2001-12-02/粉川哲夫

 

 

最近のメディア状況の変化はめざましい。携帯電話で個々人がPC並のアクセス端末を持ち、ブロードバンドの本格化でインターネットがようやくマルチメディア化し、無線LANの普及で建物の内部のボーダーがはずれた。
こうした変化は、技術的なイノベーションの結果であって、生活の必要性からそうなったわけではないので、それがただちにわたしたちの日常生活の変化につながるとはいえない。しかし、この状態がこのまま続くなら、早晩、家庭も街も会社も学校も、大きな変化にみまわれるだろう。電子的なネットワーク技術というものは、基本的に、分散化と多元化を促進する。そのため、一枚岩的、一元的な組織や集団性は、ネットワーク技術の浸透とともに、時代遅れになる。このことは、この10年の歴史が証明している。
しかし、ネットワーク技術は、既存の古い組織や集団性を解体するでけでなく、人々が「共にある」ということ自体をも根底から変える力を持っている。いまはまだ、「共にある」ということには、フェイス・トゥ・フェイス、ボディ・トゥ・ボディの関係、つまりはフィジカルな関係がともなう。が、すでに、電子メディアでしかつながっていない関係(それでいて持続している)が、次第に増え、その層も厚くなっている。
メディアで徹底的に他人から距離を置きながら、同時に、他人とかぎりなくフィジカルな祝祭的関係を持とうとする傾向は、確実に昂進するだろう。そこでは、文書をただ読みあげているような会議や講義のために集まることは不評を買う。そういうことは、すべてネットで済むからである。そんなことに時間を費やすのなら、自主的なパーティシペイションにもとづく「パーティ」を共有しようというわけだ。
ネット的な「孤独」とパーティ的な「饗宴」との共存と分裂は、今後、ますますはっきりしてくるだろう。そして、その中間形態として、これまでなら、孤独のまま、ばらばらになってしまうはずの「わがまま」な孤独者が、意識的に共同生活をするようなネオ・ボヘミアニズムが復活するかもしれない。これは、バズ・ラーマンの最新映画『ムーラン・ルージュ』を見ながらふと思ったことである。

(『ホームシアターファイル』2002-vol.12、川嶋隆寛)