を呼び出した程度のことだったのだが、
マシンの形とマウスの使い勝手が何とも魅力的に見えた。
  すでに日本でもコンピュータマニアのあいだでは、Macへの関
心は高まっており、1984年の1月に全米で放映された有名な
CMも、マニアのあいだで回し見されていた。わたしも、早くも
半年後に、テレビ会社に勤める友人からそのコピーをもらった。
それは、たったの58秒のカラー動画だが、今日にいたるまでこ
れほど思想性とアーティスティックな要素とが鋭い緊張関係をな
し、しかもそれが同時に広告であるという離れ業を演じているC
Mは例がない――と手放しの賛辞を与えたいほどのものだった。
  当時、このCMが、コンピュータマニアの間でよりも、広告
や映像の関係者の間で関心をもたれたのは、それをディレクト
したのが『ブレードランナー』のリドリー・スコットであり、
CMといえばナンセンスが標準という当時の(これはいまも同
じ)日本のCM事情のなかで、その標準を根底からくつがえし
ていたからだろう。わたしもメディア論の授業でこの素材を幾
度も使わせてもらった。
  ニクいと思うのは、このCMが、漫然とした意識つまり普通
のテレビ経験のなかで見ても非常に強い効果をもっていると同
時に、その《メタ・アイデア》(つまり必ずしも製作者が最初
から明確な形で封入しておいたわけではないが、見る者の側が
その映像に積極的に介入することによって引き出せる概念的要
素)が豊かな点だ。
  工場のなかの巨大なマシーンのきしむような音が響くなかを、
一時代まえの精神病院の制服のようなものを着せられ、頭を剃
られた男たちが規則正しい足音を立てながらトンネル状の通路
を歩いてくる。が、突如、その後ろから真っ赤なパンツと白い
ランニングを身につけ、大きなハンマーを握った若い女性の走
る姿が見える。彼女の後ろにはヘルメットをかぶった機動隊の
影がある。男たちが入って行く劇場のような部屋には大きなス
クリーンがあり、大写しにされたメガネの男がオートマティク
な口調で何かのイデオロギーを説いている。無気力にスクリー
ンを見つめる観客の群れ。それに加わる先ほどの隊列。ハイス
スピードで撮られた女性の姿がゆっくりと波打ちながら、隊列
の間を抜けてスクリーンに近づく。必死でそのあとを追う機動
隊。すると彼女は、一瞬立ち止まったかと思うと、「あー」と
いう叫び声を上げながらハンマーをスクリーンに向かって投げ
つける。ハンマーがスーと小さくなりながら飛んでいきスクリ
ーンにぶつかるとき、そのスクリーンが、巨大なコンピュータ
のモニター画面であることがわかる。そして、その表面がくだ
けた瞬間、猛烈な逆風が観客の方に吹き込み、かすんだ画面に
次のアナウンスとテロップがかぶる――
 「1月24日、アップル・コンピュータは、Macintoshを導入
します。ですから、みなさんは、1984年が『1984年』
のようにはならないわけがわかるでしょう。」
    最後をアップルのリンゴマークで締めくくるこの58秒の
映像のなかには、1984年という時代の趨勢をとらえた鋭い
センスが生きている。その最も強力な要素は、女性を体制破壊
者の位置に置いたことだ。時代は、確実に、フェミニズムが制
度のなかにしみ込むのを許しはじめていた。男の時代は終わっ
た――まして、巨大スクリーンのなかの人物のように、権威の
象徴にすぎない男は過去のものだ――アップル社は体制破壊の
新しい女性に期待する――。
  『1984年』とは、言うまでもなく、ジョージ・オーウェ
ルの小説のタイトルだが、明らかに、この映像では、IBMのイ
メージがこのプロットの一連の権威主義的イメージにダブらさ
れている。深読みをする解釈によると、ロボットのように隊列
を組んで歩いて来る丸坊主の男たちが踏みしめる床は、IBMマ
シーンのキーボードを示唆しているという。いずれにしても、
このCMが、IBMは官僚主義の悪の帝国であり、そのユーザー
は、自発性とインターパーソナルなコミュニケーションを欠い
た無気力集団だ、という揶揄を含んでいることは否めない。
  アメリカには、昔から、巨大な権威に独力で立ち向かうのを
礼賛する風潮が根強くあり、当たる映画の主人公は、大体この
手の単独者だ。が、そのような単独者に女性が加わるようにな
るのは、85年以降であって、MacintoshのCMは、その意味
で画期的なのだ。ジェイムズ・キャメロンが監督した『エイリ
アン2』では、シガニー・ウィヴァーが映じる女性闘士がエイ
リアンに一人で立ち向かうが、この映画が封切られ、多数の観
客を動員するのは1986年である。
  このように、Macintoshのとりこになる条件が多々ありながら、
わたしが、そこからストレートに Macintosh 購入に向かわなか
ったのは、当時の日本ではMacintoshはまだまだ高嶺の花だった
からというだけでなく、「Macはじきダメになる」としたり顔で
言う「98派」の意見にも影響されたからだった。実際、スティ
ーヴ・ジョブズがアップル社をやめるのではないかという噂は、
遅くとも1985年の夏には日本のパソコン雑誌でも流れはじ
めていた。
  1985年の7月に「コンピュータ文化雑誌」という副題を
もつ『Bug News』という雑誌が創刊されたが、これは、コンピ
ュータをハード+ソフトという構図からしかとらえていなかっ
た日本のコンピュータ雑誌のなかで、コンピュータを積極的に
文化・社会的コンテキストとの関連であつかおうとしたユニー
クな雑誌だった。そして、その創刊第2号には「マッキントッ
シュの設計思想」という特集があり、そのトップで広野幸治が、
「現在『最も洗練されたパソコン』とは、つまり、マッキント
ッシュである」というタイトルでMacintoshについての魅力的な
紹介を書いていた。
 が、この文章の末尾に置かれた「BREAK」というコラムには、
「ジョブズよ、新しいジョブだ」という――彼が「”会長職”
という窓際に追いやられた、というニュース」――が、コンピ
ュサーブから抜き書きされている。そして、1986年1月号
の「BUG' TOP」というカラーページには、Macintoshの置かれ
たオフィスでくつろぐジーンズにストライプのシャツ姿のステ
ィーヴの写真が掲載され、「アップル社を追い出されたジョブ
ズ」がすでにNeXTコーポレーションを設立したことが報じられ
ている。
  ジョブズがアップルを辞めたというニュースは、わたしが
Macintosh に対して距離を取るきっかけを作った。しかし、
1986年後半という時点で、わたしが、「スティーブのい
ないアップルなんてアップルではない」という理由でMacintosh
をあきらめたなどと言うとしたら、ウソっぱちもいいところで
ある。数年後、わたしは、NeXTを手に入れ、さらにはアメリカ
から Dimensionボードまで取り寄せて、NeXTに入れ込むことに
なるのだから、カッコをつけてそんなセリフをはいてみるのも
いいかもしれない。しかし、いまここでわたしのコンピュータ
歴を恥ずかしげもなく披露しているのは、披露できるような経
歴があるからではなくて、わたしのささやかな体験のなかにも、
わたしの個人的事情を越えたコンピュータ問題が潜んでいたと
思うからなのだ。
  Masintosh にかぎらず、80年代のコンピュータは、一般に、
スタンドアローンなマシンーとして何ができるか、という観点
でのみ考えられる傾向があった。だから、Macintosh の場合な
らば、それで DTPや画像処理をどこまでやれるか、そのソフト
にどんなゲームがあるか、といった方向でそのパフォーマンス
や可能性が測られがちで、そのネットワーク能力やアプリケー
ションのリンク性は二の次だった。若干この問題が出てくるの
は、通信との関連においてだけであって、しかしながら、こち
らの方は、問題が最終的にモデムや通信のホスト局に向けられ
て、エンドユーザー・レベルのコンピュータの問題としては顕
在化してこないのだった。
  とにかく、異機種間のコミュニケーションの一般的な通路は
もっぱらRS232Cにまかせ、ディスケットでの互換性などあまり
考えないというのが当時の状況だった。いや、考えたいが、そ
の余裕がなかったというのが本当かもしれない。まして、コン
ピュータとヴィデオとのリンクという点になると、ほとんど論
外の雰囲気だった。(その点で、MSX マシーンが最初からヴィ
デオ入出力をそなえていたのは画期的なことだったと言えよう。)
  こうした点は、いまでも画期的なレベルで解決されていると
はいえない。現に、完璧なエミュレータなど存在しないし、ま
た、コンピュータの画面をNTSCのヴィデオに落とそうとすると、
高価なスキャンコンヴァーターを使わないとフリッカーのない
ヴィデオ画像を得ることができないではないか。「それは仕方
がありませんよ。解像度が全然ちがうんですからね」と技術屋
さんは言うが、だからといって、テレビがすべてハイデェフィ
ニッションになるまでは、画像のコンヴァートはそこそこにと
いうのでは、最初からコンピュータ側には異種メディアとコミ
ュニケーションをする気がないと言われても仕方あるまい。
  データの互換性に関しては、むろん、コピーライトの問題が
からんでいることはわたしも知っている。1993年、スイス
の Quix Computerware という会社が、Black NeXTのDSPポート
に接続してNeXTをQuadra 900ないしは950と同等のMacマシーン
にしてしまい、しかもNEXTSTEPとパーティッションを混在でき
るという恐るべき「ブラックボックス」を開発したが、アップ
ル社とのコピーライト問題のために発売が遅れた。1994年
にアップルの許可が下り、それは、DayDreamという商品名で発
売(価格はたったの655ドル)されたが、その半年後には、
市場にPowerMacが登場し、いまでは、それは文字通りの「白昼
夢」として消滅する運命にある。しかしながら、このDayDream
は、異機種間のコミュニケーションが、やろうとすれば技術的
にはそれほど難しいことではないということの実例になる。ち
なみに、スティーヴ・ジョブズは、アップル側が許可を出せば
いつでもMacintosh 上でNEXTSTEPを走らせる用意がある、とも
言っている。
  さてさて、そんなわけで、わたしは、80年代の後半を、そ
れまで使っていたワープロ、つまり文字の打ち込みと印字のみ
に機能限定されたコンピュータを使いつづけることにした。が、
そもそも、わたしがこのワープロを買った理由は、原稿を書い
たり、文章を清書したりするためではなく、パソコン通信をす
るためであり、当時のパソコン通信は、スピードがせいぜい1
200 bpsであり、そのためには、そのおもちゃのようなマシ
ーンでも十分だったからである。