2001-10-09/12/粉川哲夫


 
グローバリズムのディレンマ

ワールド・トレード・センターを砂漠化し、ペンタゴンの一部を破壊した九・一一事件は、ミサイル攻撃のような、これまで国家が介在することなしには不可能だった戦争的規模の攻撃が小集団によっても可能なことを世界中の「観客」にマニフェストした。武器に使われたのは、民間航空機であり、それをビルに激突させるという方法は、一見、タイタニック的なモダン・テクノロジーの逆説的応用のように見えるが、その準備過程において起動したテクノロジーやその出来事を世界にマニフェストする技術は、ポストモダン・テクノロジーなのである。それは、コンピュータをはじめとする電子テクノロジーの浸透なしには不可能だった。

インターネットにつながった1台のコンピュータに向かうたった一人の個人が、コンピュータ・ウィルスをばらまくことによって、世界中のネットサーバーに甚大な被害をあたえることは、可能であり、実際にそれは頻繁におこなわれている。しかし、個人が、世界を「敵」にすることができるようになるのは、単なる技術の発達と普及のためだけではない。それまで基底的なものだと考えていたものを完全に否定できる思考がともに昂進しなければ、どんなに強力な破壊兵器を所持していても、それを使うことはできない。命と自然、つまりは自分の身体、他者の身体、すでにつねに自己組織化されたものを徹底的に客体化し、その空無化を「予料」する思考が必要なのである。

映画『ピースメーカー』では、国連軍=ピースメーカーの空爆で家族を失ったサラエボの男がロシアの核弾頭のコアを手に入れてアメリカを危機に陥れるが、そのようなドラマティックなことをしなくても、東海村の臨界事故では、少数者の「不注意」が、簡単にチェルノブイリ的な災害を生み出せることを証明した。サリンがもはや軍の兵器ではないことはオオム真理教のサリン事件によってあらわになった。が、これまでさんざんシュミレートされてきたように、組織中枢の要人が(狂気のすえに)『博士の異常な愛情』よろしく世界を破滅に陥れる可能性は、モダン・テクノロジーが依然有力だった冷戦時代にもあったにもかかわらず、それが意図的に起こされたことはほとんどなかった。

航空機の自爆テロの源流はカミカゼである。無謀な突撃においても死は理論上依然として「事故死」であった古典的な戦死に対して、日本の神風特攻隊は、戦死を戦争の必然的な相関要素であることを認めさせた。爆弾は消費されるが、兵士は消費されてはならないというタテマエを打破し、一人の空軍兵士を飛行機=爆弾の操縦機能に変えた。ここには、兵士を動員し戦場に配置する指揮官がどのみち持たざるを得ない客体化の思考よりも一段上の客体化=無化の思想が見出される。それは、同時代の西田幾太郎流の「絶対無」の哲学の変則的な応用、あるいは単純化されたドイツ観念論とナチズム的な科学主義と通底している。いずれにしても、身体・生命・死への思考の飛躍的な転換と制度化なしには、カミカゼは不可能であった。

戦争は、つねに極度の客体化のなかで動く。ナチスはアウシュビッツを初めとする強制収容所でユダヤ人を数量的存在とみなそうとしたが、日本の七三一部隊では中国人は「丸太」と呼ばれた。元皇軍兵士一四人の生々しい証言を記録した松井稔の衝撃的なドキュメンタリー『リーベンクイズ(日本鬼子)』は、当初、人を殺すなど考えもおよばなかった兵士がいかにして、日々の暴力的な訓練と残虐な殺人の実演のなかで、命令により平気で農家を襲い、焼きはらい、逃げる婦女を暴行し、殺す(三光作戦)ことができる戦争マシーンになるかを例証する。そのタイトルは、泣き叫びながら幼いわが子だけは助けてくれと懇願する親の目の前で銃剣をふるう日本兵に対して、殺される農民が残した叫び(「日本人は鬼だ」)からとられている。

湾岸戦争以来、戦争はテレビ映像と一体のものとなった。戦争がマスメディアと不可分離の関係にあるのは、第二次世界大戦においてもそうだったが、あたかも現場に居合わせるような感覚を全世界的規模でもたらす戦争は、湾岸戦争以後のものである。その結果、戦争もまた映画とテレビの視角と構図でながめられるようになり、それらのなかに入らない要素は切り捨てられる。すでに、スポーツ・災害・事件は、「生で」つまり身体全体で体験されても、すでにインプットされている映画・テレビ映像の体験のフレームとマッピングで受け取られる。映画やテレビの「目」がわれわれの身体内に埋め込まれてしまっているのであり、何ごとも映画やテレビで見るように見てしまうのだ。

ワールド・トレード・センターへ旅客機が突入し、タワーが炎上し、やがて崩壊する一連のプロセスは、テレビのライブ中継で全世界に流された。ニューヨーク付近にいなかった者は、その事件・出来事・プロセスを知っているが、映像のシーンとして知っているのであって、出来事の体験としては非常に抽象的なのである。そして、そのプロセスとともに、『インディペンデンス・デイ』や『Gozzila』といったハリウッド映画のシーンが脳裏をよぎる。これは、現場にいた者でも、かわりがない。テレビ内存在としての現代人は、ハリウッド映画やCNNの映像文法を逃れることができない。しかし、現場にいる者は、やがて、六〇〇〇人の死者が飛行機のガソリンによって焼却された臭いが入り混じった煙と異臭によって、自分が映画のスクリーンの前にいるのではないことを知るだろう。

映画やテレビで起こらなかったことは、決して「起こりえない」。映画やテレビとわれわれの日常生活とのいまの関係が示すのは、映画やテレビが、くりかえし、起こりうるあらゆる出来事のシミュレーションを行なっているということである。すでに(不完全であれ、もっと「すごい」形でであれ)見てしまったという意識が用意されている。ワールド・トレード・センターの崩壊のライブ映像を見た人が、思わず「CGよりすごいですねぇ」と口走った。たしかに、これまでハリウッド映画で使われたコンピュータ・ジェネレイティッド・イメージでは、崩壊とともに飛び散り、ロワー・マンハッタンを覆った埃を描いたものはなかった。だが、問題は、どちらがすごいかではなくて、映像の外で起こった出来事が、映像内の世界と比較されることだ。わたしたちは、知らず識らずのうちに、映画・テレビの「目」ですべてを見てしまっていることをはからずも露呈させたのである。

電子メディアは、〈距離のコミュニケーション〉と〈距離の感覚〉をかぎりなく広げ、フェイス・トゥ・フェイス、ボディ・トゥ・ボディの関係のなかですら、相手に〈メディア的距離〉を取ることを習慣化させる。戦争やテロのなかで行使される冷酷な暴力は、こうした〈距離の神経反応〉のなかでエスカレートする。それは、従来的な意味での「無関心」ではない。どんなに「リアル」な、身体的に手ごたえのあることをやりながらも、それが、絵空事にしか感じられない感覚が増殖しているのである。この状況からは、戦争やテロを行使する者たちはむろんのこと、反戦のマニフェストや運動を行なう者も逃れることはできない。その結果として、平和勢力は後退し、戦争とテロの推進者が力を得る。

距離のコミュニケーションや距離の感覚が、「非人間的」な暴力にしか役立たないのは、それらが本来そのような特性を持っているからではない。そうではなくて、それらが、マシーン・テクノロジーとともに機能するからである。このテクノロジーは、「人間的」なものを抽象化することによってその効率を発揮できる。距離のコミュニケーションや距離の感覚は、距離のメディアのなかでしかその能動的な要素を発揮することはできない。そもそも、ここで問題の「距離」も、マシーン・テクノロジーが依然として力をふるっている〈ポストマシニック〉な状況のなかでの相対的な表現であるにすぎない。電子テクノロジーは、まだそのポテンシャルのすべてを展開してはいないが、このテクノロジーのなかでならば、この「距離」はネガティヴなものではなくなる。

情報資本主義は、資本主義の終末形態である。ここでは、終末の「かぎりなき循環」か、その場しのぎの「後退」しか資本主義システムが生きのびる方法はない。後退とは、石油や核のエネルギーにもとづくマシーン・テクノロジーと一体となった戦争体制において、最も見えやすい形をとる。冷戦が終わったとされるベルリンの壁崩壊後の状況のなかで展開したIT経済は、メディア・テクノロジーをマシーン・テクノロジーとして用い、世界中に石油ならぬ「情報」のパイプラインを張りめぐらした。今日の世界主流は、情報=オイルのパイプラインの拡充とそのなかへ最大量の情報=オイルを流すことへ向かっている。だが、石油のパイプラインの拡張が効率と破壊を加速させるにすぎないのに対して、当面は情報=オイルとしてであれ、それが世界に拡がり、多重的・多層的になればなるほど、「パイプ」のなかを流れるのは、「オイル」的なものであるよりも、情報的なものとなり、結局のところ、情報パイプは、自己否定と自己矛盾に陥る。

「進みすぎた」情報技術は、国境や重工業を有名無実なものにしてしまい、国家政治は、技術の「進展」を意図的に後退させなければならなくなる。二一世紀になってIT産業が失速したのも、アメリカでも日本でも国家指向の強い指導者が誕生したのも、世界中で検閲や情報規制が逆に強まっているのも偶然ではない。しかし、一旦導入されたテクノロジーは、いかなる人工的な「後退」や「遅延」を越えて、システムを侵食する。新たな人工的冷戦も人工的「大不況」も長続きしない。冷戦体制の「永遠回帰」は不可能である。後退と逸脱とをくり返しながら、情報資本主義は、ある日、全くことなるシステムになりかわる。

国家は、実際には、〈メタ国家〉になりつつある。支配者は世界中に散らばり、ネットワークを組んでいる。その決定は、実体的な「国家」の中枢においてではなく、そうした「国家」のメタ・レベルで行なわれる。「国民」も、国境を越えて働かされ、遊ばされる。グローバリズムは、一方でこうした傾向を促進しながら、他方で、そこから派生する矛盾をあたかも自分には無関係のものとして排除しようとする。労働の国際移動によって過疎化する「国土」と拡大する生活格差、貧困は無視され、逆に労働備蓄と競争力増進のために意図的に放置される。

今日の戦争は、メタ国家同士の戦争であり、地理的な国境線を越えて闘われる。世界が異なる「メタフィジック」(形而上学)によって分離・対立するが、その分離・対立は「国家」内にも入れ子状に存在し、「国家」、「地理」、「人種」、「宗教」の差異は意味をなさない。メタ国家の対立と協調は、ネットワーク状になされ、単純な視角からは不可視で茫漠としている。二〇世紀後半の戦争が、アングロサクソン対アラブ/モズレムという外観を呈しているとしても、それは、メタ国家の戦略的なカモフラージュにすぎない。同様に、「原理主義」という概念も戦略概念である。

メタ国家の戦争では、従来の意味での戦争とテロとの区別はあいまいになる。この「戦争」は、すでに国際法を越えてしまっており、これまでの常識は通用しない。レーガン政権によるリビア空爆、前ブッシュ政権によるイラク空爆、そしてブッシュ二世政権によるアフガン攻撃は「国家テロ」とも呼ばれるが、テロとは、狭義には、少数者や個人が国家を相手に闘う方法の一つであった。国家にはテロは出来ないのであって、国家がテロまがいのことをするということは、国家がもはや国家でなくなっているか、あるいは、「テロ」という概念自体も意味をなさなくなっているということでもある。実際に、テロは、九・一一事件に見られたように、従来の「テロ」の規定を過激に越えてしまった。

近年のテロリズムの主要な技法は自爆テロであるが、これもまた、一つのメタ国家がもっぱら推進する情報的グローバリズムに対抗するもう一つのグローバリズムであるにすぎない。一つのグローバリズムのねらいは、身体的なボーダー(人種・エスニック文化・地域性)の消去である。言い換えれば、それは、身体のサイボーグ化であり、アンドロイド化であるが、情報テクノロジーによる身体ボーダーの無化も、遺伝子操作による身体ボーダーのヴァーチャル化も、まだ徹底的なボーダーレスの域には達していない。だから/それにもかかわらず、もう一つのグローバリズムが生まれる。それは、自爆テロによるグローバリズムである。人種・エスニック文化・地域性といった身体的ボーダーに執着し、それらを消去しようとするグローバリズムに対抗しているにもかかわらず、結果的に、世界には、破片と化した身体から読み取れる遺伝子情報の差異、死せるボーダしか残らない。リュック・ベッソンの『最後の戦い』が描いた砂漠化した都市と声を失い、慢性的な衰弱のなかで生き永らえるひとにぎりの人間。このグローバリズムの果てには、瓦礫ではなく、砂漠しかない。あらゆるグローバリズムを越えることが必至だが、それは、グローバリズムの単なる否定からは生まれないだろう。脱グローバリズム――トランスローカルなグローバリズムへ。
 

(『インパクション』 、小倉利丸・深田卓)