いま「ハッキング」というと、もっぱら「クラッキング」つまりコンピュータ・ネットワークに侵入したり、機能不全におとしいれたりする「犯罪行為」の意味で理解されるが、以前はそうではなかった。コンピュータプログラムを自由に解析できることがハッキングであり、そのようにプログラミングにつよい者がハッカーとよばれた。
コンピュータープログラムは、いまでは立派な商品であり、現にビル・ゲイツはそれで巨万の富を築いたわけだが、当初、新しいプログラムに挑戦している者にとって、金銭は2の次だった。だから、ハッカーにとっては、プロテクトをかけてコピーができないようにすることによってプログラムを売りさばくなどということや、本来誰にも解放されるべきネットワークにパスワードを装備することなどは、絶対に許すことのできないことで、そういうプログラムやネットワークに出会ったら、その「鍵」を開き、誰でもが使えるものにしてしまおうという欲求をおさえることができなかった。とりわけ、ヒッピー・カルチャーとの縁が深いハッカーたちは、いわばヌーディストたちが隠し所を持たない社会を理想とするように、ネットワークやプログラムを全面的解放のスペースと考えていた。
ハッカーがいなければ、ハッキング精神がなければ、コンピュータ・テクノロジーは今日のような発展をしなかったはずだが、その発展を商業的発展としてだけ見ると、ハッカーが電話をただでかける方法を見つけたり、ソフトの「鍵」をはずしたりする行為は、発展に違反する行為であるかのようにみなされる。逆に、商売人ではなくハッカーの眼からコンピュータ・テクノロジーを見れば、コンピュータのいまの普及がかならずしも満足のいく「発展」だとはいえない。20年まえのスーパーコンピュータにひってきするいまのパソコンでわれわれがやっていることは、その技術の飛躍的な発展にくらべてどこまで新しく、創造的なことをやっているかどうかはわからないからである。
わたし自身、VRMLだストリーミングだと新しい技術を追いかけて色々な実験をやってきたが、ADSLが楽に引けるようになり、パソコンの処理能力が高まったいま、苦労して3次元立体を作ったり、落ちるのを気にしながらネット放送をやっていたときのほうが、技術の制約の裏をかくためにさまざまな着想が浮かんできて、いまよりはるかに創造的な日々を送っていたような気がする。
ハッカーがクラッカーに低落するのも、状況の必然である。すべてが商品になれば、遊びや創造性のためのプログラミングやコンピュータ行為の余地も少なくなる。目標を立て、そこへむかって投げる(まさに「プロジェクト」)ことだけが、仕事のすべてになり、思いつきを楽しんだり、予想外のことが起こるかもしれない「バカ」な時間を費やすことはさけるべきことになる。その結果、かつては創造的だったハッキング行為も、目標を持ったプロジェクトになってくる。プログラムやネットワークを閉ざす者に対する批判を含んでいたハッキングも、商業的さらには政治的な目標のために行なう組織的な行為・事業になっていく。現に、とめどもなく新種が生まれるコンピュータ・ウィルスのおかげで、それを駆除するソフトの売れ行きがのびているし、ネットワークへの攻撃は、それを回避するシステム(ファイヤーウォール)の専門管理会社の収益を急上昇させている。
しかし、ハッキングは、利潤経済や私的欲望の充足と相補関係にあるアングラ経済や犯罪や闇社会のような方向に傾斜する一方で、本来の現状を打破する側面をあらわにすることもある。「反社会的」とみなされる行為が、ときには時代を根底から変えることがあるのと同じように。近年、「ハクティヴィズム」という言葉をよく耳にする。これは、ハッキングの「ハック」と、「アクティヴィズム」(この言葉についてここで立ち入ることはできないが、80年代になって、単なる「政治活動」の意味から文化や社会のレベルを含むトータルな現実に働きかける〈アクトする〉ことを意味するようになった)との合成語であり、80年代のアクティヴィズムの展開を引き継ぎながら、それをコンピュータ・ネットワークの活動や文字通りのハッキングにつなげていこうとする意欲があらわれている。
ハクティヴィズムの側から見ると、インターネットもニュートラルではないし、誰にでも開かれているわけではない。公開されるべき情報が特権的な少数者に独占されるという傾向はますます強まっている。厖大な予算をかけて、ブロードバンドのネットワーク上に流される情報は、個々人の感性や心情を操作するプロパガンダ以外のなにものでもないとも言える。だとすれば、それらに対する抗議活動があっても不思議ではない。ウェページを書き替えるということが犯罪であるというのは、現状を何でも肯定する側の意見である。インターネット上には、「ハック」されたウェページをリストアップし、それがどのようなものにすり替えられたを日々提示しているサイトがかなりある(たとえば、http://www.attrition.org)が、それらを見ると、単なるいたずら半分のものよりも、政治的な抗議をあらわす「ハッキング」がだんだん増えてきているのがわかる。
ハクティヴィズムは、市民的不服従の権利の一つだという意見もある。ただし、ここで言う「市民的不服従」は、H・D・ソロー的な意味での不服従であり、個々人が自発的にやることに意味があるのであって、組織的にやるのでは、ビジネスの世界でもっと大規模に、「洗練」されたやり方で行なわれている手口の単なるアンチになってしまうのである。
(『連合』9月号、池谷達)