未来ははたして未来のなかにあるのだろうか? 「一九八四年は『一九八四』のようにはならない」というのは、Macintoshの最初のCMの台詞である。このCMは、『ブレードランナー』のリドリー・スコットが演出した。
一九四九年に発表されたジョージ・オーウェルの『一九八四』は、元来、未来小説というよりも、ソ連の全体主義的傾向を暗に批判する風刺小説として書かれたが、実際には、その後ながらく、技術文明の発達した社会と国家の未来を予測する小説としてひきあいに出された。
リドリー・スコットのCMでは、まず、調教され、同じ服、同じ髪型をした集団が機械的な動きで行進するシーンが見える。そして、巨大なスクリーンが映り、教祖的人物が演説をしているが、それを無気力な表情で拝聴している観客の大群は、いま行進していた人々である。するとそこへ、うしろから赤いトランクスに長い柄のハンマーを手にした女性が走ってくる。その背後には彼女を追う機動隊員の姿。が、スクリーンの近くに到達した彼女は、ヤーという声とともにハンマーをスクリーンに投げつける。破裂したスクリーンから猛烈な風が観客席に吹き込み、当惑する観客。
このCMは、メディアテクノロジーが発達すると、個々人は、職場、都市、家庭のあらゆる場でメディアの支配を受け、逃げ場がなくなるという発想に異をとなえている。個々人は、今後、自分のメディアを持ち、逆に全体主義的傾向をくつがえすというわけである。それは、その後のインターネットの展開で、正しかったことが証明されるが、依然として映画や小説の未来観のなかから消えてはいない。
未来を描いた最初の大作としては、フリッツ・ラングの『メトロポリス』(一九二七年――一九八四年にジョルジオ・モロダーが再編集・疑似カラー化して音楽を付けた)がある。スコットは、『ブレードランナー』でも『メトロポリス』の都市のイメージをまねたが、労働者が行進するシーンは、『メトロポリス』に出てくる同様のシーンをそっくり模倣している。
テリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』(一九八五年)も、未来を決して明るくは描いていない。が、
面白いことに、このなかに出てくるビデオモニターはいやに古めかしいかっこうをしている。内容からすれば、映像装置は、ホログラムやVRでもよいはずなのに、ブラウン管なのだ。これは、一九八〇年代に流行ったポストモダニズム美学の影響も考えられるが、他面、未来を未来のなかにではなく、むしろ過去のなかに見いだそうとする発想を示唆してもいる。
未来を見たければ、過去をとらえ返す方が賢明かもしれない。そういえば、この一年に封切られた内外の映画のなかで、新しさ(未来性)を感じさせたのは、「未来もの」ではなくて、『クレイドル・ウィル・ロック』、『五条霊戦記』、『マルコヴィッチの穴』、『マグノリア』、『アメリカン・ビューティ』、『御法度』、そしてゴダールの『映画史』のような視点が過去と現在のあいだを還流する形式の作品だった。
(音元出版 ホームシアターファイル編集部 川嶋隆寛)