2001-10-16/粉川哲夫

 

 

不安の時代がはじまった。引き金を引いたのは、このひと月のあいだに起こった一連の「テロ」事件である。(世界的な規模の不安の時代の開始の予徴は、夏からはじまった新コンピュータウィルスによるサーバー攻撃にあったとわたしは思う。その発端やひろがりかたは、もっと研究されてしかるべきだろう。)
時代をおし流す動きというものは、特定の個人や集団だけが計画してもうまくいくわけではない。世を騒がせることが好きな個人や集団はいくらでも存在するが、すでになにかの連結要因があったときはじめて、彼らは、それに引かれるようにして、あたかも計画的に連帯したかのような動きをとりはじめる。そして、一旦その動きができてしまうと、そうした個人や集団が、それぞれ勝手にやることが、「うまく」連動し、時代の大きな動きをつくってしまうのである。
1920~30年代にも不安の時代があった。キルケゴールは「不安の哲学」、カフカは「不安の文学」の開祖とみなされた。ハイデッガーが『存在と時間』(1927)で使った「不安」(アングスト)という概念は、単なる情緒的な不安だけを意味するわけではなかったが、この概念のために彼はたちまち時の人となった。
いま、週刊誌やスポーツ紙は不安を売りにしている。「次の自爆テロのターゲットは東京!」、「炭疽菌があなたの郵便のなかに!」、「テロ集団は日本にもいる!」・・・こんな見出しをつければ、部数が倍増する。「不安」記事の増殖の犠牲になって消えた記事も数知れない。
こういう時代には、なにが起こっても不思議ではないという気分がまんえんするから、実際になにが起こってもそのまま受け入れられてしまう。これは怖いことだ。ワールド・トレイド・センターの崩壊のあとでは、新宿副都心のビルの1つや2つが崩壊しても、「やっぱり」ぐらいの感覚で受け止められかねない。われわれの感覚がマヒしてしまったからである。
が、この感覚マヒは、急にはじまったわけではない。ワールド・トレイド・センターの崩壊の過程をテレビで見たひとの多くが、「CGよりすごい」という表現を使って、その驚きを語った。それは、たしかである。だが、この言い方は、暗黙に、われわれがほとんど(特に予想外な)すべての出来事を映画やテレビの映像表現との関連で見ているということをあらわにしている。
あったこと、ありうることをこれでもか、これでもかと想像し、工夫して描くのが映画でありテレビである。だから、映像のなかに一度は表現されていないものはないとすら言える。そうした映像を日々延々と見せられているわれわれは、なにか予想外の出来事に接してとき、まず、そうした映像の記憶を〈参照〉するのは避けられない。実際に、ハリウッド映画は、20世紀の世界の観客に対して、セックスの仕方、殴り方、殺し方、食べ方、着方といった肉体的身ぶりの定型を教え、刷り込んできた。
こうした映像のなかを堂々めぐりするような知覚からずり落ちてしまうものはいくらでもある。9・11事件後、わたしは、ニューヨークの旧友と電話やメールで現場の話を聞くことが多かったが、こちらにいたのでは、絶対にわからないだろうと思うのは、いまも現地をおおっている独特の臭いではないかと思う。焼けた建材や内装品そして被害者の身体、飛散した多量の埃、新たに発生した複雑な噴出物・・・の入り混じった臭気。それが、現場から遠くはなれた地域の建物のなかにも侵入してくる状況。これは、たしかに日本にいてはわからない。
しかし、問題は、電子メディアの限界を云々し、「やはり現場にいかなけりゃ、ダメだ」というようなことを言うことではない。問題は、ナマの現場にいてさえも、すでに自分の体内に刷り込まれている映像の目で現実を抽象化して知覚してしまうことである。現に、ニューヨークから日々現場中継されるニュースのキャスターたちの口からは、そうした臭気のすごさ、不気味さは伝えられなかった。メディアの内部を堂々めぐりすることを専門にしている人たちにメディアの「外」を期待しても無理であるが、視聴者にもこの状態がすでにインプットされている。これは、メディアを意識操作の道具に使おうとする側にとっては、好都合な状況である。
1938年10月30日、オーソン・ウェルズは、彼らしいいたずらを実行した。彼がWABCで持っていた連続ラジオシリーズ「マーキュリー・シアター」でH・G・ウェルズの『宇宙戦争』をドラマ化したとき、それを実況中継のスタイルで放送したのである。彼は、ラジオというメディアが、演劇のように、必ずしも最初から最後まで連続的に聴かれるのではなく、仕事の合間に断続的に聴かれる傾向を持っているということを知っていた。また、ナチの侵略が進む政局のなかで、なにが起こっても不思議でないという「不安」がひろまっていることも承知していた。だから、最初にちゃんと「フィクション」であることを断ったにもかかわらず、宇宙船がニュージャージーに飛来し、宇宙人が地球人を襲いはじめたことを「ニュース」のスタイルで「報道」しはじめると、次第に、聴取者のあいだにパニックが起こっていった。
メディア操作の歴史的な代表例をここでくり返し説明する必要はないと思うが、いま、世界は、そしてテレビ依存率の高い日本は特に、「不安」を軸にしたメディア操作を受けやすい状況にあるということを強調したい。メディア操作の歴史的な代表例をここでくり返し説明する必要はないと思うが、いま、世界は、そしてテレビ依存率の高い日本は特に、「不安」を軸にしたメディア操作を受けやすい状況にあるということを強調したい。
すでに「平和ボケ」を強調し、あせらせるメディア操作もかなり成功している。日本の「平和」は、努力して維持されてきたものなのに、たまたまそうであったにすぎないかのような操作。本当は、いまは、不安の時代ではなくて、攻撃する軍を持つ日本へ逆戻りする恐怖の時代のはじまりなのではないか? が、この言い方も「不安の時代」のお先棒をかついでいるにすぎないととられかねないところが、ディレンマである。

(『連合』11月号、 池谷達)