2000-08-25
 

ケータイにコントロール端末とメディアのあらゆる機能が集約・統合されることははっきりしてきた。ラジオやテレビの受信機能、音声・映像のレコディング、マルチな信号のワイヤレス発信、そして、自販機から車、家、街路といった日常的ユーティリティのリモコン端末。クレジットカードやIDカードの先進形態とDNAを含む個人情報のトータルなデータベース。現在あるケータイとその若干のヴァリエーションだけでも、かぎりない”コンテンツ”が考えられ、実際に登場しつつある。

基本的にケータイのテクノロジーはコンピュータである。だから、コンピュータで起こっていること/起こったことはすべてケータイで起こりうる。コンピュータのある特定の形態であるパソコンのベイシックな技術機能は、20年間変わっていない。ドラスティックに変わったのは、”コンテンツ”のほうだ。技術的機能は、”コンテンツ”にうながされて改善されてきたにすぎない。が、このパソコンの”コンテンツ”ですら、まだまだ先がある。ケータイは、まだパソコンでやれることを満たしつくしてはいないから、ケータイの内容的・用途的な機能はまだまだ変貌する。

新しく登場したテレビが、初めは映画の”コンテンツ”を模倣したが、やがて、映画とは異なる技術的機能にもとづいた新しい”コンテンツ”を発見したように、ケータイも、いずれは、そういう段階に達するだろう。が、この変化は、かならずしも段階的に起こるとはかぎらない。実際には、そうした発見は、一部では、初めからなされているのであり、その独自の機能に気づいている者がいないわけではない。イギリスのサウンド・パフォーマ/ミュージッシャンのスキャナーは、ケータイが市販されてすぐ、それを「楽器」として使う試みをした。ベルギーのラジオアーティストたちは、ケータイのボタンをたくみに操作してクールな「演奏」をする。

産業的レベルの発想では、現在ある技術機能の特性を固定し、その飛躍的な効率化と、その機能にのせる”コンテンツ”の拡充を追求する。いまケータイにおいて目の当たりにしているのは、こうした産業的レベルでの「発展」である。ここにも「夢」がないわけではないが、その夢は、全身をゆさぶり、忘我状態にさせてくれるような夢ではない。もしケータイが、今後、そのような過激な夢をつかのまであれ実現してくれるとすれば、それは、産業レベルの発想のなかでではないだろう。といって、アートに期待するのも安易すぎる。自己をたえず脱構築していくのがアートなら、たしかに、アートに期待するのも悪くない。が、アートもいまや産業のレベルで動いている。だから、重要なのは、産業レベルの見えない部分で起こっていること/起こりうること/起こりそこなったこと、を洞察することだろう。

「ケータイが社会を一変させる」ということはよく言われる。実際に、それは起こっている。時間と場所を固定し、それらを守るという、人との会い方はくずれた。フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションではメディアを重層化しないことが好ましいというエシックは最終的に解体した。腕を組んで歩きながらたがいにケータイを使うということも、もはや「失礼」ではない。営業活動の場はボーダーレスになった。教室は常時外部につながった情報環境として、教師が仕切れるスペースではなくなった。しかし、こうした変化は、ケータイ〈が〉起こした変化ではなくて、すでに他のメディアで先鞭がつけられていて、最終的にケータイ〈において〉顕在化した変化なのだ。が、それでは、なぜそうした変化が、ケータイにおいて起こったのか?

テクノロジーは、いつの時代にも、社会や文化を変える最も有力なファクターだった。が、あるテクノロジーが登場し、それが、社会や文化を変えはじめるとき、その変化がどこにあらわれるかが重要である。「どこ」といっても、漠然としているが、「どこ」の最も具体的な場はわれわれひとり一人の手と足である。近代のテクノロジー(マシーン・テクノロジー)の主要な場とされたのは足であった。電子テクノロジーは、手を主要な場にする。むろん、ここで言う「手」と「足」は、メタファー的な要素も含んでいる。また、この「手」や「足」は、五感や脳と切り離された単なる身体部位ではないし、移動や工作の単なる道具でもない。それらは、もっと基本的・具体的なものであり、だから、手足を失った場合には、なんらかの方法でそれらを代替し、補償しようとする。その度合いには基準はないが、文化や制度はどのような手、どのような足をもつ〈べき〉かを指定する。手足は「調教」される。マシーン・テクノロジーは、速く走れる足を要求した。そして、面白いことに、人は、そのテクノロジーによって速く走ることができなくなった。

この1年間に、手の環境は、確実に変わった。手にケータイが握られ、それを使う手の動きが日常化したからである。ケータイの手の動きは、すでにリモコンにおいて見られた身ぶりであるが、リモコンに対して指があたえる動きは、一方的であった。ケータイは、こちらの指令に対する反応を一方的に返すだけでなく、相手の予想しない働きかけを伝えてくる。ケータイを握っている手のひらのなかで、まさに電子/サイバースペースが生まれ、それが、フィジカルな身体世界とリンクし、波紋のようにかぎりなくひろがっていく。手は、いまや、古代の超能力者以上に、身体のボーダーを越え、多様なインターフェースとなった。キボードとマウスでコンピュータを操作する場合も、メディアの機能としては同じことをやっているし、いまの段階では、もっと高度なことをやることができる。しかし、その場合には、両手を使うので、手のひらのなかに世界が拡がるというボーダーレスな実感を手を通して持つことはできない。
VRのデータグローブやセンサーを使う場合でも、そこで生まれる世界にこちらが所属するという感覚のほうが強く、その世界を〈つかんでいる〉、あるいは〈いっしょにいる〉という感覚はとぼしい。

この100年ぐらいのあいだに、手の動きを決定的に変えたメディアは、文庫本である。卓上に置かれた大型の本から文庫本への変化は、まさに、キーボードとマウスをインターフェースとするコンピュータからケータイへの変化以上のものであった。文庫本は、活字メディアであるから、閉じられた世界を現出させるにすぎない。読みかた(ページに対する指のアクセス)に応じてさまざまな世界が開かれるが、その地平は有限である。が、そういう違いはあるとしても、片手の指の動きだけで、手のひらのなかに(手のひらをスクリーンとして)世界が開かれるということは、ケータイに通じるところがある。しかし、文庫本と手とのこうした関係を深く考えたメディア論はなかった。

「パーム」(手のひら)という意味深い名が冠されている一群の「パームコンピュータ」のは、その名称にもかかわらず、手のひらを不十分にしか意識していない。〈メディア・キネシックス〉的な観点からすると、「パームコンピュータ」は、まだ手帖の延長線上にある。片手であつかえるケータイにくらべると、他の諸器官を拘束する要素が強い。歩きながら使えるケータイは、足を拘束しないが、立ち止まるか、座ったほうが使いやすい「パームコンピュータ」は、まだ足に依存しているのである。

現在のところ、どの機種をとってみても、ケータイを片手で使いこなすのは、まだそう楽ではない。ケータイのいまの形は、過渡期のものにすぎないが、ケータイのメーカーが、このことを十分理解しているとはいえない。いまのケータイの形は、指や手よりも、耳を重視している。だから、今後、ケータイの形状は、あっと驚くようなものになるかもしれない。が、手と手のひらの〈キネシックス〉的な動きに従ったものになることは確実である。さもなければ、ケータイがメディアとしてのそのポテンシャルを最大限発揮することはできないし、社会や文化を決定的に変えることもないだろう。

悪名高き「USB マウス」を触ってふと思ったのは、それが手のひらにすっぽりと入ってしまうという「新しさ」だった。それまでのマウスは、「ノートPC用」と称する――事実上手のひらに入る――小型のものがあるとしても、形状は同じなので、手にすっぽり入れて使うということができなかった。ただし、「USB マウス」は、形状だけがパーム状なだけで、機能は以前のものと変わりなかったので、「使いにくい」という反応だけを生んだ。しかし、この製品の裏には、ひょっとして、「次の時代はパームだ」というスティーブ・ジョブズの言葉(そんなことを言ったかどうかはわからない)があったかもしれないのだ。マウスボールがあるかぎり、マウスはテーブルや平らな台の上を離れることができない。本当は、「USB マウス」は、新しい「プロ・マウス」のように、マウス・ボールなしで登場すべきだったし、手のひらに包み込んで指をわずか動かすだけで敏感に反応するパームヘルドのデバイスになるべきはずの潜在的な形状を持っていた。その潜在性は、「プロ・マウス」の登場とともに、当面、しまいこまれてしまったとしても。

耳から口へ外側から硬いチューブを通したような従来の、電話の送受話器の基本形状は、50年(国によっては100年近く)変わらなかった。それにくらべると、ケータイの形状はまだ暫定的である。ケータイにも、いくつかの形状がある。それらのなかからスタンダードが選ばれるのだろうか? それとも、いまとは全く異なる形状のケイタイが登場するのだろうか? いずれにしても、片手と手のひらとの関係は変わらないはずだ。だとすると、ケータイ、さらにはパーソナルなインターフェースの未来形は? テクノロジーのマイクロ化は飛躍的に進むから、あと5年もすれば、いまのケータイの全機能を指輪に納めたようなデバイスも市販可能である。それは、キーやボタンのような機械的な機能配備装置を持たなくても、たとえばそれで顔のある部分を触ると何かがコマンドされる。

だが、このようにして、メディアと人間との関係が、マシーンとの関係を脱して、マシーン以前の「自然状態」に近づくとき、テクノロジーは何を変えたと言うことができるのだろうか? 少なくとも、そのとき、身体は、それ自身のポテンシャルを思いきり奔出せざるをえなくなることはたしかである。

(マックパワー 高橋幸治)