2001-01-08/粉川哲夫
 

世紀が変わったので、今回は、ITの底にある問題を少し考えておこう。まず、ひとつの根本的な疑問がうかぶ。
20世紀が終わり、あれほどさわがれた21世紀が来てしまったが、はたしてわれわれは、「世紀」というような時間単位と概念のなかで生きているのだろうか?
世紀という単位は、むろん、キリスト教と関係がある。が、それ以前に、そもそも、始りと終わりの感覚や観念が、日本とヨーロッパとではことなるのである。
日本の商店では、しばしば、閉店時間が近づいた合図に「蛍の光」をかける。学校の卒業式でも「蛍の光」は終わりを印象づける音楽だ。ところが、ヨーロッパやアメリカでは、この「蛍の光」の原曲であるR・バーンズの「オールド・ラング・サイン」は、なにかが初まるときに演奏される。世紀の変わり目にも、日本流なら世紀の終わりに演奏されるところを、カウントダウウンが終わり、新しい世紀が始った瞬間にこのメロディーが鳴りだすのである。
その意味では、欧米では――と比較上単純化して対置すると――始りは、過去を思い出すかぎりで意味があるのであって、始りを祝うということは、その過去を回顧し、清算するわけである。
これに対し日本では、終わりが回顧と清算のときであり、始りは、まだ何も書かれていない白紙の状態を意味する。しかし、時間の終わりは刻一刻と迫ってくるから、その限られた時間のなかで回顧や清算をやろうとしても、最後には時間切れになるのがあたりまえである。そのため、日本でおこなわれる回顧や清算はいつもやっつけ仕事にならざるをえない。
ただ、少し変わってきたと思うのは、一般の意識として、20世紀末よりも来たるべき21世紀のほうに目がむけられていた点である。放送局や出版社は、20世紀を回顧・清算する番組や年表をつくりはしたが、もっと多くの時間やページを21世紀に関する展望や思い入れについやした。
しかし、その未来世紀は、さだかのものではなく、また、明るく見えるわけでもないので、「はたして日本の産業はこれで21世紀をむかえられるのか」といった不安や懸念にいろどられていた。
こうなると、過去に関しても、未来に対してもいいかげんになってしまうわけで、21世紀になったのだから、もう20世紀のことはどうでもいいというようなことになりかねない。事実、いま、日本は、21世紀という「台風」の目のなかにすっっぽりはいってしまい、どちらに動くこともできないかのようである。
辞書を引いてみて、気づいたのだが、日本語でよく使われる「世紀末」という言葉は、西欧語の辞書には一つづきの単語としてはないのである。つまり、「世紀末」というのは、西欧で、20世紀になって、19世紀のことが真剣に回顧・清算され、その結果として出来上がった19世紀末の時代イメージがやがて日本に伝えられ、ひとつのパターンとして(つまり名詞「世紀末」として)定着したものなのである。
なんでも名詞化するというのも、日本のひとつの文化ではある。「自然渋滞」とか「金属疲労」とかいわれると、その原因もうやむやになる。名詞化は、ものごとをイメージさせてくれる便利さはあるが、多くの場合、責任の回避と管理への依存度を高めることになる。その意味で、名詞化されたものとつきあうには、その発生機の状態をとりもどすこと、つまりは動詞化の努力をわすれないことが必要なのだろう。
グローバリズムとは、ある意味で、ミレニウム的な時間の観念が、先述したような始りや終わりの観念の相違を無視して、地球の全域に(グローバルに)ひろまることである。そして、その傾向を後押しするのが、電子メディアであり、両者は手に手をとって進む。
しかしながら、面白いのは、インターネットがそうであるように、電子メディアは、かならずしも世界を均一にはしないということである。インターネットは、一方で世界同時性を可能にしたが、同時に、ある街の一画、いやあるひとの家の片隅を世界中のひとに共有させることをも可能にした。これは、世界の均質化ではなくて、世界の特殊化である。
他方、グローバリズムで国境が無意味になってきたのは、メディアのせいばかりでなく、国境を越えて移動し、働く労働者の国際移動の激化のためでもある。
ITは、日本では、学校を含む産業全般の活性化のための道具としてしか考えられていないようなところがあるが、ITの必要性のなかには、国境・言語・文化の境界にまたがって動き、生きるこうしたグローバル化した労働者たちにコミュニケーションの場をあたえるということもふくまれている。
1920年代のアメリカで飛躍的に発達したグラビア雑誌には、続々とやってきた、言語や文化の異なる移民たちに言語や文化を越えて交流する機会をあたえた面もある。そして1970年代以後に加速したテレビの多チャンネル化は、異なる言語・文化活性化した。むろん、「エスニック・カルチャー」という名のもとで、産業は、そうした異文化の上澄みをちゃっかりと商品化することをわすれなかったらが、メディアが社会や文化を均質化するだけではないということを考えるうえで重要である。

(連合)