「シネマノート」  「Polymorphous Space」

粉川哲夫の「ディスタンス・ストラテジー」
Distance Strategy

HotWired Japan Frontdoor/BIT LITERACY/2002-10-02
第1回 デジタル・ヌーディズム
──データ=個人という同一化を越えて
●国民総背番号制は、すでに実現している

住基ネットの問題は、「国民総背番号制」と「プライバシー侵害」の観点から危険視されることが多い。が、もしこのシステムに反対するのなら、こうした観点からの批判はあまり有効性を持たないだろう。

国民総背番号制は、すでに「着々」と実現している。身分証明書、運転免許証、銀行口座、クレジットカード、ますます増えるポイントカード、どれをとってみても、あなたの名前や個人情報が番号や符号で管理されている。この世で生活していて「背番号」を持たないということが、そもそも不可能になっている。国民総背番号制を云々する者は、いまの「背番号制」が、まだ統合的ではないという点に救いを見出しているのかもしれないが、現在のコンピュータシステムをもってすれば、ばらばらにインプットされているデータを統合するのは難しいことではない。現に、ネットサイトのあちこちに散らばっているメールアドレスを何千と集めて分類し、売っている業者がいる。

番号だけではない。いま、あなたが、インターネットの検索サイトで、自分の名前を入力してみると、別に「社会的」な発言をしていないのに、パッと明らかに自分の名前とある種のデータが掲載されているのに驚くかもしれない。あなたが、自分のウェブページを持っていたり、なんらかのおおやけの場で発言をしたりしている場合には、確実にネット上に身をさらすことになる。このまま進むと、別に番号でなくても、名前だけで(まさにドメインのように)個人情報をインターネットで自由に引き出すことができるようになるだろう。

そもそも身を隠すということが時代の流れに合わないのだ。むろん、そういう流れ自体がまちがっていると反論することはできる。だが、わたしに言わせれば、そういう反対意見というものは、自分で選んだ選択をそのままにして、その結果だけに異議を唱えているにすぎない。「個人情報」が「漏れる」という流れは、時代の気まぐれではなくて、テクノロジーの基本動向そのものから来る流れだ。が、それは、変更不可能な運命ではなく、テクノロジーの基本動向を意識してやらなければ、変更不可能であるような流れである。

電子情報テクノロジーは、〈複製〉し、〈さらし〉、〈リンク〉する技術である。このテクノロジーとつきあっているかぎり、これらの機能から逃れるわけにはいかない。しかし、このテクノロジーを利用する現状は、こうした特性に逆らっていることが多い。ソフトウェアのプロテクトなどその最たる例だが、一方で徹底的にさらす技術とつきあいながら、その一方でプライバシーに執着するのも、矛盾例の典型である。

●新テクノロジーのラディカルな可能性を捨てた

いまのテクノロジーを用いれば、プライバシーなど簡単にあばくことができる。たとえば最近はやりのICレコーダーだが、その集音力にはおどろくべきものがある。以前、わたしのバッグのなかに入れたICレコーダーのスウィッチがあやまってONになったままなのを知らずに帰宅して、そのことに気づき、プレイバックしてみたら、数時間のわたしの行動のなかで聞き、しゃべったことがすべて鮮明に録音されていた。最近のICレコーダーは半日分ぐらい平気で録音してしまうから、それなら、いっそ、外に出るときは、常時ICレコーダーをONにし、健忘症からくるミスを防ごうかと思ったくらいだ。ビジネスや商取引で言った言わないのトラブルもこれで解消である。

住基ネットは、いずれ、個人の全情報を一枚のチップのなかに収納する予定のようである。それは、おそらく、進むだろう。さもなくても、いま、ケータイの愛用者は、一台のケータイのなかに、相当量の個人情報をインプットしている。PDAの愛用者になれば、その度合いはさらに高まる。そういうものを常時持ち歩いている彼や彼女は、そうした機器を盗まれるのを恐れる。それは当然だ。だから、落したり、盗まれたりする危険から逃れられない個人は、いずれ、個人情報を記録したチップを体内に埋め込むようなことをせざるをえなくなるだろう。しかし、にもかかわらず、探索の技術は進み、そのように極度にプロテクトされたデータをも読み取る技術が生まれる。

プライバシーを暴く技術が加速度的に進んでいる。その一方で、それを防ごうとする技術も追いかけっこをしている。しかし、この対抗する技術は、せっかくの情報技術の前進を妨害してもいる。そして、その結果は、この技術が昂進すれば大幅に変わるであろう社会や人間関係の現状維持である。

かつて電子テクノロジーは、ラディカルな民主化の技術であるということがしきりに唱えられたことがあった。コンピュータが普及すれば、民主的な人間関係が拡がり、階級差は縮まるというのであった。しかし、現状は、逆に向かっている。アップル社が、1983年に、リドリー・スコットを起用し、フリッツ・ラングの『メトロポリス』を下敷きにしたMacintoshの最初のCMを作ったとき、「デジタル・ディヴァイド」などのことは考えていなかった。「(Macが発売される)1984年は(ジョージ・ウォーエルの)『1984年』とは同じではないだろう」という名文句によって、このコンピュータの普及は、電子民主主義を拡充するという自負が語られたし、スティーブ・ジョブは実際にそう信じていたに違いない。

そうはならなっかったのは、テクノロジーの可能性・ポテンシャルが、そういう方向では使われなかったからである。選択肢はあったのだが、人々が無言の別の選択をしてしまったからである。むろん、それには、もろもろの政府や会社組織(つまりは権力)の選択があったし、組織的な根回しがあった。個々人がその結果を意識してはいなくても、旧テクノロジーの慣習から大胆に脱することを怠ったことによって、新テクノロジーのラディカルな可能性を捨ててしまったのである。

●データをこえる創造性を発揮し、見せつける

プライバシーという概念は、実は、とうの昔に破産している。それは、かつてリチャード・セネットが、『公共性の喪失』(晶文社)のなかで検証したように、「パブリック」(公共)という概念と対になったものであり、いま「公共性」が失墜しつつある状況のなかでは、プライバシーも意味を失いざるをえないのである。セネットによれば、「公共性」は、「自分」(プライバシー)を持った個人が、社会的舞台である種の演技を出来るかぎりで有効だった。19世紀のヨーロッパでは、週末、着飾って街路を歩くことが一つの社会的行為の型として成立した。むろん、そこには階級差別とイヤ味なペダントリーがあったわけだが、一種の世間的見栄、矜持が社会的に受け入れられる条件のなかで、人々は、それらを社会的にさらし、さらされうる領域として保持した。そして、そうすることによって、個人の私的な領域には自覚的に立ち入らないというモラルが成り立った。

しかし、その後、事情は変わってきた。自我は、自己表現するものであり、さらし、さらされるものになっていく。フロイトの精神分析は、その先鞭をつけたし、シュールレアリスムや表現主義アートは、その動きを加速させた。いまテレビであたりまえの「告白」や「暴露」は、そうした流れの果てにある。自我は、すでに、超自我の皮膜の寸前まで暴かれ、暴かれることを待っている。プライバシーを守るなどということは、無知か自己満足のパフォーマンスにすぎない。

なぜいっそのこと服を脱いでしまわないのか? 裸になるのはタレントや有名人の特権ではない。いま、必要なのは、万人が裸になってしまうことだ。テクノロジーが、個人を素裸にしようとしている。にもかかわらず、それに抵抗し、抵抗できる階級がいるから、このテクノロジーは、素裸にするその力に翻弄されたままでいるしかない階級を生む。電子テクノロジーが、ラディカルな民主主義のポテンシャルを秘めているということは、依然真実である。それは、たえず先延ばしにされ、忘れ去られているにすぎない。

わたしは、つねづね、〈デジタル・ヌーディズム〉を提唱している。これは、すべての組織と機関が隠す情報を公開するとともに、個々人が、その「プライバシー」を公開してしまえという挑発である。一見空想的に見えるこの発想は、すでに、「オープン・ソース・コード」運動のなかで具体化されている。フリー・ソフトウェアも、その流れに属する。本における「アンチ・コピーライト」運動も力をつけてきている。だれでもが使え、検閲のないパブリック・アクセス・テレビは、アメリカや西ヨーロッパでは定着した。

こうした運動の意義は、すべてが無料になるということではない。それよりも、むしろ、複製が当然のこととされることによって、複製をたえずのりこえようという新しい活動と意識がもりあがることだ。すべては複製されるのだが、新たのものの創造のさなかには、たとえつかのまであれ、複製をこえる瞬間がある。アートにおける創造の喜びとはつねにそうしたものだが、まさに、かぎりない複製のテクノロジーに対して創造性を対置したということが、こうした運動の最も重要な部分である。

住基ネットに反対する場合も、こうした側面を顧慮する必要がある。この制度が問題なのは、個人情報を統合的に集積していくなかで、データ=個人という同一化が進むことである。映画『未来世紀ブラジル』の冒頭には、役所の印字装置にハエの死骸が転がり込んだために、「タトル」という名前が「バトル」に書き替えられ、バトルという人間が逮捕されるというストーリが紹介される。名前や符号・数字のまちがいで個人が不当なあつかいを受けるというのは、単純すぎる同一化で、21世紀の官僚システムは、それほど単純な誤謬を犯すことはめったになくなるとしても、官僚システム批判の際にしばしば話題になるこの種の同一化は、根本的には、データと人格・身体の同一化にほかならないのであり、その批判は、依然として重要なのだ。

しかし、人格と身体がデータと同一化できるということにもとづくシステムに対抗するためには、たえずデータをこえる創造性を発揮し、見せつけることが必要になる。〈デジタル・ヌーディズム〉は、アートやパフォーマンスへの徹底した介入を求めるのである。

HotWired Japan Frontdoor / BIT LITERACY /2002-10-02