2001-04-25/粉川哲夫

 

【最終稿】


◆デジタル・メディアのメディア論的飛躍
12”LPからCDへの移行には、メディア論的に大きな飛躍がある。CDは、レコードのフィジカルな側面を何も継承してはいない。音溝と針との接触というモダンなマシンテクノロジーのシステムから音声信号の再生という結果だけを抽象した。フィジカルなシステムは、未完のシステムであり、その不確定な外的状況との関連で具体的な機能が決まる。が、CDのようなデジタルシステムは、そうした具体的な最終過程をシミュレートし、情報的に再構築するので、予想できない機能しかたは原理的にありえない。刀根康尚は、初期のCDプレイヤーにおいて露出したその「不完全」な過程をいち早くパフォーマンスアートにした。CDの盤面を汚したり、それにセロテープを貼ったりする彼のパフォーマンスは、いまの「完成した」プレイヤーでは出来ない。そのようなものを「例外的な出来事」としてはじいてしまうからである。しかしながら、近年のDJ用のCDプレイヤーは、一般の安価なCDプレイヤーでは「例外的な出来事」としてはじかれてしまうことを幾分できるようになった。が、それは、そういう余地を残す(初期のCDプレイヤーの状態にもどる)ことによってではなくて、「例外的な出来事」をデジタル的に再創造することによってである。が、こうして作られるノイズ的出来事は、シミュレーションの結果であり、予測や予知の範囲を越えることはない。

◆参照性の妥協
DVDは、過渡的なメディアである。むろん、いかなる形態のメディアも過渡的でないものはないが、DVDは、12”のLPが、DJの ”楽器”になることによって別の生を開始したような意味での方向をまだ見出していないかぎりで、また、RAMやハードディスクでより容易に出来ることを「不十分」に行なっているというかぎりで、ある日突然、別のメディアによってとってかわられるという可能性をもっている。DVDの「不十分」さは、ハイパーメディアの〈参照〉(reference)システムを「不十分」に流用している点にも見られる。「不十分」というのは、その〈参照〉機能は、RAMカードやハードディスクのアクセス速度に達することが出来ないので、その機能を十分に発揮できないでいるからである。DVDが、その中途半端な〈参照〉機能にもかかわらず、シーケンシャルなデータの反復再生でも満足できる映画データのパッケージとして最もポピュラリティが高いのは偶然ではない。

◆メモリー媒体からネットワークへ
ハードディスクの単価は下がり、個々人のコンピュータのハードディスク容量が大きくなる一方だが、実際には、ハードディスクだけでなく、記憶媒体の必要性はますます低くなりつつある。高速のネットワークにつながれたコンピュータにとって、データを各ユーザーが自分で重複的に保存しなければならないという状況は変わりはじめている。どこかには記憶媒体は必要であろうし、大規模のデータを集約し、配信する形態は完全にはなくならないとしても、ネットの大勢は、それぞれがネット上で〈自生的〉に存在していて、どこからかのアクセスのよってリンクし、データとして自分を供給するといった方向へ向かっている。かつて、アダム・ハイドとRadioqualiaは、「フリーケンシークロック」といういわばナップスターのストリーミング版とでもいうべきものを作り、フリーに配布したが、このプロジェクトの基本にあるのは、パッケージ化されたデータの脱構築である。

◆反復的再生の終焉
こうした方向が加速するとき、パッケージしたデータをそのまま反復的に再生するという習慣自体が終焉するだろう。いま、ネット放送は増え続ける一方で、映像ではまだレゾルーションの問題があるとしても、サウンドに関しては、CDを連続的にかけ続けるのと同じようなジュークボックス的環境が実現されている。が、高度に網羅的な全集本が、研究資料として以外には実に退屈なメディアであるように、ネット上に充満した既存の(すでにディスクとして発表された)データにアクセスしても、あまり面白くない。そして、そのデータが充実すればするほど、そうした退屈さの度合いが高まるのである。これは、問題のデータをすでにディクスで持っているとか、すでにどこかで聴いたことがあるとかいうレベルの問題ではない。むしろ、パッケージされるということ、「完成」されるということを目指して作られるデータ/作品が身にまとっている、〈外部〉を欠如した限界の問題である。

◆映画とDVD
映画は、もともとは、反復のメディアであったが、テレビの登場とともに、それは、パフォーマンスのメディアに変わっていった。フィルム自体は同じことを何度でも反復できるが、劇場というフィジカルな場で一回的な経験として立会うためのメディアという方向へ向かうのである。映画とビデオ/DVDの違いは、もはやデータ媒体の違いではなくて、上映・体験方式の違いである。現に、デジタル媒体で配給されるハリウッド「映画」が公開され、そのような「映画館」が生まれつつある。だから、劇場という場で体験さえるものが映画であり、場所には関係なく体験される(したがって、最終的には脳神経への直接的なジャックインをも想定している)のがビデオ/DVDであると考えなければならないのだ。

◆場所性と身体=手
パッケージ・メディアは、その本性上〈場所性〉を欠如しているのだが、デジタル技術は、それをかぎりなく推し進める。パッケージ・メディアのなかには、最も標準的な〈場所性〉 (locus classicus)、〈場所性〉の最小単位としての身体を限りなく消去していこうとする理念がある。ここで不思議なことに気づく。パッケージ・メディアが目指していることは、すでに技術的にはネット化されたデータベースやブロードバンドの配信システムによって実現されるのに、一方で、パッケージ・メディアは、〈手〉へのこだわりを捨てないということだ。同じパッケージ・メディアでも、メモリースティックが与える不安は単に慣れの問題であろうか? フロッピーやMOのサイズ、もう少し小さいMDやシングルCDのサイズに対して、CDやDVDのサイズが「標準化」しているのは、それが〈手〉のひらのサイズであるということと無関係ではない。脳の最短の外化機関としての〈手〉。いわば、脳に全身をあずけるような形で接触するサイズのメディア。この関係は、簡単にはくずれない。

◆手の喪失か増殖か
CDとDVDに残された外的なパフォーマティヴな不確定性の領域は、それらを〈手〉でプレイヤーに送り込む〈身ぶり〉のなかでわずかに保持される。が、デジタルメディアとしてのCDやDVDは、その〈手〉がどう動こうとも、その動きには何の反応もしない。だから、そうして〈手〉のアクションは、それらを使う主体が直接そのデータ体験に付加し、創造的にまぜあわせることによってしか、意味を持たない。だから、デジタル技術のアグレッシブな動向は、そうしたモデストな部分をじきに押し流してしまうだろう。CDサイズがメモリースティック・サイズに移行する時期が一つの転換期になる。口に入れ飲み込んでしまいたい欲求を起こさせるメモリースティック。それは、かぎりなく小さくなり、最後には姿を消してしまうであろう。それは、同時に〈手〉が喪失するときでもある。完璧なる〈リモートコントロール〉。

◆パフォーマティヴな領域
いま、電子メディアは、一方で、ユーザーの身体を極限的に卑小化し、メディア機器の関数にしてしまう方向を加速させると同時に、他方で、身体のパフォーマティブな「標準サイズ」――locus classicus――を維持することを可能にする方向を模索させている。この分極状態は容易におさまる気配はなく、むしろ、その極端さのなかで両者が勢いを得ている。前者は、次々に開発される産業的新商品のなかで不可避的に加速するわけだから、アーティストやアクティヴィストの関知すべき領域ではない。関知するしないに関わりなく、彼や彼女の仕事はひそかに流用・盗用されるであろうし、それとは無関係のロジックで動いていく。その果てにあるのは、デズニーランド規模のVRシステムであり、その日常的全般化である。とすれば、アーティスト/アクティヴィストとしていま問題にすべきは、後者の領域である。すなわち、電子メディアとりわけネット・メディアと身体のパフォーマティヴな要素との関係領域である。

◆無意識のアート
人はすべてアーティストである。たとえ意識のレベルでは非アーティスティックにふるまっているとしても、無意識・下意識のレベルではそうである。だから、脳波や身体電流を読むセンサーは、かぎりなくアーティスティックなインスタレーションワークを可能にする。あなたの体に接続されたセンサーシステムは、いくつかのコンピュータ・システムをへて、「天才的」なアーティストが創造した作品におとらぬマルチメディアティックなアートワークをつくりつづけるだろう。メディアアートの世界では、もう天性のアーティストはいらないのだ。

◆送信機としてのメディア
とはいえ、すべての人をアーティストにする環境の強度の違いというものは存在する。そうした環境を助長するメディアは決してパッケージ・メディアではない。いま、閉ざされたパッケージ・メディアに対して開かれた〈オープン・メディア〉という総称を提起するとすれば、現状でのその具体的な形態は、リアルプレイヤーやウィンドウズ・メディア・プレイヤー、ウィンアンプ、クイックタイム・プレイヤーなどで受信できるストリーミング・メディアである。このストリーミング・メディアが、最も〈開かれた〉状態で機能するのは、パッケージ・メディアの再生においてではなくて、ライブ・ストリーミングである。その場合、諸々のスオリーミング・プレイヤーは、単なる「再生」装置ではない。ライブ・ストリーミングにおいては、すべてのプレイヤーが〈送信機〉になるのである。

◆再生と時延
ストリーミング・メディアは、初期のCDプレイヤーがそうであったように、その「不完全性」によって、それが「再生」のメディアとして機能しようとするときですら、〈オープン・メディア〉として機能してしまうという逆説を含んでいる。すなわち、その〈時延〉の作用である。いまだ「不完全」な圧縮技術のために、ストリーミング・メディアでは、長くて数十秒の遅れが出る。だから、ワイヤレスのラジオ/テレビとインターネットのストリーミング・メディアとを同時に起動させて同じデータを配信すると、両者のあいだに、それをアーティスティックな、ラジオアート的な表現にまで高めることの出来る揺れやゆらぎあるいは〈反響〉や〈共鳴〉を作り出すことが出来る。その意味で、ストリーミング・メディアとパッケージ・メディアとの組み合わせは、「リモート・DJ/VJ」という新たな表現領域を生み出している。これは、ライブ・ストリーミングをインタラクティヴに、あるいはマルチインタラクティヴに重複させ、ミックスすることによってDJ/VJ的な〈パリンプセスト〉(重ね書き)的な表現を行なう最近の試みである。

◆プロセッサーからアクセッサーへ
コンピュータは、当初、〈複製可能性〉ないしは〈複製性〉という近代の(モダン)機能を追求し、それを実現することによって、その先に行った。すなわち〈プロセッサー〉から〈アクセッサー〉への飛躍である。今日のコンピュータが目指す機能は、もはや〈複製性〉ではなくて、〈参照性〉である。コンピュータは、〈参照〉のシステムとしての道を歩み始めている。そして、コンピュータは、それがネットによって相互に連結され、しかも、その連結性がかぎりなく増殖することによって、その〈参照性〉の機能を単なう〈自己参照性〉から、〈外部〉を持った〈参照性〉へと展開しつつある。こうしてコンピュータは、送信機と再会する。というのも、送信機とは、〈自己=外部参照性〉のシステムにほかならないからである。

◆ポストヘーゲル的状況
近年のマイクロラジオ運動やラジオアートが、ストリーミング・メディアとのコラボレイションを深めているのは偶然ではない。送信機は、当初、無線送信機として、空間の延長と区画の装置として発展しはじめた。いまここの音・映像を空間的にかぎりなく延長すること、そして地球規模にその電波コンテンツが拡がり、蔓延したら、今度はそれをかぎりなく区分・プログラミングすること。しかし、こうした〈空間トランスミッション〉の理念は、切れ目なく地球的規模で空間を電波で埋めつくし、マッピングすることが出来る通信衛星の出現と普及によって、現実化され、理念としては終焉した。ヘーゲルの精神現象学の世界では、理念的なものが現実的であるが、ヘーゲルの精神現象学を着々と具体化してきた近代において、ヘーゲルの「理念」[ルビ:イデー]=「精神」[ルビ:ガイスト]は、世俗化され、終焉するのである。それは、ヘーゲル的精神が意味を持たなくなるのではなく、逆に、理念的な世界から日常世界におよぶすべての世界がヘーゲル的「精神」によって満たされるということを意味する。

◆共鳴的なパリンプセスト
ストリーミング・メディアは、ポストヘーゲル的、ポストサテライト時代のメディアのポテンシャルを持っている。いま、このメディアが、電話のように全世界に広まり、大多数の個人が、それぞれに常時、その身体的・再構成的(知的)データを送信しつづけているイメージを描いてみよう。すでに身体は、それ自体が極度に微弱な電磁波的・化学的(そしていまだ未知の)信号を発信する〈送信機〉であるが、それと拮抗した増幅・ミックス装置としてのストリーミング・メディアの増殖である。ここでは、いまのCDやDVDの「鑑賞」におけるような受動性は一切存在しない。ある種のコラボレイション、フリー・インプロヴィゼイション、ジャムセッション、つまりは〈共鳴的〉な〈パリンプセスト〉が、常態であり、ミハイール・バフチーンがラブレーの世界について記した「カーニバル」的な「祝祭」におけるコミュニケーション関係の持続的な作動。

◆ハッキングの復権
いま台頭しつつあるこのような〈オープン・メディア〉のユーザーのポジティヴな姿勢を的確に表現する概念を探すとして、まず思いあたるのは、「ハッキング」という概念である。UNIXの創世記においては、「ハック」や「ハッカー」は、いまとは異なる意味で使われていた。「ハックする」とは、プログラムを詳細に調べることであり、「ハッカー」とはそれが出来る者、プログラミングに精通した者のことだった。それが、次第に、ネットワークでつながれたコンピュータに「不正侵入」し、プログラムを破壊したりする「クラッカー」に意味で使われるようになった。が、プログラミングに精通していなければ、後の意味での「ハッキング」も出来ないわけであるから、今日でも「ハッカー」は依然としてハッカーであろう。オープン・ソースコード運動は、クラッキングとしてのハッキングを無意味なものにした。その意味で、今日のハッキングに依然つきまっといる「忌まわしい」部分は、潜在的・顕在的な意味での反オープン・ソースコード運動への対抗アクションだとみなすべきである。すべてがオープンになってしまえば、そのような部分は存在理由を失う。が、ソースをオープンにするということは、暗号をやめることを意味しない。暗号プログラムのソースコードが公開されても、暗号が解けるわけではないし、今日の暗号システムは、プログラム後にその自己隠蔽性を自己増殖させていくような、内部にかぎりなく「闇」をくり込んでいくようなシステムである。そしてこの「闇」は、ハッキングへのたえざる挑発と活力をあたえる。

◆ハクティヴィズムとしてのアート
体験へ最近、「ハクテイヴィズム」という言葉がよく使われるようになった。「ハクテイヴィズム」とは、「ハック」と「アクティヴィズム」との合成語であるが、この意味は、当面、狭義の「政治」活動の領域にとどまっている。「21世紀のアクティヴィズムはハクティヴィズムである」というとき、ハクティヴィズムとは、これまで身体的レベルで行なわれてきたデモンストレイション等の抗議活動と等価な意味を持つような、ネットによる抗議活動を意味する。が、この言葉の射程は、もっと広く、深いだろう。そもそもアクティヴズムという言葉が、狭義の政治(ミクロ・ポリティクスを無視した、依然党派的な)の領域を脱することができないわけだが、ハクティヴズムは、そのようなしがらみを捨て去るべきだろう。ハクティヴィズムとは、デジタルスペースとサイバースペースで、たえず制度として凝固する〈アクション〉、〈アクティヴなもの〉つまりはアクティヴィズムの場を救い出し、活性化しつづけるすべての行為の基礎であり、あらゆる意味でのパッケージ化に対抗する行為である。

◆ハクティヴィズムの時代のアート
パッケージ・メディアに自足してきたメディア・アートは、目立たぬ形においてではあれ、ラディオ・アートによってその終焉宣言を迫られてきたが、インターネットの出現によって、有名無実なものになった。「メディアを使ったアート」という意味では使えるとしても、メディアを使わないアートなどありえないから、そこから、電子テクノロジーをこけ脅しに使う「犯罪的な」一連の興業的思いつきを取り除けば、「メディア・アート」には、何の意味も残らない。が、ラディオ・アートにとって、インターネットは、必ずしもその能動的な発展であるとはかぎらない。それは、ラディオ・アートのポテンシャルを「インターネット」というグローバルなパッケージのなかに包み込むという側面があるからである。だから、インターネットは、もう一度、ラディオ・アートとしてとらえなおされるべきであり、そのために、インターネットのなかから「異なもの」として浮上したハクティヴズムとラディ・アートとの接点への注目とコラボレイションが期待されるのである。

[参考文献]Tetsuo Kogawa, Video:The Access Medium, RESOLUTIONS, Michael Renov & Erika Studerberg (eds), University of Minnesota Press, 1996

DeeDee Halleck, Gathering Storm:Cyberactivism after Seattle (Manuscript, April, 2001)
 

(『Intercommunication』No.37、篠田 孝敏様)