『マックパワー』1995年4月号
サンフランシスコのフォース・ストリートからシリコンヴァ レイに抜けるCalTrainの沿線。Macintosh、NeXT、SGIといった 魅力的なコンピュータが生まれた場所は、みなこのシリコンヴ ァレイに拠点を置いている。 が、このあたりを歩いてみると、およそ都市文化とは縁のな い、殺風景なながめに退屈する。わたしは、ニューヨークのよ うな〈汚辱〉と〈うさんくささ〉にまみれたフィジカルな街に 魅せられきたので、そうした思いが格別強い。CalTrainにして も、サンフランシスコのような都市のまっただなかから出てい るにもかかわらず、およそ田舎臭い列車である。その沿線の駅 は、ホームが低く、人々は線路を渡ってホームに出入りする。 まあ、ヨーロッパみたいだ、と言えないこともないが、それに しては、周囲が新興すぎて歴史が感じられないのである。 もっとも、近年は、コンピュータに深入りするにつれ、会議 や展示会のためにサンノゼやパル・アルトに足を運ばなければ ならなくなり、その折にCalTrainの沿線をひんぱんに歩き回る 機会が増えたので、シリコンヴァレイが殺風景なだけの町だと は思わなくなった。 先日、サンノゼに行ったとき、暇が出来たので、久しぶりに マウンテン・ヴューの駅周辺を歩いてみた。以前NeXT社に車で 行ったとき、このあたりを通ったことはあったが、CalTrainで その駅に降り立ったことはない。以前の印象は、ひどく殺風景 でひと気のない田舎町だった。ところが、それが一変していた のだ。駅からのメインストリートにはおいしそうなエプスレッ ソを飲ませるカフェーやエスニック・レストランが立ち並び、 沿道に面した席で人々が食事やおしゃべりを楽しんでいる。そ の街路には、ニューヨークのウエスト・ヴィレッジのような活 気さえ感じられた。 気分をよくしてそのカストロ・ストリートをさらに歩きつづ けると、まだ新しいが、一見して趣味のよいディスプレイの古 書店が見つかった。Collected Works という店名が見える。天 井の高い店内に入ると、古い本の、葉巻にも似た幽玄な匂いが ただよってきた。掘り出しものがある予感がする。背表紙に引 かれながら書架の間を歩いていくと、カフカの本がずらりと並 んでいるのを発見した。そのなかには、とうの昔に絶版になっ た写真集などもある。ふと、Kafkaの少し先の棚に目をやると、 ジャージー・コジンスキーの Being There の初版本があった。 これは、いわずと知れた映画『チャンス』の原作である。 生身の世界よりもテレビの電子世界の方がリアルだと感じて しまう主人公(ピーター・セラーズが天才的な演技をしていた) を描いたヴァーチャル・カルチャーの基礎文献の初版を置いて いるなんて、スゴイではないか。このセンスは、田舎町のもの ではない。わたしは、すっかりマウンテン・ヴューが好きにな ってしまった。 しかし、それではおまえは、このマウンテン・ヴューに住み たいかといわれると、躊躇してしまう。わたしは、依然として ニューヨークに愛着がある。どのみち、都市は、今後、これま でとは全く違ったものになるだろう。都市というコンセプト自 体が消滅するかもしれない。が、そうだとすれば、いま、最も その「都市的」な要素を生ま生ましく残しているところに住み たいと思うのだ。 かつてワルター・ベンヤミンは、「19世紀の首都パリ」の 街路のユニークさを、外部でありながら内部(室内)であるよ うなスペースとしてとらえたが、21世紀の都市の街路は、そ うした外部と内部との相互性をもなくしてしまうだろう。そこ では、「室内」と「外界」とを〈形式論理的〉に媒介する街路 は形骸化せざるをえない。それは、むろん、これまでのフィジ カルな街路に代わって、電子的な回路が「室内」と「外界」を 媒介する度合いが極度に強めるからであるが、その媒介の仕方 も、当然、街路のそれとは異なるものとなる。 わたしは、それを〈トランスローカル〉な媒介と名づける。 つまり、ローカルでありながら、グローバルであり、グローバ ルなもののなかに突如として出現するオーロラのようなローカ ル・エリア。そう、それは、まさにサイバースペースの特性に ほかならない。 インターネットの活気は、モダン都市の衰退とセットになっ ている。モダン・シティは、港湾というスペース(海と陸との 明確な境界をもった地平としてのスペース)と船舶に象徴され るマシーン・テクノロジー(ピストン)を基礎にしている。そ の構造は、船が飛行機に変わっても、何ら変化はない。が、サ イバースペースとコンピュータは、これらとは全く違った構造 を生み出す。 サイバースペースには、固定した境界はなく、その地平はつ ねに変動している。いわば、ニューヨークとマウンテン・ヴュ ーとの境界線を取り払って〈織り合わせる〉(ウィーヴ)こと が可能だし、そもそもコンピュータは、さまざまな〈ウェブ〉 を〈ウィーヴ〉する装置であり、そうした〈ウェブ〉の総体が サイバースペースである。 コンピュータ・テクノロジーはまだこうした要素を全面的に は開花していないが、すでにさまざまな場面で旧来のマシーン ・テクノロジーの殻を破りはじめている。コンピュータ環境は、 急速に〈ポリモーファス〉化しているのであり、もはや無機的 な機械(マシーン)の集合ではなくて、身体のようなより有機 的な要素を付加しはじめいる。ここで言う〈ポリモーファス〉 とは、古くは形態学、最近ではオブジェクト志向の「ポリモー フィズム」で知られた言葉だが、ここでは、各要素が自律しな がら、しかも横断的にリンクしあっている度合いの豊かさを指 す言葉として使う。 MosaicのようなWorld Wide Web Browserの出現がその有力な 例である。Mosaicの画期的なところは、テレコンピューティン グをエンドユーザーの自然な――従って身体的で多様な――表 現活動のレベルに近づけたことであり、簡素なHTML言語を操作 するだけでユーザーを単なるROM(リード・オンリー・メンバー) の受動的な位置から一挙に表現とネットワーキングのアクション のただなかに解放した点である。 すでに、MacintoshやNeXTは、コンピュータを生身の表現主体 に自然なやり方で出会わせることにかなりの程度成功していた が、Mosaicは、この出会いをまさに「ワールド・ワイド・ウェ ブ」のレベルにまで拡大深化させたのである。これによって、 いまや、コンピュータは、それまで数理的な――つまり非身体 的な――操作によって左右されてきた表現可能性を、ある感情 を持ったり、漠然としたアイデアを思い浮かべたり、発作的に 体を動かしたりといった直感的な表現能力の世界に引き渡され 、コンピュータの表現可能性が、単なる数理的能力よりも、芸 術的能力やセンスによって決定されるという条件が確立しはじ めた。 こうした動向のなかで次第に明らかになってきたことは、コ ンピュータはコミュニケーション装置――すなわちメディア ――であって、計算機やプロセッサーではないということであ る。こんなことと言うと、コンピュータを依然として「計算機」 と呼んでいる理系の世界の人から強い反撥を食らうかもしれな い。コンピュータは、どのみち、CPUで数理的な演算、記号の数 理的処理(プロセッシング)をやっているのだから、「計算機」 や「プロセッサー」であることがなぜいけないのか、というわ けである。 が、問題は、そうした機能が指し示している方向や可能性であ る。今日のコンピュータの機能が、「計算」や「プロセス」とい った概念の枠にはまり切らないところまで拡大し、多様化してし まったことなのである。血液循環が起こっていることは事実だと しても、人間を「血液循環器」と呼ぶのは不十分極まりないのと 同じように、もはやコンピュータを「計算機」や「プロセッッサ ー」としてとらえていたのでは、コンピュータの可能性を見失っ てしまうということなのである。 メディアとしてコンピュータが明確な一歩を踏み出すのは、GUI からであった。GUIは、単に「計算機」や「情報処理プロセッ サー」の使い勝手を楽にしたのではなくて、数理的世界と身体的 世界とのあいだに安定したコミュニケーション関係を確立した。 新しいコミュニケーション装置やメディアが一つ出来上がると、 われわれの身体は、そことリンク関係を結ぶ。そのため、そのメ ディアは、丁度、われわれの感覚・思考器官のどれかが一部露出 してきて合体したような機能を果たすようになる。言い換えれば、 メディアとは、われわれの内部世界とリンクしあっている身体的 な〈ワールド・ワイド・ウェッブ〉であり、メディアの個々の技 術的な機能は、文字通りの〈ポインター〉なのだ。 ポインターには「ツボ」という意味があるが、Mosaicのような ワールド・ワイブ・ウェブ・ブラウザのポインターは、そこをク リックすることによって、リンクしあった世界を縦横に横断し、 その世界を拡大・深化することが出来る。これは、まさに、鍼灸 術でツボを指圧するのに似ている。というよりも、ワールド・ワ イブ・ウェブ・ブラウザのポインターをどこまで身体の「ツボ」 に近づけることができるかということが、今日のコンピュータの チャレンジであり課題である。 サイバースペースが、今後、このようにしてますますヴァーチ ャルな身体性を獲得していくことはまちがいない。そのとき、都 市だけでなく、われわれの身体もまた形骸化していくのだろう。 だが、それは、必ずしも、われわれが「無気力」になり、ゾンビ になってしまうということではない。身体もまた、トランスロー カルな新しい関係のなかに〈ウィーブ〉されるはずだからである。 連載では、コンピュータがもたらすこうした〈ウィーヴィン グ〉の両側面をながめ、考察していこうと思う。