2001-07-12/粉川哲夫

 

 

スティーブン・スピルバーグの最新作『A. I.』が描く時代は、地球温暖化のために世界の大都市の多くが水中に没した「未来」であり、さらにそれから2000年たって人類が滅んでしまった時代で終わる。しかし、この映画を見ても、ITが今後どのような社会をもたらすかについては、あまり大した示唆をあたえられないだろう。そういう方向で作られた映画ではないからである。スピルバーグは、これまで歴史的な過去から想像的な未来までさまざまな時代を映画にしてきたが、映像の基底でいつも問題になっているのは〈いま〉であり、とりわけアメリカの現在であった。
この映画の主題は、アメリカの親子関係である。物語の世界では、人工知能 (Artificial Intelligence=A.I.)が進み、多くの労働がロボットによって代替されているかわりに、人口削減政策が徹底され、「妊娠禁止令」が発動されている。ロボットは感情を持たないが、ホビー博士(ウェイリアム・ハート)は、サイバートロニクス・マニファクチャリング社と協力して感情あるロボットを生産することに成功する。そして、その第1号デイビッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)が従業員とその妻モニカ(フランシス・オコーナー)に託される。ふたりは、不治の病の実子を「冷凍保存」にして病院にあずけており、失意のなかにあった。が、物言わぬ息子のもとに定期的に通い、本を読んで聞かせているモニカは、夫ほど簡単にロボットを息子代わりにはできない。
このへんの描写は、実は、子供を持ちたくても持てない夫婦、子供が不治の病に陥っている親、養子や(再婚した相手の)連れ子、体外受精で生まれた子供に対して抵抗感を抱いている親にとって他人ごとでないリアリティを持っている。
逡巡したのち、モニカは、ロボットのデイビッドを自分の息子として認知する決心をする。この逡巡のプロセスも、ロボットであるかどうかよりも、アメリカの親がいま実際に体験するプロセスと重ねあわされている。実際、いまのアメリカの親たちにとって、子供が自分たちと血のつながりのあるかどうかはさほど問題ではない。その意味で、ロボットの子供というのは、現在のアメリカの親と子供との関係をあらわす可能的な極限形態でもある。
デイビッドを子供として認知する手続きは、モニカがデイビッドの首に手を置き、7つのプロトコールを口頭でインプットすることによって行なわれるが、そのシーンはコンピュータへのインップットというよりも、いささか宗教的な儀式の風情である。この儀式が終わると、ただちにデイビッドは、「マミー」と言って全幅の愛情を示す。ここでも、アメリカの親たちの願望がいみじくも表現されている。このような形式的な手続きで養子や継子がただちに自分を親として認め、愛してくれたらどれだけ幸せだろうと思っている親が多いからである。そうでなくても、子供と親の関係は難しいのだ。
しかし、物語は、意外な方向に進む。不治の病と診断されていた実子が、新薬で回復し、家に帰って来る。そして、折りにふれ、この実子とデイビッドとのあいだでトラブルが起きはじめる。デイビッドは愛することだけをプログラムされたロボットなので、実子のいじめに対してもがまんしつづける。それは、実子と養子、継子などのあいだでしばしば起こりうるシチュエーションであり、観客の涙を誘う。
その結果、夫は会社にデイビッドを返してしまおうと言うが、そうすると解体されてしまい可愛そうだと思う妻は、ある日デイビッドを郊外に車で連れ出す。どうしてもいっしょに暮すことができないことを早口で告げ、お金を無理矢理渡して置き去りにしようとする悲痛なシーン。わけがわからず車を追いかけて来るデイビッド。涙をためて車を走らせるモニカ。このシーンは、アメリカにかぎらず、子供の問題で悩んだことのある親ならば、一度は頭によぎるであろうシチュエーションを劇的な形で描いており、この映画のメロドラマ的クライマックスである。
この映画は、血のつながりを持たない子供を持つ親の意識だけでなく、もらわれて来た子供の意識を描写することも忘れない。映画の後半は、親を訪ねて三千里の物語といってもいい。デイビッドは、憎むことを知らないから、捨てられたにもかかわらず、親とりわけ母を探しつづける。その旅の同伴者がペットの熊人形(これも高度のロボト)だというのも愛らしい。息子と母親の関係をこの映画のように旧態然とした関係でとらえることには、わたしは異議があるが、息子というものは、今後も、母親を思慕し、失われた母親をつねに探しつづけるのであろうか?
デイビッドにとって、母親を探すということは自分を探すことでもある。その際、そのモデルは、自分がベットでモニカから読んで聞かせてもらったコローディの『ピノキオの冒険』であるというのは、映画的にうまい着想である。ピノキオは、木切れから作られた人形であるが、「よい子」になろう――つまり「人間」になろう――と思いながら悪戯ばかりしている。ピノキオは、放浪の長旅に出るが、仙女ファータが「母親」のように見守っている。やがて、自分をつくった老人=「父親」に再会し、身体の弱った彼のために働き、ある朝目覚めると「人間」になっているのを発見する。デイビッドは、どうしたらこの物語のピノキオのようになれるのかと問い、旅をつづける。
映画のストーリーを克明に紹介するのは無粋なことだと言われているから、このへんでやめるが、この映画は、家族制度が激変し、体外受精や遺伝子操作や養子システムが始動し、血にこだわらない親子関係が制度化しはじめたアメリカで、親子関係がどうあるべきかを提示した非常に啓蒙的な作品である。その是非はひとまず置くとして、親子関係にかぎらず、現代の人間関係をロボット(機械としてではなく、あらゆることに関して白紙の状態にある、「人間的」な汚れを持たない生き物)との関係としてとらえなおしてみてはどうかという提案をこの映画から読み取ることも可能である。かえって問題がすっきりするかもしれない。

(『連合』8月号、 池谷 達)