2001-03-15/粉川哲夫
 

【最終稿】
数字の問題ということで、思い出すのは、ダーレン・アロノフスキーのモノクロ映画『π』だ。薄暗い安アパートの一室であやしげなコンピュータ機器に囲まれて生活している主人公(ショーン・ガレット)は、「数学の天才」という設定で、階段で隣室の少女が彼に桁数の多い数字の掛け算の問題を出すと、即座に暗算で答を出す。彼は、街を歩きながら自己の信条をモノローグする。「一 数学は万物の言語」、「二 すべての事象は数字に置き換えられ、理解できる」、「三 その数字を数式化すれば、一定の法則があらわれる」・・・・。
おそらく、放送で「数字の客観性」などということを言うときに想定されているのは、こういう意味での数字であり、数学だろう。しかし、こういう数字や数学は、せいぜい小学校のレベルにしか存在しないのであって、数学という言葉を使うに値しない。大体、「数学の天才」というと、紙やスクリーン上でおびただしい数字と記号をいじくりまわすのが常だが、これは数学ではなくて算術である。あるいは、こう言ってもいいかもしれない。この種の数字とは、あくまでも量化されたかぎりでの数にすぎないと。
量と数の結びつきは、数の特殊な観念から生まれた。数とは再現・反復・複製できるものであるという観念である。大量のものは、一個のものが複製・再現されることによってはびこっていく。量の時代が複製技術の発達とともにはじまったのは偶然ではない。最初は、物品の「不十分」な模倣・複製にすぎなかった複製技術が、やがて、デジタルテクノロジーとともに、「完璧」な複製を実現する。これは、現実を物品や生身の肉体からではなく、情報という単位から考えるにいたって、完成される。
しかし、完璧な複製とは、自家撞着である。そこでは、複製品がなに(オリジナル)の複製であるかは意味がなくなるからである。だから、複製の完成とは、複製の終わりにほかならない。複製の終わりとともに、稀少性の価値も薄らぐ。あるいは、すべての価値が稀少性となることによって、稀少性の意味が変わる。稀少であることは、「完璧」でない複製品が厖大に存在することによって保証されるからである。
 

数字を使えば何か「客観的」なことを言っていると思うのは、非常に次元が低いのであって、これをもって数字や数学にも気の毒な気がする。
メディアの社会的動向を論じた調査報告や分析を目にするとき痛感するのは、冒頭から数字やグラフを出してくるものに新しいものはほとんどないということだ。現実を見る構図と結論は単純なのに、それをたいそうな数字データで粉飾しているだけなのだ。だから、その意味では、数字や図表の多い論文(文科系の)は、その部分を無視して読めばよいから、読むのが楽だとも言える。
国会演説で立て板に水のごとく数字を羅列して周囲を煙にまいた池田勇人以来、いや、田中角栄でもいい、数字が韜晦の技法であることは熟知されている。だから、視聴者が、テレビの画面に現れた数字を「客観性」の指標として信用してしまうなどというのは、外の世界を知らない業界人だけかもしれない。そうした業界の外にいるわたしの独断では、むろん、業界人も、そんなことは百も承知なのだと思う。つまり、数字を出すのは、儀式なのである。数字の「客観性」ということが一つの儀式だとすれば、いまこの「客観性」に対する懐疑が生まれているのは、数字の「客観性」そのものに対してではなくて、この儀式に対してであると考えなければならない。
放送における「数字の客観性」の問題も、その算術儀式の限界が問われているにすぎない。実際問題として、高度のコンピュータ処理をしたシミュレーションは、ますます文字通りの客観性をもつようになっている。
近年、コンピュータは「計算機」ではなくて「メディア」だという言説が流行りだが、コンピュータが数学的な数値処理の装置であることには何ら変わりがない。コンピュータは大がかりな計算機であり、その規模はますます魔術的なまでに拡大している。
新聞や放送で提示される数値データの問題は、その出し方が、どこにである電卓で計算できる程度のよそおい(実際には、高度のコンピュータ処理の結果であるとしても)で示されるからである。これは、「誰にでもわかりやすく」というこれまた日本のマスメディアにおける問題的なスローガンの神話とも深くかかわっている。単純な現実などありもしないのに、それを「わかりやすく」すれば、そこには当然省略や情報の操作が介在してくるのはあたりまえである。「わかったようにさせる」メディアよりも、自分で考え、感じさせるメディアが必要なのに、あいもかわらずそういうメディアが横行しているのはなさけない。
数字データも、それが、どのようなやり方で集められ、解析されたのかを示せば、その信憑性は高まる。とはいえ、このプロセスは複雑であり、データをどう解釈するかという主観的要素が入ってくるから、「わかりやすく」を信条とするマスメディアとしては、そのプロセスを見せることはできない。結果として、儀式としてしか数学を利用できないのである。むろん、数学儀式も、パーセンテージやグラフを示すだけにとどまらないはずだが、いまのとこと、新しい数学儀式を発明できないでいるわけである。
数字データの意味は、決して単純ではない。数字データが効力を失っていると言われる場合、数字データと「現実」とのギャップが問題にされるが、これも、ギャップのとらえ方自体に問題がある場合が多い。たとえば、最近話題の森首相支持率だが、支持率が下がっているから辞任すべきなのではなくて、支持率などでは形容しつくせない多くの問題があるから、辞任すべきなのであり、マスメディアが、「支持率」を利用してその否を言っているあいだは、まだ儀式で否を言っているにすぎないのである。
マスメディアに載るデータというものは、相補的なものであって、数値データに対してどういうコメントや解釈が付加されるか、その報道がひろまる回路のそのつどの条件などによって違う。メディアへの載せ方によっては、「国民ゲーム」的な様相を呈してくる場合もあり、数値データを出すことによって、「なら、もう一桁下げてやろうか」という意識を煽ることもありえる。
 

二〇世紀のマスメディアがみずから明らかにしたことは、メディアにおいては、「送り手」対「受け手」という別々の世界があって、前者が後者を操作しているというような単純なものではないということである。実際には、どこまでが情報の「送り手」で、どこまでが「受け手」であるかは明確ではないく、常套語となっているこのセット概念をあえて使うならば、両者の共同ゲーム的な側面があるし、それが、ますますひろがりつつある。「インタラクティブ」や「双方向」という概念は、こうした事態の複雑さを「わかりやすく」するための儀式概念にすぎない。まして、こうした状況を初歩算術的な数量データで例示できるはずがない。
いま、コンピュータは、GUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)が一般的である。が、どんなに「わかりやすい」GUIの裏にも、複雑な数値と作動する数式の連続がある。GUIが壊れて、モニタースクリーンにずらずれと数値や記号が流れるのを見て、その意味がわかるのは、コンピュータとそのアプリケーションの機能を熟知している者だけである。つまり、パソコンがあつかう「現実」とは、その限られた一面にすぎないわけだが、それでもCPUが猛烈なスピードと規模でおこなう――とても暗算などできない――数値の連続を必要とする。雲の動きのような具体的なものをあつかうコンピュータの場合には、それがさらに大きなものになる。だから、われわれが実際に生きている現実を数値化するには、とてもパーセンテージなどでは表現しつくせない数値や数式が必要になる。にもかかわらず、マスメディアは、そういう数値にGUIをかぶせるというような操作もせずに、形だけ数字を提示して甘んじている。
ポストマスメディアの時代のメディアは、現実を映したり、「客観的」に報じたりすることとは縁を切らざるをえない。メディアが多様化し、メディア機器(インターネットやケータイ、テレビやラジオ、本や新聞にかぎらず、監視カメラやメモ録、はては洗濯機や炊飯器のマイコンも含めて)が日常の細部にまで浸透するにつれて、誰がコントロールし、誰がコントロールされるのかという一次元的な視点は無意味になる。これにともなって、どこまでが「自然」の現実で、どこからが「人工」の現実なのかという問題もあいまいになる。ここで言う「人工」とは、とりわけデジタルテクノロジーによって構成しなおされたという意味である。つまり、高度ではあるが、ライプニッツが言ったような意味で「普遍言語としての数学」に支配された「人工世界」、もっとあとの言い方をすれば「ヴァーチャル」な世界である。
ここでいう「ヴァーチャル」とは、「まがい」であるとか、「幻想」であるとかいう意味ではない。それは、極めて特殊な条件を設定することによって「自然」と「実質的」に変わりのないものとして存在するということである。だから、空を飛んだり水中を潜水したり、考えられるかぎりでの異次元を動きまわることを体験できる「ヴァーチャル・リアリティ」とは、「仮想」の「本当でない」リアリティを体験させる技術ではなくて、「自然状態」の肉体的知覚を生み出すためには、なりふりかまわずに駆使された「実質的」なコンピュータ・テクノロジーである。この技術は、一九九〇年代末には、もはやあえて「ヴァーチャル」という形容詞をつけなくてもよいほどに一般化しはじめる。世界を高度の数学が多いつくすのである。この動向は、「人工」に「肉」を対置するようななまやさしいことではのりこえられないし、そもそものりこえるという概念自体があやしくなる。
いま重要なのは、こうしたヴァーチャルな現実をありのままに認め、それに対する”GUI”――「人間の顔をした」パーソナルなインターフェース――を生み出すことだろう。人口性を単に否定したり批判したりしているだけでは何の解決にもならない。
歴史的な流れとして、放送の世界では、シューマッハーの「スモール・イズ・ビューティフル」が流行した一九七〇年代を境にして、マスメディアに対して「ミニメディア」、ブロードキャストに対して「ナロウキャスト」というコンセプトが浮上した。
これらは、もっと広い文脈のなかでは、「小衆」、「多数性」、「分散」、「ジコチューな個人」などともからにあっているわけだが、以上の文脈のなかに置き換えるならば、数の量的な側面が大から小へ弱められることによって、数値世界のうえにある種の”GUI”がかぶせられる度合い(数値的なものが見えない状態、あるいはある種のパーソナル化)がいささかなりとも強まったという言い方ができる。
大に対して小、ブロードに対してナロウ、集団に対してパーソナルであるということは、まだ数値露出の時代をひきづっているが、数値露出の終わりの時代のメディアは、単なるミニメディアにとどまらない。インターネットが、極度にグローバルであると同時に極度にパーソナルである(だから、わたしは「トランスローカル」と呼ぶ)ように、単に量的な意味での「グローバル」(地球規模)が意味をもたないように、今日のメディア(の可能性)は、もはや量的な概念でおしはかることはできない。
インターネットで世界中に情報をばらまけるということは、なんの意味もない。インターネットの情報は、視聴者の数でよりも、たとえ世界でたった一人であれ、確実に「わたし」の心を揺り動かし、能動的な反応をもたらすかどうかで評価される。既存の放送は、いくら多くの視聴者が受信しても、ただその場にいあわせただけでも受信として算定される。まさに視聴率というのは、そうした散漫な受信の総計にすぎない。一人の「わたし」のなかにも数多くの「わたし」がいる。インターネットは、そうした「多重人格」を十把一からげに相手にするのではなくて、そのなかのミクロな一個の、唯一の、当てになる「わたし」と熱い緊張関係のなかで結びつこうとするだけであり、実際に、そうすることが可能なメディアである。

日本の放送は、まだ数量の時代にとどまっているといわざるをえない。局の数、メディア技術の種類、チャンネルの数を増やすことは、かならずしも番組の質の多様化を約束するわけではない。特に日本のように、ながらく統合と均質の文化でやってきた(そして、まだそれが終わっていない)国(そもそも地域ではなくて「国」で状況を語れること自体がまだ統合を維持している証拠である)では、数が増えても、内容は横並びという傾向がつづきかねないし、現実にそうである。
放送の多メディア化や多チャンネル化のあとにひかえる放送のパーソーナル化もまだ一向に進んでいない。一九九〇年代のアメリカで急速に拡がった「マイクロラジオ」は、そのサービスエリアや設備の規模が「マイクロ」であると考えるなら、それは少しも新しくはない。「マイクロ」であるのは、パーソナライズしやすいというかぎりであって、逆にいえば、パーソナライズできれば、「グローバル」なラジオでもよいのである。実際、一九八〇年代以後、既存のメディアのなかでも、トークラジオのようなパーソナル化が進んだが、日本のラジオはその洗礼を受けずに二一世紀を迎えた。
わたしは、ここで ”GUI”をかぶせるということを比喩的に使う一方で、「パーソナル化」ということを具体的な意味で使っているが、このことは、テレビやラジオよりも、インターネットの現在を参照点(レフェレンス)にしているからかもしれない。というのも、わたしには、放送メディアがインターネットの真似をしている現状では、いずれは放送がブロードバンド化したインターネットに吸収されていくと考えるからである。

(『月刊民放』編集部 田代範子)