2001-05-13/粉川哲夫

 

 

かつてコンピュータや電子機器は、われわれの生活を画一化し、世界中同じライフスタイルにはめ込むおそれがあるとして、危険視されたことがあった。事実は、一面ではそういう可能性を依然もってはいるとしても、むしろ、生活や文化の多様化や個性化を促進している。
が、このことは、エレクトロニックスに頼っていれば、個人の自由や組織の柔軟化がひとりでに促進されるということではない。場合によってはそういうこともあるかもしれないが、エレクトロニックスが促進する多様化は、むしろ、逆説の産物なのだ。エレクトロニックスつまり電子テクノロジーには、基本的にかぎりなく侵入し、すべてをまきこむという特性がある。電流や電波は家のなかから地球全土にひろがり、同時に、それは、家のなかからあなたの体内にまではいりこむ。
こうした特性にさからうように、生体はまきこまれるのをのがれ、とりあえず「ひきこもる」。が、侵入は容赦しない。となれば、侵入してくる武器を奪いとって対抗せざるをえない。インターネットがある点で多様な要素にあふれているとしても、それは、インターネットの技術が自動的に生み出したものではなくて、それを使う人間が、機械技術のあくなき侵入に対して、自分らの身体(脳と神経組織に関連づけられた諸機関の全体)をかけた反抗関係のなかでつくりだしたものだ。身体が無気力になり、気を抜けば、テクノロジーはただちにそのまきこみの本性を発揮する。テクノロジーは、それを恐れ、拒否するのではなく、それに逆らって、多様化や解放の促進装置として使いなおすしかないのだ。
いまヨーロッパでは、英語の浸透が急速に進んでいるが、これは、必ずしも言語の画一化とはいえない要素もある。フランス映画も、英語版がメインとなる時世である。が、英語は、フランス語などとくらべると、かなり「いいかげん」な言語であり、さまざまな要素をとりこみ、多種類の「英語」をつくれるからである。すでに、中国英語、スペイン英語、日本語英語・・・さまざまな「なまり」英語があるが、英語は、基本的に「ピジン語」や「クレオール語」のような混成言語の素質がある。
とはいえ、それまで他とはコミュニケーションがむずかしい独自の言語を話していたエリアの人間にとって、英語のような「共通」言語が侵入してくるのは不安であり、脅威である。電波や回線が侵入してくるだけなら、それらに近づかなければよいのだが、英語の侵入は、同時に英語をしゃべる人間の侵入でもあるからである。メディアの侵入が勢いをおびるのは、人間や物の侵入がともなうときである。それは、かつては武力侵入だったが、今日では経済「進出」(表現をソフトにしても侵入であることには変わりあるまい)である。侵入が激しくなれば、ひとは、ひきこもることによって、それを避けようとする。が、激しい侵入は、いずれ、「ひきこもり」などでは回避できないレベルに達する。こうなると、食うか食われるかである。
近年、日本で、「ひきこもり」が話題になっているが、「ひきこもり」が社会的な話題になるということは、「ひきこもり」がそろそろ「ひきこもり」では済まなくなりはじめたということを意味するように思う。というのも、わたしは、日本の社会は、基本的にこれまで「ひきこもり」でバランスをとってきた面があると思うからである。口にはしなくても、人々はなんらかの形の「ひきこもり」をやってきた。政治も経済も文化も、ある意味では「ひきこもり」を特徴としてきた。言うことをはっきり言わないで一息飲み込む政治、大っぴらにやるべきことをこっそりやることが「正常」な経済(日本経済の革新は規制をかいくぐる「スキマ経済」で進められた)、対決が「美徳」ではない文化。
日本の場合、物の侵入という点では、諸外国の比ではなかった。また、言語――とりわけ英語――の侵入という点でも、アジア諸国のなかでは相当なものだ。英語が通じる香港やフィリピンでも、英語圏からの商品は、日本ほど氾濫してはいない。だが、そのくせ、英語文化(サブカルチャーも含めて)はそれほどでもない。わたしなど、学校で英語を習いはじめてからもう何十年にもなるが、一向に英語が身につかない。それが、知り合いのアメリカ人などは、たった1年の滞在で流暢な日本語をしゃべる。一体、これはどうしたことなのか?
この問題は、しばしば教育の問題に帰せられる。が、英語教育の施設や環境は、この2、30年のあいだに非常に発達した。生徒や学生は最新の映像・音響システムを使って英語を学ぶことができる。テレビの語学講座だって、そのサービスぶりは大変なものだ。にもかかわらず、英語圏にたびたび旅行し、タワーレコードやHMVだかでアメリカ産の最新のCDを聴きまくっている若者が、「外人」と昔なつかしのシャイな身ぶりでしゃべっている。うまくなったのは、定型表現だけなのだ。
これは、日本社会の根本にいわば「ひきこもり」文化があるからではないか? わたしは、以前から主張しているのだが、日本語ほど核の硬い、つまり内にひきこもって、外に開かない言語はめずらしいのではないか。たしかに、日本語には「外来語」が多い。が、これだけ外の言語の侵入を受けても、基本的骨格つまり「てのをは」や活用語尾(「・・・する」など)が変わらないのである。言語の大きな変化は動詞の移入によって起こるが、日本語では、外来の動詞はすべて「ネットワークする」という言い方のように、相手を名詞化されてしまう。それ自身が持っている動詞の力は剥奪されるのである。簡単に言えば、どんな外国語が入ってきても、骨格が壊れる恐れがない。「アイ」〈は〉「ゴー」〈する〉「スクール」〈へ〉は、立派な日本語だ。これは、すごい「ひきこもり」の伝統ではないか?
どの社会にも、どの国には、どの民族にもこのような無意識に継承する「遺伝子」があり、それが「外敵」から身を守ることを許すわけであるが、、あらゆる「遺伝子」への侵入が進行している21世紀のいま、いつまでもそうした出来合いの「不変性」に安住して「ひきこもり」を決め込んではいられないだろう。「ひきこもり」をこえて独自の多様性を創造するしかない。

(『連合』6月号)
 
 

池谷 達様

また大分遅くなってしまいました。督促してくれたので、できました。督促歓迎です。

小泉政権の誕生は、ぱっとしない指導者が続いたはてに出て来る「期待」の指導者の典型的な諸性格を体現しているように見えますが、日本の場合、天皇制に手を着けずして何も変わらないと思うぼくとしては、お手並み拝見というところですね。彼は、「首相公選」ということを言いましたが、これは、どこかで天皇制に抵触せざるをえません。外務省には田中真紀子が送り込まれましたが、早くも撤退のおもむきです。天皇家の連中は田中角栄を大いに嫌っていたそうですが、実のところ、外務省は天皇制のもう一つの主要セクターです。海外の大使館・領事館では、日の丸よりも菊の紋が目立ち、天皇を「元首」あつかいしています。雅子も彼女の父も外務省に勤めていましたね。小泉/田中真紀子がこのへんの問題に関して「確信犯」なのかどうか、わかりませんが、いまざっとみまわして、天皇制を終わらせることに本気を出す大物も組織もみあたりません。折しも、雅子懐妊。これで「愛国者」が増えることでしょう。

以下の文章でつかっている「ひきこもり」には、天皇制=ひきこもり文化の元凶という含みがあります。

粉川哲夫