2001-03-14/粉川哲夫
 

ITやADSLのように、英文字の略語や短縮語がはやりである。コンピュターが日常に侵入してきて、その傾向はさらにはげしくなった。コンピュータ用語は、もともと専門用語、ある種のブラックボックスだから仕方がないが、英語を常用語にしていない者には、文字面をじっとながめていても、さっぱり意味が想像できないものが多い。
これは、カタカナ語の場合も同じである。そもそも「コンピュータ」という言葉でも、これをいくら凝視しても、そこからじわぁ~っと意味が浮かびあがってくるなどということはない。そのうえ、「パーソナル・コンピュータ」が「パソコン」になってしまうような飛躍した短縮化がひんぱんに起こるという言語習慣があるからなおさらだ。その点、中国語でコンピュータをあらわす「電脳」は、文字自体が表意的であり、文字を一見しただけでとりあえずの基礎的意味は押さえられる。
日本語も、以前は同じようなやり方で新語を作った。「蓄音機」、「電話」、「活動写真」などは、初対面で意志疎通ができる言葉の「民主主義」のような前提を維持していた。が、いまはちがう。「ケータイ」では、ケータイ→携帯→携帯電話の時代的回路を駆けめぐらなければ、それが何を意味しているのかわからない。言語自体が略語化しつつあるのである。
ハーバート・マルクーゼあ、六〇年代によく読まれた『一次的人間』のなかで、NATO、SEATO、UNといった戦後に続々つくられた短縮表現に関して、「短縮は望ましくない疑問を抑えつけるのに役立つことがある」と書いていた。ADSLが、Asymetric Digital Subsribe Lineの略語だと言われても、理解が進むわけではないから、これは、かえってその意味を韜晦したり、ごまかしたりするためのブラックボックスとして使われるおそれもある。ADSLって何? いいから、いいから、黙って使いなよ、というわけだ。
しかし、わたしはここで、言葉の「民主化」を主張するつもりはない。「民主主義」が崩れるのにも事情があるだろう。民主主義の理念は有効だとしても、それまで有効だったその形式がなぜ無効になったかを考えずに、もとの形式だけにしがみついても、解決は生まれない。なぜ、いまの日本語に英字の略語が多いのかを考えてみる必要がある。
日本語の場合、現代中国語の「電脳」にひってきするような含蓄ある訳語が精力的に生み出されたのは、明治から大正にかけての時期だけであって、その後は、なしくずしにカタカナ語が使われるようになった。むろん、その間にも、たとえば「留守番電話」のようなすぐれた表意的表現が生まれることもあったわけだが、そういうことに精力を費やすことはしなくなった。
映画のタイトルがよい例で、封切られるアメリカ映画の多くは、『アンブレイカブル』とか『キャスト・アウェイ』とか『アメリカン・サイコ』とか、原題をそのまま(ないしは不完全に)カタカナにしたものが多い。いまいくらNOVA人口がふえているといっても、英語でなんでも済んでしまうほど誰もが英語に堪能になったわけではあるまい。とすれば、こういう言語使用は、それを見て、わかるひとにはわかるが、わからないひとにはわからない、わからなくてもいいという姿勢にもとづいているのである。
ところで、言語の意味は、文字につきない。文字表記に神経をそそいだ時代は、活字メディアの時代だった。活字が主要なメディアであるときには、活字を読むだけで意味の理解がまっとうされるような条件の充実につとめるものだ。しかし、いまは活字がメディアのすべてではない。広告をとってみても、同じイラストや文章を新聞・雑誌・テレビ・社内広告で重複して読む・見るということが多い『スナッチ』という映画のタイトルが、何の意味か全くわからなくても、電車に乗れば、その吊り広告にブラッド・ピットの顔といっしょにこのタイトルが踊っているのを目のあたりにすれば、ああそうかと納得してしまう。だから、いま、映画が一見なげやりと思えるほどのタイトル付けをやるのは、文字メディアだけでなく、ほかのメディアでいずれ補完できるという自信と計画があるからだといえんあいこともない。
そうすると、今後、日本語の文字表記は、メディアの多様化とともに、ますます《略語化》されるのだろうか? その可能性は大である。もともと日本語は、文字指向が強いようでいて、音声指向のほうが強い。文字面や語の響きに気を使うが、文字の概念・理念には比較的無頓着である。とくに音声的な基本構造にひっぱられて、表記は軽視される傾向がある。
「メジャー」という言葉は、いまやほとんど日本語化したが、これは、最初は(70年代後半)英語の発音通りに「メイジャー」(mayger)と言われ、書かれていた。それが次第に「メジャー」に短縮されてしまった。これだと、英語では「物差し」や「測定する」を意味するmeasureを想起させ、わからないじゃないかと言うのは、英語にうるさい教養人のせりふで、言語はそういうレベルをこえて、もっと体にしみ込んでいるような言語の基本習慣にひっぱられながら変化する。フラットな発音が好まれる日本語の言語習慣のなかでは、「メイ」に強いアクセントを置くのは特殊なので、次第に、平坦なアクセントの「メジャー」に変化したのだろう。
これは、まだ瑣末な変化だが、日本語には、「あれ」ですべてを済ませてしまうような過激な言語習慣があり、これが、文字以外のメディアの「充実」とともに急速に浮上する可能性もある。「だから、アレをもうちょっとやってもらわないと・・・」、「森なんて、やっぱりアレなんじゃないですか」というような言い方が、フェイス・トゥー・フェイスの会話のなかで可能なのは、あらかじめ「アレ」が暗黙に了解されているからである。そしてその了解は、テレビや生の会話などの多様な回路を通じて得られたものであって、文字だけで学習されたものではない。が、そうなると、この行く着く先には、文字の死滅がほの見える。
文字のない時代は、文字の時代より長かったのだから、文字の死滅がはじまるとしても、驚きではないのだが、文字の死とひきかえに残るのが、カラオケに毛のはえた程度のマルチメディアシステムだけだとしたら、少し代償が大きいような気がする。

(連合 池谷 達)