ザッツ・イットの革命
「IT革命」は、その語の本来の意味よりも、まず、スローガンであることに意味がある。なにかことを起こすとき、日本では、スローガンが必要である。国家や大組織から発せられるスローガンによる「動員」。これは、戦前も戦後も、そして「ニューメディア」のときも、変わらなかった。それによって、当然、踊らされるひと、踊るひと、踊れなくてアセるひとが生まれる。
舶来信仰も依然として根強い。物品と情報の流通がこれだけ「グローバル化」してしまうと、純正の「舶来」製品・情報などあまりない。実は、「IT革命」なる語も、多くの「舶来」品同様、捏造品のひとつなのだ。インターネットの検索サイトでチェックしてみてもわかるが、"IT
Revolution"という言葉は、英語圏で、あまり一般的ではない。会話のなかで「アイティ」と言って、すぐ通じると思ったら、おおまちがいだ。書く場合にも、森首相ならずとも、「イット」と受けとられることも少なくない。
「革命」という言葉は、日本でも海外でも、遅くとも1970年代には、ケッタイな言葉とみなされるようになった。1980年代になってそれを臆面もなく使ってみせたのはドナルド・レーガンだった。彼が使えばどんな言葉も冗談半分に受けとられたので、それで目くじらをたてるひとはいなかったが、党よりも自主的な連帯を志向する市民活動家たちは、いっそうこの言葉に冷笑的な距離をとるようになった。
レーガンがとなえた「革命」は、情報技術に特化したものではなく、むしろ新しく台頭したフェミニズムやゲイリベラリズムやメディア・アクティヴィズム等に逆行する、その意味では「反革命」であったが、この時代に、その後の世界を方向づける多くの技術的変革が昂進した。それらは、国家事業としてではなく、下側からの草の根的な実験と冒険のなかで進行した。
コンピュータ通信の方式の世界標準化とその結果としてのインターネットの誕生、アップルによるパソコンへのGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)の導入、3次元映像とVR(バーチャル・リアリティ)技術の飛躍などが起こり、小説家ウィリアム・ギブスンが『ニューロマンサー』(1984年)のなかで用いた「サイバースペース」という言葉が流行した。
「サイバースペース」と「IT革命」との違いは、後者が遅れて捏造されたただのスローガンであるのに対して、前者が、それまでばらばらで漠然としていた事象や出来事を一挙にリンクし、その進むべき方向を示唆したことにある。
そういうわけで、80年代の変化を考えれば、なぜいまさら「IT」なのか、そのうえなぜ「革命」なのかという疑問におそわれる。日本も、決して、そうした80年代の変化から無縁であったわけではなく、別に「IT革命」と言われなくても、情報技術は着実に浸透してきたし、さまざまな実験もおこなわれてきた。
情報技術は、本来、個(個人や一回性)を重視する技術であり、かつ、ばらばらの個を、ひとまとめに統合するのでなく、リンクするような技術である。それ以前の機械技術(マシン・テクノロジー=MT)とはちがい、個の自律と自発性が一番のかなめになる。だから、こういう技術に対して、「さあ、みんな、この指にとまれ」と言っている「IT革命」のようなスローガンは、論理矛盾である。
もし、「IT革命」を言うのなら、80年代にしおくれた個の〈自律〉(「60年代流の「自立」とはちがい、頭でではなく身体が無意識に「自立」し、自然に他と「連帯」できるような習慣的・文化的なレベルを問題にする概念)や自発性の教育に力をそそぐべきである。むろん、それは「精神教育」ではなくて、パソコンなりマルチメディアなりの具体的環境になじむところでおこなわれなければならないが、現状は、マシンとしてのパソコンと、ソロバン教育とかわらない「コンピュータ・リテラシー」なるものを普及させようとするにとどまっている。
情報技術の本質にのっとった教育をするなら、設備はそれほど進んだものを必要とはしない。すでにあなたの家や職場にあるパソコンは、一〇年前のワークステーションの能力をはるかにこえてしまっている。できることはかぎりなくある。問題は、テクノロジーとのつきあいかたを変えることである。
あなたのパソコンが、ほとんど大した変更をくわえずに、世界中に生の声や映像を発信できる「送信機」になることをご存じだろうか?
「インターネット・ラジオ/テレビ」(ストリーミング放送)は、組織や専門家の先端技術でのみ可能になると思っているひとが多いかもしれないが、普通のパソコンがあれば、同じことができるのだ。
パソコンでなくても、ケータイでもいい。ケータイは、すでに立派なコンピュータであるのだが、このケータイをどう使うかも、技術の問題ではなく、文化の問題である。メーカーや電話会社がマニュアルで教える通りに使っているのでは、このせっかくの先端情報技術も、時計や電話の域を出ない。
日本でも、草の根レベルでは、こうした技術の面白いユニークな使いかたが生まれているのだろう。先日、大学でゼミの女子生が、「先生、着メロのコンサートやろうよ」と言いだした。それぞれに違うケータイの着メロと液晶モニターの淡い光を使って、暗い部屋でおおぜいが音と光のパフォーマンスをやったら面白いだろうというわけである。が、たいていの若者が街でケータイを握りしめているのに比して、その使いかたは、一律である。
パソコンやケータイの斬新な使いかたは、若者への普及率が日本ほどではない国のほうが、むしろ、進んでいる。メキシコのチアパスの自律運動で国が強権的な介入をすることができなかったのは、活動家たちがいちはやくインターネットにサイトを開設し、日々情報を流しつづけたからであった。ユーゴーのミロソビッチ政権の打倒には、ラジオ/テレビ/インターネット/ケータイのネットワークが大いに効を奏した。エストラダ前大統領を辞任に追い込んだフィリピンの運動のなかでも、ケータイは重要な役割をはたした。
「IT革命」というスローガンのなかからは、こういう情報は全く流れてこない。これでは、いずれこの「革命」も、「ザッツ・イット」(これだけ)に終わってしまうだろう。
(週刊金曜日 土井伸一郎)