2001-06-12/粉川哲夫

 

 

コンピュータ機器ほど非経済なものはないと思うことがよくある。なにせ、「世間並」のことをしようとすると、高価な製品を毎年買い替えなければならないからである。去年買ったパソコンにはDVDを再生する機能がついていなかった、いまのパソコンにはCD-ROMを焼けるドライブがついているぞ、CPUのスピードは1ギガないと・・・そんなあせりをあたりまえのものにするのがコンピュータ機器なのだ。ここでは、欲望の増殖があたりまえであり、「倹約」などという概念はどこかに吹き飛んでしまう。
いま、東京の秋葉原に行くと、いたるところに中古のコンピュータや周辺機器を山積みした「ジャンク屋」が目立つ。土日には、路上にそうした品物を並べるストリート・セラーがあちこちに出没し、ある種「闇市」的な雰囲気がただよう。値段は、2、3年まえのパソコンが2、3万円、5年もまえのものなら数千円。先日、4階全部をその手のジャンクで埋めつくしているある店を訪れ、各階を見聞していたら、階段の踊り場に「320円」という走り書き見た。なんと、それは、5年前に企業などがこぞってとり入れた100万以上もする「ワークステーション」だが、パソコンの能力が飛躍的に上がったいま、店としては、リサイクル法の手前、廃棄するよりもタダでも持って行ってくれる人を期待して並べているらしいのだ。
パソコンと畳は新しいのがいいといった「世間並」基準が広まっている一方でこういう状況があるのは、どういうことなのだろうか? 一方に新製品を使い捨てする「階級」があり、他方に中古でがまんする「階級」(昔はやった「マル金」対「マルび」の対立)があるのだろうか? むろん、そうではない。アキバの中古市場が成り立つのは、安物買いの銭失いがいるからではなくて、それらを新しく使いなおす能動的なリサイクルの条件と、そういうことをしようとする人々が増えてきたからなのである。
その条件の一つが、リナックス(Linux)の普及である。リナックスには、さまざまなバージョンがあるが、そのどれかを、5年前のパソコン(当然アキバでは数千円)にインストールしてみる。すると、それが、いま立派に通用するパソコンに生まれ変わってしまうのだ。機種を選ばず、抜群に軽量のOSであるリナックス。これが、ジャンクを本当の意味でリサイクルさせるのである。
リナックスとは、フィンランドのリーナス・トーヴァルズがその核(カーネル)をつくり、それを世界中のハッカー(ここでは、コンピュータ・プログラミングに精通した者の意味)が肉付けして出来上がったOSである。当初、実験好きのあいだで使われていたにすぎなかったが、たちまちのあいだに世界にひろまり、商用化も進み、いまでは、大手のコンピュータメーカも積極的に採用している。10年後には、マイクロソフトのウインドウズをおさえて、首位のOSになるのではないかとも言われている。
リーナスは、リナックスで巨万の富を築くこともできたかもしれないが、それをしなかった。彼自身は、もし自分がそうしていたら、いまのリナックス時代は生まれなかっただろうとも言っているが、最近邦訳の出た『リナックスの革命 ハッカーの倫理とネット社会の精神』(ペッカ・ヒネマン著/安原・山形訳/河出書房新社)でも詳述されているように、ソフトのみならず経済に対するリーナスの考えが最初からちがっていた。リナックスの成功は、新しい経済の始まりを象徴するものであり、むしろその一環としてリナックスが生まれたと考えたほうがよい。リーナスは、この本の序文のなかで、「あなたはなぜリナックスで金儲けをしようとしなかったのか」というよく問われる質問にこたえながら、人生には、「生き残り」、「社会生活」、「喜び」の3要素があると言っているが、「金のために」あるいは「社会のために」仕事をするといっても、それが「喜び」でなければやりつづけることができないし、「食うために働く」といっても、「喜び」をいっさいともなわない生活などありえないし、逆に、「死ぬほど退屈だ」という表現があるように、「生き残り」の条件がどんなに満たされても、「喜び」がなければ、人は生きていくことができない。
しかし、リーナスの新しさは、そういう誰でも知っていることを少しばかり徹底してみたことだろう。つまり、「喜び」を基礎にしてすべてをとらえなおしたのだ。プログラマーにとって、最も必要な満足感は、ソフトを完成させた満足感と、それを他人が使って喜んでくれたことを知る満足である。実際、リーナスは、自分がつくったリナックスのカーネルをインターネットで公開し、誰でもがそれをタダで入手できるようにしたが、もし、それを使って新しいバージョンや応用版をつくったときは、それらをフリーで公開することを条件づけた。といっても、それは、あくまでも「紳士協定」であるから、守られないこともありえるわけだが、それが、賛同を得て、この10年間に世界中の才能あるハッカーたちがこぞってリナックス・カーネルの改良と発展に熱中したのである。
リナックスOSのなかには、Red Hat Linuxのように、商業的にも成功したものがあるが、リーナスは、フリー・ソフトウェア運動の創始者とみなされるリチャード・ストールマンのようにフリーソフトの販売を禁じるようなことはしなかった。それが、喜びならどんどんやればいいというのが彼のスタイルだったから、商用のリナックスがどんどん生まれ、リナックスの運動をもりあげていった。その代わり、商用にした場合にも一方でそれをインターネットを通じて無料で取得できるような余地を残すことが習慣化した。ユーザーは、ネット上の、あるいは、コンピュータ雑誌が付録として付けるCD-ROMにおさめられた新バージョンを無料で試すことができる。実質部分はフリーで手に入るわけだから、商用化する会社としては、そのソフトに関連するさまざまなサービスを案出しなければならなくなる。それは、競争意識が高め、リナックスの前進を勢いづける。
ここで注目すべきは、これまで利潤の増加を目標に進んできた経済と産業が、利潤とは異なるものを共通目標にしはじめたことであり、個人的な満足や趣味のレベルと社会的な価値とが接点をもつことができるようになったことである。「仕事のため」、「社会のため」に個人の喜びを犠牲にするというのが当然とみなされた社会から、両者が密接にからみあった社会へ――まあ、そうハッピーにはいかないとしても、「リサイクル」、「ヴォランティア」、「フリー」といったこれまで副次的な意味しか持たなかったことが社会の核心にシフトするという方向が見えてきたことである。

(『連合』 7月号、池谷 達)