2001-09-11/粉川哲夫

 

 

ITバブルがはじけたというので、ITという言葉も死語になりそうな気配である。もともとこの言葉は底の浅い流行語だったのだから、それ自体は驚くべきことではない。だが、(ITを批判してきたわたしが言うのも変だが)ITという言葉とともに浮上した関心や動向がただの一過的な現象にすぎなかったかのように論じるのはおかしいのではないか?
いつもこういう形ですべてを処理するのが日本のやりかただ。マスメディアがたきつけ、熱狂が生まれる。それが下火になると、「それ見たことか」という「批判」が(これまたマスメディアのなかで)高まり、何もなかったかのようにすべてが終息するというパターンである。バブリーなのはマスメディアのほうであって、これでは、90年代にはじけた「バブル経済」も最近の「ITバブル」も、それらの核心にあるものは、なにもわからないだろう。
「バブル」という言葉に関しては、これだけ日本で「バブル」「バブル」と言われながら、「ミシシッピー・バブル」のことがマスメディアで論じられているのを見たことがない(わたしが知らないだけかもしれないが)。が、かくいうわたしも、この言葉を1980年代の後半まで知らなかった。日本で「バブル」という言葉が流行しはじめたころ、ニューヨークで小説家のソル・ユーリックに会ったとき、最近の日本の状況を話し、「”バブル”なんて日本語英語でしょう?」と言うと、彼はわたしの言葉をさえぎって、「ミシシッピー・バブルがあるでしょう」と言った。
ミシシッピー・バブルというのは、「1720年バブル」とも呼ばれ、フランスが権益を持っていたアメリカのミシシッピー地域への過剰な土地騰貴によってフランスで引き起こされた熱狂と失墜のことである。ソルに言われて調べてみると、すでにワシントン・アーヴィング(1783~1859)が、1837年のアメリカ最初の恐慌の教訓を、「グレイト・ミシシッピー・バブル」にさかのぼって論じているし、エマーソン・ヒューの『ザ・ミシシッピー・バブル』(1902)はベストセラーになったという。
資本主義経済とバブルはつねに切っても切れない関係にあり、むしろ、この体制のなかでの「繁栄」はバブルとしてしか不可能なのだろいうことだ。
ところでバブル期というのは、他方で、新しい金儲けの技法の実験(この実験は、いつも高い代償によって実験結果がわかるのだが)期間でもある。ミシシッピー・バブルの立役者/悪役は、スコットランド出身の財政家ジョン・ロー(1671~1729)であるが、彼は、土地を担保にした手形や紙幣を発行するという技法を発明し、フランスにわたってからは、「国債」の発行、独占的な民間会社への貸し付け、会社の株投機、その結果としての「国債」の過剰発行、株投機の過熱といった、今日誰でもが知っていうフォーマットの発案者であった。ジョン・ローは、ミシシッピー・バブルの悪役であったが、歴史は、以後、彼が敷いた方式の整備に努めるのであり、彼の方式がすっかり改められたわけではない。
ドルショックもバブルのひとつであったが、これ以後、(以前に書いたように)金の電子化、貨幣の交換回路の電子化、そしてより統合的な国際金融環境が「整備」されるのであって、資本増殖のシステム自体が根底から変わったわけではない。
だから、ITバブルも、それを生んだ環境やシステムそのものがチャラになったわけではない。むしろ、ITバブルで試してみた「上限」を顧慮しながら調整投機をするという方向は今後、ますますさかんになるはずである。また、ITバブルのなかで一般化した、投資家がインターネットに接続されたコンピュータによって投資をおこなうという方式は、株投機のレベルをこえてさまざまな分野で応用されるようになる。
現に、いま、ebay (http://www.ebay.com)とかYAHOO! Auctions (http://auctions.yahoo.com)――どちらも日本語を含む各国ヴァージョンがある――のようなオークション・サイトのユーザーがふえているように、インターネット上でセリをおこないながら物品の売買をすることがあらたな経済環境になりはじめている。ここではサイバースペースが新しい市場になり、購買者は売り手と直接セリをしながら物を購入する。現物には触ることができないが、中間業者がいないので、無駄のない売買が成立する。ただし、物によっては買いたい者が殺到するから、値段がバブリーにつり上がることもある。電子メディアを介しているということが過剰な期待や想像をかきたて、とてつもない価格を生み出すこともある。二束三文で仕入れた物を法外な値段で売るのは商売の基本にあるロジックだが、それが電子的なオークションでも引き継がれていると同時に、古典的なオークションや市場のセリ以上に投機的なものになることもある。これは、ITバブルと変わりがない。
その意味では、ITバブルは終わっても、ITバブルをささえてきたロジックは、むしろ根を張りつつあるのであり、この動向と一般的な関心とを「バブル」の名のもとに同一視してしまっては、ITバブルを経験した意味がないのである。
 

(『連合』、池谷 達)
 
 

この原稿を書いているあいだ、テレビは「アメリカへの攻撃」のニュースを報じていました。これは、本格的な「世界戦争」のはじまりですね。和平や反戦の運動にとっては、歴史が50年ぐらいもどされてしまいました。すでに「世界戦争」は始まっていたわけですが、今後、国家と、世界に散らばった見えない「少数者」との闘争という形態が普遍化するわけです。こういう形態を生んだのは、国家が依然存在し、アメリカのようにそれがますますグローバルな力を行使するからですが、国家の側も「少数者」の側も、新しい暴力形式を生み出すしか先へ進めないという点で、出口なしです。国家は、その暴力をますます組織化し、「少数者」は、ますます効果的な(悲惨な)暴力形式を発明し、実行しますから、最後は、国家による極度に統制的な支配が貫徹するか、国家は滅びたが、みずからも傷つき意気絶え絶えの文字通りの少数者しか(地球上に)いないという悲劇しかないわけです。

粉川哲夫