2001-11-05/粉川哲夫

 

 

【最終稿】

本の危機と再生の鍵は、「読む」ということのなかにある。「読む」ということの意味が変わってきたことが、本を危機に陥れている。しかし、このことは、本の読み方(解釈)を変えれば事態を乗り切ることができるなどという意味ではない。問題は、本の存在そのものの問題だ。本は、いつのまにか「データ」になり、「読む」ことが「データ」を使うということになった。こうなれば、本は、「データ」として「最適」の形態に変貌せざるをえない。はたして本は、「データ」に解消されるのか、それとも本は本としての別の「読み」方と形態を見出すことができるのか?
本の世界では、本的なものとデータ的なものとの混乱がはげしくなっている。傾向としては、本のデータ化が無自覚に進んでいる。本もデータも「情報」であるといえばそうだが、本を情報の束と受け取ってしまうことがそもそも本をデータとして見ていることなのだ。本は、情報に還元できない物的な形態や要素がある。もしそういう要素を捨象してしまえば、本でもビデオでも、脳へ直接投射する電子情報でも、みな同じということになってしまい、本を論じることができなくなる。本をデータ化する最も簡単な方法は、本を見知らぬ人にタダで送りつけることだ。本を読むということには、読者のある種能動的・主体的な働きかけ(買うのもその一つ)が必要だが、タダでもらった本は、その多くを最初から省略している。いきなり寄贈された本を読まないで放置しがちなのは、このことと関係がある。買ったから読むというのは、損得の問題ではなく、読者の能動性を示唆する指標の一つである。
インターネットのメールが普及し、手紙の役割が低下したが、友人や知り合い、つまりは自分が関心のある相手から届いた手紙は、「読む」だろう。ダイレクト・メールは、とりあえず保存するか、屑箱に捨てられる。それらは、手紙という同じ物的形態をとって配達されるとしても、データとして「処理」されたのである。その際、あなたに、美しい印刷のダイレクト・メールが捨て難いという気持ちをいだかせたとすれば、それは、その印刷物がデータにはなりがたい物的要素を濃厚に保持しているからである。しかしながら、これも、プリンターやコピーの複製技術が高度化するなかで、次第に気にならなくなる。データなら、どんなものでも複製技術によって、そのつど必要な「物」として現出させればいい(完璧に出来るかどうかは別にして)という意識が暗黙に強まるからである。データはブラウズされるのであって、読まれるのではない。ブラウジングとは、ななめ読みすることだが、それは、当面そうしているだけであって、データは、究極的には、読まないですませることをめざしている。インターネットを自動的に一巡し、データを集め、整理してくれるソフトがあるが、データは本来「読まれ」なくてもよいのである。データは「プロセス」(処理)される「プロセス」(過程)がかぎりなく続くことが価値なのだ。これは、読む「価値」とは根本的に違う価値体系に属している。
本のデータ化の背景を考えるには、本をもう少し一般化して見る必要がある。本をデータから区別するのは、その有形性、つまりは身体を持った読者とひとつながりの「物」であるということだからである。ここで言う「物」とは、メルロ=ポンティは、かつて、「世界(物)は(人間の)身体と同じ生地で織られている」と言ったような文脈のなかにある。
二〇世紀後半から二一世紀にかけて、物のデータ化が進んだ。物品がかぎりなく「ライト」(究極は量的にはゼロの情報へ)になっただけでなく、身体の「重さ」(重量・アウラ・存在感)も「軽く」なり、アンドロイド/サイボーグ的身体がクールなものとみなされるようになった。この傾向には、物の神秘性や強い肉体の願望といった反動がセットになってあらわれるが、主流は、物でありながら物らしくない「モノ」の増殖である。使われない物品とデータに換算されなおされて値踏みしなおされる物品。物の「価値」/「価格」は従来とは全く異なる基準ではかられるようになる。最近の秋葉原は、往年の「闇市」が復活したかのようである。秋葉原の電気街(いまでは「アキバ」と言う)は、もともと闇市だった。闇市では、タダ同然で仕入れたものや盗品もあったから、値段は相場であり、相手次第でころころ変わった。価格は極めて主観的なものだったのである。そしていまアキバでは、似たような現象が生じている。
先日、五年前に六七〇万円もしたSGIのワークステーション Indigo2 の中古がたったの三八〇〇円で売られているのに出会った。 Indigo2 といえば、かつては、コンピュータで映像製作をしている者には垂涎の名器で、いまでも、飾っておきたいと思うファンがいる。「保証なし」とのことだったが、わたしは、早速購入し、重いのでタクシーを使い、こちらには二五〇〇円払って仕事場まで運んだ。テストして見ると、ちゃんと動くばかりか、メモリーもしっかりつまれていた。この状態ならば、少なくともわたしには、最低にみつもっても三〇万円の価値がある。
他日、やはり五年ほどまえには現役だったマックでLinuxの実験をしようと思って、アキバにネットワーク・カードを買いにいった。すると立ち寄った中古店の主人が、それは、「買うと(中古で)二〇〇〇円ぐらいだが、ここに八一〇円でそのカードが付いたマシーンがあるから、これを持ってってカードをはずしたらどう?」と言った。そのマシーンというのが、わたしが実験しようとしていたのより上位の機種なのだから、わたしは複雑な気持ちになった。結局、わたしは、わたしの古いマックの「名誉」のためにその八一〇円のマシーンを買うのをやめた。それを買ってしまうと、わたしのマシーンの「価値」が一挙に下落してしまうような気がしたからである。
ここで言っている「価値」は、わたしにとっての使用価値にすぎないが、アキバにころがっている物は、別の価値も生む可能性を持っている。いまはやりの「ネットオークション」をのぞいてみると、そこには、わたしが手に入れたのと同じマシーンが一〇万円以上の値で競られている。つまり、中古コンピュータの価格は、極度に恣意的になっており、価格はあってなきがごときものになっているのである。この傾向、つまり物とその使用価値との関係の恣意性は、コンピュータにかぎらず、物品全般に波及している。
価格と価値が一致せず、価格が物のロジックを離れ、主観的・個別的な価値に変貌するというのは、すでに古本でも美術品でも見られたことだ。しかし、これらの価値は、権威による主観的な値踏みと同時に、その物としての「希少性」を基準にしており、依然として生産者/提供者の側の決めた量の論理にもとづいている。一〇〇円コーナで見つけた本が、あなたやわたしにとって決定的な価値を持ったとしても、それらを「稀覯本」とは呼ばないのである。が、いま、問題なのは、量を越えたレベルの価値なのである。
本の存続は、本の物的な側面をどうするかにかかっている。すでにコンピュータの世界では、その物的な意味が急速に変わろうとしている。コンピュータの物としての機能がある種の満足と定型の「エントロピー」に達しつつある。満足の「エントロピー」からは、どこの製品を買ってもそこそこのことが出来てしまうPCに見られるような、テクノロジーの平均化や、実用性の拡大、その反面としての飛躍的な創造性の沈滞が生まれる。定型の「エントロピー」のなかからは、使い方を定型化し、それに合わない物は――先のIndigo2のように、少し使い方を変えればすぐれた性能を発揮する往年の名器であろうと――捨ててしまう(その基準になるのが「スペック」であり、「リース期限」である)ような現象が生まれる。
その意味では、本は、コンピュータよりも早く満足と定型の「エントロピー」に達してしまったと言えるかもしれない。思うに、出版産業は、本の物としての側面の微調整にばかり気を取られ、本の物性の変化に対応する環境の創造をおこたり、末期症状に陥っているような気がする。たとえば、音楽物的形態としていま主流なのはCDだが、音楽物的形態は、この五〇年間にも、SPからLP、EP、カセットテープ等々とめまぐるしい変化をとげてきたし、今後もそれはさらに変化しつづけるだろう。それにくらべて、本の物的形態は、文庫本以来ほとんど大した「革命」を経験していない。それは、本の物としての意味や機能を出版界が自己認識していないからではないか?
文庫は、通常、それが、廉価で大量部数印刷されるという製作者/提供者側にとっての意味でしか理解されていない。しかし、いくら安く作られても、売れなければ大量に刷ることもできないだろう。わたしが思うに、文庫本がこれだけ普及したのは、その手の平サイズのおかげであって、脳の突起である手が、他の助けを借りずに直接つかみ読む行為に入れるということが、文庫本の最も革命的な物的要素なのではないか?
本は、売れたからといって、読まれるとはかぎらない。百万単位のベストセラーは、好奇心と他人のやっていることを共有するという安心感、一応(つまりは「データ」として)買っておこうといった関心から買われるものが半数以上をしめる。また、逆に、そういう側面を満たせないものはミリオンセラーにはなれない。だから、出版部数は、読まれる度合いの指標にはなりえないのであって、出版部数が増えれば増えるほど、本が読まれなくなるという傾向が昂進することもありえる。
明らかに、「商品」の新しい動向は、一過的に「売れる」/「売れない」でではなくて、それが持続的にどう使われるか、に重心が移りつつある。だが、製作/提供と、読者にどう使わせるかということとがワンパターンでしか考えられないいまの出版状況のなかでは、本にはあまり明るい未来は見えない。読者に本をどう使わせるかと言っても、それは、書店が本の並べ方を変えたり、店内にソファを置いて「立ち読み」を奨励したりする程度のことではどうしようもない。
これは、いまの本自体がもっている物的特性から来ている面もある。いまの本の物的形態は、ある種の「完結」状態、すでに使い方が決まってしまっているプリセット状態に達していて、いくら変わった使い方をしろと言っても、せいぜい、ページを破きながら読む津野海太郎流読書法のバリエーションしか考えられないのである。
その点、食品の方は、使い方が「完結」しているように見えるインスタント食品でも、大分まえからその食べ方に「ユーザー」の選択肢をあたえる傾向が出ている。画一商品でも、使う方が自由にアレンジすることでそれぞれの特異性が生まれる。あらかじめ食べ方もプログラムされているマクドナルドに対して、客の好みをきいて組み合わせ、トッピング、スパイスなどをかえるシシカバブやクレープのような新興のストリート・フードのスタイルが流行しつつある。
レストランでも、大衆的レベルでは、いわゆる「バイキング」方式が世界中で流行っている。ウェイターが注文を取りに来て、細かく指定して料理を選ぶとか、あるいは、すでに決まっているセットメニューを黙って食べるというのではなく、ずらりと色々な料理が並んでいるコーナが用意されていて、客はそこに行って、自分で好きなものを選んで食べるという方式である。ひとは、もう、お仕着せにはうんざりしているのであり、本はお仕着せメディアの最たるものの一つになってしまったのだ。
では、本の「バイキング」方式とは何だろう? これは、少なくとも、既存の「本」の形ではできない。「オンデマンド本」というのもあるが、現状の「オンデマンド本」は、読者の好きな本を作るわけではなく、注文のあった部数を必要に応じて提供するというにすぎない。こうなると、本はそのプリセット性に居直るしかないかもしれない。本の存在が決定論的であることに居直ろうとわけだ。音楽CDには、ジャケットのデザインが5色ぐらい選べるものがある。本もときどき、二種類ぐらい装丁を変えて出るものがあるが、そういう本は、まじめな読者には嫌われる。本は歯ブラシじゃないぞと怒るのが本の読者だ。読者には、どこか決定論に組み敷かれることを暗黙に望むマゾヒスティックな性向があるからかもしれない。だが、いまどきメディアに権威やアウラをつきまとわせようと思っても無理ではないか?
にもかかわらず、本は、依然として、一方で、極めてウルサイ食通にとっての料理であることが求められる。名店で料理人が作る料理をありがたく食するようなところが本の読者にはあるから、素材として提供される本は敬遠される。が、それならが、本は、ある種の「霊感商法」のように、と言って語弊があれば、作者や出版社への「信仰」や「ファン」意識でささえられる特殊メディアとしてとらえなおした方がよいかもしれない。この方向を脱神秘化し、合理化した形態がブック・クラブである。むろん、それは、いま欧米にあるのうよりももっとマイクロな規模の読書サークルである。これは、すでにあるウェブページと簡易なオンデマンド印刷技術を組み合わせることによって可能だし、散発的な形であれば、すでに行なわれていることでもある。しかし、これでは、商売にはなるまい。

本が終わりに達しつつあるもう一つの徴候は、ひとがいまあまり札をめくらなくなったということにも見出せる。札をめくって勘定するのと、本のページをめくるのは、目的意識はちがうとしても、手の同種の身ぶりである。しかし、今日、めくって勘定しなければならない札束よりも、クレジットカードやさまざまな電子取り引きが好まれる。その結果、手の機能から「めくる」機能が失われる。札やページをめくるということは、ものをシーケンシャルに数えることである。札束や本のページをめくるのは、それらがシーケンシャルな形態をしているからだが、メディアは、ますます「非線形的」なものになりつつある。
資本主義経済は、札をめくることを次第にやめるだろう。 物の移動や交換によって利潤を獲得する金銭資本主義に対して、今日の情報資本主義の時代には、物は全く移動・交換されなくても、利潤が生まれる。利潤自体が、従来の「剰余価値」とは異なり、情報システムのなかで新しい意味(価値ある意味)が突如生まれるときのようなある種の「バブル」的、「ギャンブル」的な、不確定な飛躍によって左右されるようになる。めくることができない本は本とは呼べないから、紙幣の終わりとともに本も終わるだろう。本も紙幣も、現在の物的特性にこだわりつづけるならば、記念的な「本」や「紙幣」に引退するしかない。だが、依然として、手と本との関係は未知の可能性を秘めており、「めくる」のでも、むしるのでもない手との持続的な関係を発見できるならが、本はよみがえるにちがいない。
 

(『本とコンピュータ』2001年冬期号、竹中龍太)