2001-01-20/粉川哲夫
 

インターネットは、1980年代までに出そろったコンピュータ技術の集約であるだけでなく、電子テクノロジー以前の技術や価値観にもとづく社会と文化の終焉、そして、それらとは全く異なる方向のはじまりを示唆している。
インターネットは、軍事的な要求から生まれたという俗説がある。それまでの中央集権的な通信システムが核戦争で機能停止におちいることを恐れた米国国防総省が、分散型の通信ネットワークの構築を進め、それが今日のインターネットの基礎になったというのである。しかしながら、ここには、新しい出来事の本質を見そこなわせる不正確な飛躍がある。
たしかに、アイゼンハワー政権のもとでつくられたARPA(Advanced research Project Agency)がなかったら、インターネットの誕生は、遅れただろう。が、そもそもこのARPAという組織が、当時としては異例のものであり、国や軍組織のなかでは継子(ままこ)的な存在だった。「ARPAスタイル」とは、組織にしばられずに独創的なことを推進するということを意味したほど、ARPAの存在自体が当時としては奇跡に近かった。
中央集権的な性格を排し、各メンバーの自由裁量を極力許すこの性格は、ARPAが分散ネットワーク研究を依頼した大学の研究者たちのあいだにも伝染し、「金は出すが口は出さない」というだけでなく、積極的に「勝手なこと」をやらせるという気風を増幅していった。要するに、組織に関しいまの日本で求められてはいるがなかなか実現できないことを40年まえにやったということが、30年後に世界を変える爆発的なインターネットの展開を生んだのである。
インターネットの発展の背景には、むろん、それをささえるコンピュータ技術の発展がある。だが、技術の歴史は、自動過程ではなく、まず具体的な人物による夢や願望、偶然ともいえる着想があり、それらが新しい技術やそれに必要な素材を引き寄せるというかたちで伸展するものである。実際、インターネットをささえる技術そのものは、インターネットの誕生以前から存在していた。問題は、それがどう使われたかだ。
今日のインターネットの基本形は、まず電子メールによってできあがるが、ARPAが最初に構想していたネットワークは、研究データを共有するということであって、メールをやりとりすることは主要な目的とはしていなかった。まして個人的なメッセージをやりとりすることなど考えもしないことだった。 1970年代以後、アメリカ大陸を横断する研究機関のあいだを結ぶARPANETが徐々に拡大するなかで、研究者同士が個人メールを交換するのは、どんどん普通になり、その技術も高度化してくるが、そのことが最初からネットワーク研究のメインであったわけではない。つまりインターネットは、ARPAのネットワーク・プロジェクトによってではなくて、それ〈にもかかわらず〉生まれたのである。
今日で言う「インターネット」は、1990年代になって、テキスト・画像・音をビジュアルな画面のアイコン操作で見たり、聴いたりすることのできるブラウザの出現によって形がさだまった。専門知識がなくても、コンピュータとネットの操作が楽にできるようになったからである。
このブラウザの誕生も、決して大きな組織が計画的に行なったものではなかった。スイスのCERN(European Organization for Nuclear Research)[核研究欧州機構]の研究員ティム・バーナーズ=リーの、ハイパーテキストをネット上で使いたいという夢と情熱、そのプログラミングを可能にしたNeXTコンピュータ(現アッップル社CEOスティーブ・ジョブズが開発した夢のワークステーション――その後のPCが具体化するすべてを先取りしていた)との出会い、そして、そうした作業を許したCERNの自由な環境、これらがWWW (World Wide Web)というブラウザを可能にしたのである。
バーナーズ=リーが素描したHTML言語とそれにもとずくブラウザは、やがて、アメリカのイリノイ大学のNCSA (National Center for Supercomputing Applications)でアルバイトをしていた学生マーク・アンドリーセンとその仲間たちによるある種「趣味的」な情熱によって洗練され、モザイク[Mosaic モゼーク]として、無料配布され、インターネット熱を爆発的に盛り上げた。
1995年、ジム・クラーク(スタンフォード大学教授からシリコングラフックス社の創業者になったベンチャー・キャオピタリストの草分けの一人)は、アンデリーセンを引き抜いて、ネットスケープ社を作り、モザイクよりもさらに高性能のブラウザを作ったが、個人ユーザーに無用配布し、それによって、インターネットのユーザーの数がさらに飛躍した。こうしたフリーウェアの動きは、やがてインターネットの慣習となり、マイクロソフト社のような「抜け目のない」企業ですら、いまやネットスケープをおさえて「標準ブラウザ」と化したインターネット・エクスプローラー(Internet Explorer)を無料配布せざるをえなくなるわけである。
21世紀はボランティアの世紀であると言われるが、その根底にあるのは、「無償」の意味の根本的な変化である。コンピュータ企業がソフトを無料で提供することを、企業の「奉仕」や「先行投資」といった概念でとらえてしまうと、ここにひそんでいる重大な変化を見失うことになる。いま、資本主義経済そのものが変わりはじめているのであって、この変化には、従来とは異なる視点と概念が必要なのだ。
物品経済から情報経済への移行が急速に進むいま、明らかになってきたことは、情報経済を動かすのは、量の論理ではなく質の論理であり、安定よりも変化、集約よりも分散、従属よりも自律が価値であるということである。金銭は、これまで物品と等価であることを求めてきた。が、情報は、必ずしも金では買えない。買えるかもしれないが、その価格は、量の論理をはみ出してしまう。つまり、金銭は、情報とはもともとそりが合わないのである。
経済が情報価値で動くにつれて、価格は、これまでの量的観念でははかりしれない、ある意味では恣意的、ある意味では劇的な飛躍を含むものになる。肉体に汗しなくても、気まぐれに思い浮かんだアイデアが莫大な価格を生むこともあるのが情報経済である。ここでは、価格ゼロ(無料、フリー)だからといって、情報価値がないということにはならない。金銭的な価格は、もはや価値の基準にはならなくなっているのである。と同時に、価格ゼロの諸現象のなかに、次の瞬間、莫大な価格に転化するものもある。このようなことは、これまでも、アートや道楽の世界ではなじみのことだった。
金銭の量的価値が圧倒的であった時代の終末が訪れているいま、急速に、価格ゼロの世界が重要になってきたのは偶然ではない。リーヌス・トーヴァルズがその母胎を作ったOS、リナックス(Linux)とともによく知られるようになったオープン・ソース・コード運動は、有能なプログラマーの気高い「奉仕精神」によって支えられているのではない。たとえそういう面があるとしても、重要なのは、労働が量的に金銭に換算されるという定理が終わったということ、経済もまた、これまで「精神」や「心」と呼ばれる領域に閉じ込めてきたものに直接関わらざるをえなくなってきたということだ。
こうした状況のなかで、コピーライトという概念自体が根底からゆらいでくるのは当然である。20世紀は、複製技術の世紀でもあったが、コンピュータは、複製技術の極みである。どんな手段をとっても、もはや複製をはばむことは不可能である。
コピーライトは、その情報を創造した者の個性や才能、人権、特殊性を正しく保証してはいない。独創的なクリエーターにとって、その仕事がむくいられるのは、その作品が高く買い取られるとよりも、そのような仕事をさらに続けることができる条件を長期間にわたって与えられることである。
すでにオープン・ソース・コード運動のなかで明らかになったように、情報創造を特権的な個人のもとに収斂させるのではなく、創造した情報をユーザーや協力者に開き、いっしょに開発・発展させていくという方向である。そもそも、作品に作者を設定しなければ安心できないというのは、旧時代の遺物である。おそらく、今後半世紀のあいだに、特権的な「作者」という考え方は消滅するであろう。「作者」は、やがて、チーム・リーダーやコーディネータという概念にとってかわられるだろう。
インターネットは、ユーザーがたんにホームページをのぞいているだけのときも、インタラクティブ(双方向的)に動いている。これは、従来のテレビやラジオが一方的にメッセージを投射し、視聴者のほうはそれをシャワーを浴びるかのように受け入れるのとは全くちがう。言い換えれば、インターネットには、「作り手」と「受け手」の区別はない。ユーザー自身がともに作る共同の場。もらうだけでなく、自分でも提供すること。すでに、いまあなたの手元にあるパソコンのフリーソフトのなかに、ホームページを発信するだけでなく、生の声や映像を送信できるツールが完備されている。ローカルなあなたが、一瞬にしてグローバルなクリエーターになるトランスローカルな可能性。この可能性のなかには、これまで信じられたきた規範が解体するということも起こる。それは、大きな試練であるが、それを避けて現状にとどまるよりも、その先にあるものに賭けるほうにわたしは期待したいと思う。

(毎日新聞社出版局ビジュアル編集室 三輪晴美)