2001-11-17/粉川哲夫

 

 

【最終稿】

アメリカモデルのグローバリズムをこえて――二〇〇一年九月の「私信」から――

インターネットのメールは、私信であって私信ではない。オープンポリシーが基本だった初期のUNIXにあこがれるわたしは、いまでも、インターネットは本来オープンなものだと思っている。暗号メールを必要だと思ったことはない。表現してしまったことで隠すものは何もないからであり、隠しても、いまの技術ではどのみちすべてがあばかれるだろうと思うからだ。わたしは、かつてネットの「ヌーディズム」(裸体主義)を提唱したことがあるが、ヌーディストが裸になるのは、露出主義者が裸になるのとは異なる。ヌーディストは、むしろ、露出主義者が裸になり、秘密主義者が隠蔽することによってやろうとすることを、ばかばかしくてやる気にもならなくするために裸になるのである。

ワールドトレイドセンター・コム

ワールド・トレイド・センター(WTC)の一棟が炎上しはじめたころ、コンピュータを見ると、サブジェクト欄に"evacuated" (避難した)と書かれたメールが届いているのに気づいた。差し出し人はドイツのミックス・フロアで、その本欄には、たった一行 「http://www.worldtradecenter.com/ 」とだけ書かれている。「ワールドトレイドセンター・コム」とは何だ? 「避難した」とは、彼のことなのか? このURLをクリックすると、WTCの映像でも現れると思いきや、そのアドレスを「売却中」だという表示だけがあらわれた(このサイトは、その後、9・11事件で亡くなった人々の家族や友人たちを助けるためのサイトになった)。数時間後、ふたたびミックスからメールが来た。サブジェクト欄には"sorry"とある。

「あのメールを書いたときは、事件のことを友達から口頭できいただけだったので、事態の重大さを知らなかったし、WTCの二本の建物が崩壊するなんてことは想像もしなかった。そして、Yahooの検索サイトで "world trade center"と検索して出てきたのがあのアドレスだったんだ。だから、事件を冷笑する気持ちなんか全然なかったことをわかってほしい」。彼があやまるのには、理由がある。事件後、メディア・アクティヴィズムに関わっている者たちに、「鳥の巣を踏んじゃったから、さあ大変」というような事件を無責任に冷笑する匿名(たぶんネオナチ系)の同報メールが届き、彼は自分がそういう仲間の一人と見なされるのを大いに気にしたようだ。が、結果的にこのアドレスは、9・11事件を追悼するサイトになったのだから、彼が発作的にやったことはまんざらひどいものではなかったとも言える。事件後、わたしは、万が一ということもあるので、ニューヨークの友人たちにメールを出して安否をたずねた。ペーパー・タイガー・テレヴィジョンのディーディー・ハレックからまもなく返事が来て、「わたしたちは、この新しい状況に正面から向きあおうと努力しています。本当に驚きました」とだけあり、「ヒントになった投稿」というコメントの下に、nettime (メディア・アクティヴィストたちが拠るメーリングリスト http://www.nettime.org/)に載ったスラヴォイ・ジジェクの「リアルなものの砂漠へようこそ」という、のちにネット上でしばしば話題になるよテキストがコピーしてあった。一読して、ジジェクらしい皮肉とひらめきのある文章で、それを素早く書いたエネルギーには敬服したが、あんたはどこにいて誰のためにこういう文章を書いているのと問いたくなるような視点の高さが気になった。アメリカは、これまで「歴史からの休暇」をきめこんできたが、もうそれは終わりだと言うのは正しい。それどころか、9・11事件は、確実に「アメリカ帝国」の終焉を示唆している。だが、ジジェクの姿勢は、アメリカを単純なものとして見下しがちな「ヨーロッパ」流のパターンで、これでは、「アメリカ」や「アラブ」の先にいるもっとトランスボーダーな権力の構造が見過ごされてしまう。

入れ子状の権力組織

わたしは、これまで近代という時代やテクノロジーについてソル・ユーリックとの対話のなかから多くの刺激とヒントを受けてきた。ニューヨークではフェイス・トゥ・フェイスの多くの時間をすごしたし、彼が日本に来たときも、夜通し話したことは、情報や権力についてだった。インターネットの時代になり、わたしの勝手な都合で(ジュリアーニ市長の)「安全になった」ニューヨークが嫌いになり、現地に足を踏み入れなくなってからは、メールがわたしたちの重要な「私信」の手段となった。が、その後、ソルは、癌に倒れ、しばらく消息が途絶えた。夫人や娘さんを通じて状況は把握していたが、もう先は長くないのではないかと思った。しかし、彼は、二年ほどまえ、化学療法で癌をのり切った。八〇歳に手がとどく老人とは思えないたくましさだ。そして、ふたたびメール交換がはじまった。ソルは、WTCから大分離れたブルックリンに住んでいるので燃え上がる建物の煙は見えなかっただろう。たとえ見えても彼は生々しい描写をメールには書かない。彼のメールは、いつも「瞑想的」な表現にあふれている。今回ソルから届いたメールも、いきなり、「本質」に突入する難解な文章ではじまっていた。彼は、「アメリカへの攻撃」というわたしの言い方を否定し、「たしかにこの攻撃は、アメリカの財政のシンボルだけでなく、財政の中枢を叩いたのだから、見事ではある。しかし」と論を進める。「他方において、財政の形式というものは、いわゆるリアルな資本のメタフィジカルで、集団心理学的表象、メタファーなのだから、富の一表象が破壊されても、他のファイルに行ってそれを書き替えさえすればいいのです。だから、グローバリゼーションとある種の世界統一への動きを前提とすると、この『センター』は実のところ、どこにでもあるわけです」。たしかに、あれだけの「センター」が破壊されても、世界経済は休止しはしなかった。それどころか、WTCに事務所を置いていたトランスナショナルな企業は、他所で仕事を続行したし、対岸のニュージャージーに事務所ビルを建てる動きがすぐに出てきさえした。ソルのメールは、A4で四ページ近くもあり、彼とわたしがこれまで話してきたことを9・11事件にそくして展開しなおしている。彼は、以前から、米ソとか、アラブ対イスラエルとか、そして、左翼/右翼、警察/犯罪組織というような月並みな対立概念で現実をとらえようとしても無理であることを強調していたが、このメールでも、WTCを崩壊させた組織は、「E・O・ウィルソンが『社会生物学』のなかでコロニアル・アニマルと呼んだものに似ており、あるときは複数の単細胞として連結し、別のときには統一された一体の動物として動く」のだと言う。ソル・ユーリックと話をしていて、最終的に行き着き、いつもわたしが彼に食いさがる問題は、権力のそうした多細胞的、入れ子状的な関係のもとでの「反権力」運動や「平和」運動の位置と可能性である。ソルは、9・11事件がいずれ、「十字軍の再演」にいたるであろうことを予見しているが、戦争やテロは、世界という複雑な細胞組織の、「癌」以上に予測と回避の不可能な突発的な「病」と見なすしかないのであろうか?

アメリカとヴァーチャルな「アメリカ」

いまメールをやりとりしている海外の友人のなかには、それ以前も長い期間手紙のやりとりをしていた者が少なからずいる。たいていは、手紙をやめ、封筒と便箋のない電子メールに転向してしまったが、まだあいかわらずIBMの電動タイプライターでエスクワイヤー・ボンドの便箋にきりっとした文字のならぶ手紙にこだわっている友人がわずかにいる。スティーヴ・ライトはその一人だ。彼とは、Telosに起稿したわたしの文章がきっかけで、編集長のポール・ピッコーネの紹介で文通をはじめ、五年ぐらいしてからカリフォルニアのバークレイではじめて顔をあわせた。一九八〇年のことである。60年代にカリフォルニア大学バークレイ校を拠点にしてニューレフト運動を闘った「バークレイ・ラディカルズ」の末裔である彼は、定職を嫌い、三〇年代のパリのワルター・ベンヤミンのような日々をサンフランシスコで送っている。スティーブは、9・11事件の二週間後わたしに分厚い手紙をよこした。はっきりとアメリカのアフガニスタン攻撃を予感しながら、彼は書いている。「新共謀政権は、いまや驚くべき救いの恩恵をあたえる。すなわち、戦争――すべての具体的な政策が”人質”になってしまう戦争」。「この政権は、最も地方的で、最も了見の狭い、ドグマティックな人間たちでいっぱいです。彼らは、狭量の冷戦的偏見と "シンクタンク" 的な妄想に直接支配される以外には世界的かつ地政学的な現実をつかむ鍵をもっていないのです」。彼が言わんとすることは、見かけ以上の深い問題に触れている。思うに、アメリカは、無数の「ローカル」から「アメリカ」というヴァーチャルな統合概念を作って共通の国家意識にしている。しかし、これは、「アメリカ」が複数の「ローカル」の集合の平均値だということではない。「アメリカ」は、その時代とその政権によって、一つの[〈一つの〉にルビ点]強力な「ローカル」(たとえば大統領の出身地や選出地盤の文化と利権)が「アメリカ」を覆うことによって、「アメリカ」が出来上がるのである。その意味では、アメリカは、時代によって「テキサス」になったり「カリフォルニア」になったり、「ニューヨーク」になったりする。アメリカ国家は、アメリカ人にとってつねにヴァーチャルなものであるから、アメリカ人は、自分を国家に「完全」に同化することはない。戦争やオリンピックでいっとき「一体感」をいだくことはあるが、それが民族的怒涛のごとき勢いに高まっていくということはない。しかし、ブッシュ二世政権は、彼が依拠する「ローカル」によって「アメリカ」を覆いきれない自信のなさから、戦争によって直接「アメリカ」を維持する方法を選んだ。その「長期戦」宣言は、そのことを暴露するものであるが、これによってアメリカ人は、本来一時的なお祭りとしてしか持続しないはずの「アメリカ」にだらだらと長期にわたってつきあわさせられることになる。オリンピックを一年もやったら、誰でもうんざりするが、戦争となるとうんざりでは済まない。さらに悪いことは、このパターンが、「テロリズムの撲滅」の名のもとに世界に押しつけられたことである。国家が存在するかぎり、どの国にも、ローカルなものと国家的なヴァーチャルさとの齟齬は存在する。ブッシュ二世政権が各国に要請していることは、われわれの側からすると、自分の国家の上に、あるいはそのかたわらに、もう一つ国家をいただくことを強制されているようなものなのだ。二〇世紀後半のテクノロジーは、ローカルなものが無数にリンクしながらグローバルな、たがいに異質な有機関係を生み出し、そこでは、ローカルなものと個々人との直接的な関係がグローバルな規模で前面に出ることを約束した。ここでは、国家的なものは、かぎりなくローカルなものの背景にしりぞくはずであった。しかし、こうした《能動的なグローバリズム》に対して、単に統合的なだけの「グローバリズム」が、いま、世界を覆っている。むろん、そんなことがいつまでも続くはずがない。アメリカ国内でも無理だし、その外ではなおさらだ。グローバリズムとは、世界がアメリカ化することでも、単なる「国際化」でも、コスモポリタン化でもない。情報テクノロジーによってローカルなものが地球規模でリンクされるということがグローバリズムの前提であり、その際、そのリンクのされ方は、決して一様ではなく、ましてアメリカモデルに統合されるわけではないからである。グローバリズムにおけるアメリカの「覇権」はまもなく後退するはずである。

(『9月11日メディアが試された日』、木村祐子)