2001-11-11/粉川哲夫

 

 

先日、ゼミの学生に、「メジャー」ってどういう意味かとたずねたら、「有名」という意味だという答がかえってきたので、では、「メジャー」の反対語は、ときいたら、誰も答えられなかった。「マイナー」という言葉が死語になってしまっただけでなく、まず「マイナー指向」という能動的な活動があり、そこからはずれることを「メジャーになる」と軽蔑的に言われた時代があったということが、すでに忘れられているのである。
この連載も今回で終わりになる。基本にあったのは、要するにITの「マイナー」な使い方のすすめであるが、「マイナー」がかくも無意味になっている現状では、あまり説得力がなかったかもしれない。が、それでは、日本では、なぜマイナーという観念や言葉自体が力を持てないのだろうか? それは、規制が緩和され、社会がもっと多元化すれ ば、変わってくるのだろうか? が、本来、マイナーなものは、メジャーなものより先にあったはずなのだ。
マイナーは、「スモール・イズ・ビューティフル」のスローガンのなかでその批判的な政治性やラディカルさを抜き取られ、やがてメジャーなものの構成要素になった。当然、かつては一枚岩的であった「メジャー」も変化し、その内部のさまざまな「マイナー」な要素をはらんだものに変容した。「メジャー」もまた、かつて持っていた権力的な含蓄を捨てた。党、組合、会社、家、メディア、マッチョ的な個人等々、すべて一枚岩的なものが、解体・自己変容することを余儀なくされたのもこのプロセスのなかにおいてである。
現状肯定派のひとは、ここに「多元的な社会」への動きを見たわけだが、ここへきて、多元的になったように見えたのは、社会のうわべだけで、出来上がったシステムは、マイナーな個々人が、組織や国家に対して不満や異議をいだいていても、それをどこへ向けてよいのかわからぬまま、うやむやになってしまうようなシステムであることが徐々にわかってきた。
情報テクノロジーには、個々人を孤立させたかたちでリモートに「連合」させる機能がある。その結果、ひとびとは、あたかも個人的な「自由」をエンジョイしながら仕事をしているかのような意識におかれながら、その実、ばっちりとリーモート・コントロールされているという巧みなシステムの住人となる。こういう傾向は、この10年間に急速に進んだ。個々人は、個人として異議をとなえることはできるが、集団としては無力化させられた。その結果、追いつめられた個人は、見当違いな相手や組織に対して向こう見ずな攻撃をくわえるといったやりかたでしか、自分の不満や批判を表明できないという意識にとりつかれる。テロリズムの「普遍化」状況がこうして生まれる。
だが、くりかえし書いたように、情報テクノロジーは、いま現在使われているやり方だけが、唯一の、それ「固有」の使われ方ではない。個々人を統合するのが支配的機能だとしても、逆に、個々人を解放し、連帯させる機能もあるのだ。メディアは、それ自体で変容するわけではない。まして、アメリカが先導し、それがグローバルに広まるのでもない。同じテクノロジーを使っていても、その使い方には社会と政治の係数が加味される。
いま「国をあげて」テロリスト撲滅の戦争に邁進しているかのように見えるアメリカでも、インターネットをさがすと、あちこちのネットラジオが、反戦やブッシュ政権批判の集会の報道や論評を流している。それらは、全米で数百はあるマイナーなラジオ局やケーブルテレビ局が流している放送をそのまま(あるいはその一部を)インターネットに流しているわけで、明らかに、日本のマスメディアからはまったく見えない別のメディアの動きや機能が存在することを示している。
日本では、マイナーなメディアが、メジャーなメディアとは別のひろがりを見せることは少ない。それは、一つには、新しいものが、みな、外から「輸入」されたり、「黒船」のように外から闖入したりするという権力構造がいまも健在であるるからだが、他方で、マイナーな側があっさりメジャーに寝返ってしまうというマイナーサブカルチャーの脆弱さからでもある。日本では、コンピュータが一般に使えるようになった1980年代後半、メジャーものに反対する個人や組織体、つまりはマイナー指向のあいだでは、一体に、コンピュータを拒否したり警戒したりする雰囲気が強かった。「わたしは反体制だからそんなものは使わない」と公言してはばからない者もいた。ところが、そのうち、そんなことを言っていた人々や組織体が、かつての拒否宣言などなかったかのようにコンピュータを無批判なまでに使い、仕事をするようになった。同じ使うならば、どこかに「反体制」の距離を取るべきだと思うが、使い方は「体制」側と全く区別がつかない。
しかし、このにがいはずの「転向」経験にもかかわらず、今後、いまの「主流」に異議をとなえる個人や組織体が、新しい情報テクノロジーには、恥ずかしいほどの「軽薄な」好奇心を見せるようになるとは思えない。わたしは、その方がマイナーパワーの伸張にとっては面白いと思うのだが、そういうきざしは当面なさそうである。主流を批判しながら、情報テクノロジーが持つ決定的な力を軽視し、それを-依然として単なる暫定的な手段としてしか見ない傾向。これでは、日本の政局も経済も変わらないだろう。

(『連合』、池谷達)