新春のアキバを歩いていたら、P・Lにばったり出会った。まさかと思ったが、ジャンク通りの路上の箱にかがみ込んでいるアルメニア人風の男がいたので、よく見ると彼だった。声をかけると、相手もびっくり。ネットではよくメールをやりとりしているが、このまえフェイス・トゥ・フェイスで会ったのは、3年まえのアムステルダムでだ。
昔なら「フーテン」というのだろうが、彼には定住の地がない。そのくせ、ある都市でちょっとした面白いイヴェントがあると、必ず彼の顔がある。つかのまの定住地は知り合いの家だが、それをあえて探す気配はない。
彼は、知り合いの家を泊まり歩いてはいるが、泊めたがいいが、電話やネットは使い放題、おまけに最後に金をせびって姿を消すという「不良外人」とは全然違う。むしろ、こういう手合いとは逆に、誰もが頼んで泊まってもらうような雰囲気がある。
P・Lは、コンピュータに強い。世界中をわたり歩き、その街で最も「旬」なことに関わってきているから、泊まれば、最低一晩は彼の独演会で終わる。自分でコンピュータを持ち歩くなどというヤボなことはしないが、「最近どんな感じ?」などと水を向けると、やおらこちらのコンピュータに向かい、猛烈なスピードでキーボードをたたき、いままで見たこともないアドレスにアクセスして、不思議なウエブサイトを見せてくれる。妙なプログラムをダウンロードしてくれることもあった。
「今日泊まらない?」というこちらの問いに、「じゃあ、明日行くよ」と答えた。しばらく、ジャンク品をあさって別れたが、彼の場合、「行く」と行っても、必ず来るわけではない。約束した日に来ず、数日後に、「いまヴァンクーバだ」などというとぼけたメールが来たりする。どうも今回もそのパターンだったようで、2日たった現在、まだ彼の姿はあらわれない。
P・Lの話では、アキバの街は、今年、いままでかつてない大きな変貌をとげるという。どこでそんな情報を得たのかは知らないが、とにかく、海外の大きな資本が入ってくるので、駅周辺の雰囲気はガラリと変わるという。それは、わたしも予感しないわけではなかった。JR駅はもう限界だから、建て替えは必至だろう。聞くところでは、秋葉原駅のコンクリは、よき時代の産物なので、材質が固く、いまのコンクリのように簡単には壊れないので、建て替えるよりも、別の場所に新しい駅を建てる方が安上がりなのだという。もし、そうなら、秋葉原駅は、そのままの形で残し、ミュージアムやイヴェント・スペースにしてほしい。そのなかに秋葉原デパート/ストアの一部をそのままの形で移動するのもいいだろう。50年以上変わらない駅の骨組みはいまとなっては、貴重である。
ところで、P・Lとも話したのだが、アキバは、ポストモダン都市のパノラマといったおもむきがある。まず、露店のなごりを残す「前近代」の要素。そして、消費という「近代」の中心的な要素。さらに、エレクトロニックスという「近代」を揺さぶり、「脱近代」を招き入れる要素をあわせ持っている。今後、P・Lの予言通りに、駅前にオフィスビルが建ち並ぶとすれば、「近代」の要素はすべて出そろうことになる。
では、その場合、「近代」を越える要素の方は増強されるのだろうか? それは、道具や建物ではなく、ひと次第である。都市の活気は、ひとで決まる。どういうひとが集まるか、そこで彼や彼女らがなにをやるかだ。
最近、「街づくりハウス”アキバ”」のあたりにアーティストが集まりはじめている。が、一見して、彼や彼女はおとなしい。P・Lのような「うさんくささ」がない。このような傾向は、日本の都市全体に言えることだから、別にアキバを責めるいわれはないのだが、世界の都市を見回して、面白い街は、「うさんくさい」ひとでもっている。
言い換えれば、無境界なひとである。既存の境界/ボーダーをかぎりなく踏み越えて歩きまわるひと。そういうひとは、街だけでなく、あらゆる世界(心の世界でも)でそうだから、たえず新しいことに接している。
グローバリズムという言葉が流行っているが、これは、世界同時的な現象が強まると同時に、ローカルな孤立化が強まることを意味してもいる。グローバリズムに、単に「地球的規模」のような面ばかりを見ていると、身近なところに生まれつつあるタコ壷化を見忘れる。株はインターネットで買えるが、隣人にどう声をかけてよいのかわからないといった分裂状況はすでに起こっている。これも、グローバリゼーションの一つなのだ。
こういう負のグローバリズム(「グローバリズム」肯定論の大半は、そういう面をプラスととりちがえている)を越えるには、P・Lのような《無境界人》がもっと増える必要があるし、あなたやわたし自身がもっと《無境界》的になることだろう。
(ラジオライフ)