2000-02-22
 

ヴァーチャル空間における居場所

自分サイズ

この表題を与えられて、色々考えるところがあった。はたして「ヴァーチャル空間」に「居場所」はあるのか? 「ヴァーチャル空間」というのは、当面、電子テクノロジーによって構築される――大なり小なりコンピュータが介在する――空間のことであろうが、はたして、そこに「居場所」はあるのか?
「ヴァーチャル空間」の対極は、フェイス・トゥ・フェイスの身体空間であるが、他人と顔をつきあわして「居る」よりも、ビデオやコンピュータの世界に「居る」方が、はるかにアットホームな感じがするという人は確実に増えている。
しかし、それは、「みんな」と「居る」のが嫌なだけで、「自分」といっしょに「居る」のは苦痛ではないわけだから、必ずしも「ヴァーチャル空間」を「居場所」にしているというわけでもない。その「居場所」の中心は、依然、身体的な空間で、ただそのサイズが他人と自分を含む漠然とした「みんな」のサイズから、もっと狭い「自分サイズ」になっただけだ。
ここで言う「自分サイズ」は、必ずしも狭い世界というわけではない。他人がそこに含まれないわけでもない。ただはっきりしているのは、すべてのつきあいとコミュニケーションに電子メディアが介在することである。その意味では、他人も居場所も、つまりは社会という概念そのものが再検討されなければならない。他人とフェイス・トゥ・フェイスで居るという場所ではないにもかかえあらず「居場所」と呼べるような空間、身体的には、自分しかいないのだが、それにもかかわらず、やはり「居場所」と呼ばざるをえないような空間、こういうものも考慮にいれなければならなくなったのだ。
自分サイズと言っても、それは、空間的に狭いとはかぎらない。が、いまや、距離や規模は問題ではないのだ。いま携帯電話中毒と言われている人を見ると、彼や彼女にとって、話の内容、相手との距離はどうでもいいことがわかる。相手が一〇〇キロ先にいようが、目の前にいようが、問題は、関係を自分でコントロール出来るという点なのだ。自分の好きなときに始め、好きなときにやめられるということが、携帯電話のよいところだと考えているらしい。

ホームレス現象

いま起きつつあるのは、どこにも「居場所」がないという現象、ホームレス現象である。ホームページはあるが、ホームはない。厳密に言えば自分サイズの「居場所」はあるのだが、それをあえて意識しないようにし、安住できる「居場所」に距離を取ろうとするという傾向が強まっている。
「ヴァーチャル空間」が好まれるのも、どうせホームがないのなら、他人と自分とが確固とした証人になっている身体空間よりも、自分の好みや判断でどうにでもなる(ように思える)「ヴァーチャル空間」の方が気楽なので、そこを仮の「居場所」にしているのである。
ビデオの世界は、スィッチのON/OFFでどうにでもなる。ホームページは、いつでも切り替えられる。しかし、技術的には、ホームページをつけっぱなしにすることが出来るし、現に、ホームページを行きつけの飲み屋や喫茶店のような気分で使っているユーザーは増えているし、今後、つけっぱなしのホームページを日々の「住家」のように使う者も出てくるかもしれない。まさに、「ヴァーチャル」な居場所が本当に始動するのである。
 

「ヴァーチャル」の系譜

「ヴァーチャル」という言葉は、不幸にして「仮想」という意味に受け取られやすい。「ヴァーチャル・リアリティ」を「仮想現実」と訳すことが流布してしまったからである。一体誰がこんな誤訳を流行らせたのだろうか? たぶん、この訳語は、直接には、コンピュータの「ヴァーチャル・メモリー」の訳語「仮想メモリー」をヒントにして生まれたのだろうと思うが、この誤訳の系譜には、「ヴァーチャル・イメージ」を「虚像」と訳した、文化移植上の歴史的大失敗にまでさかのぼる。
こういうことが起こるのは、たぶん、「ヴァーチャル」ということが、まさに「パブリック」という言葉と同じ様に、日本の社会文化的コンテキストのなかで馴染みがないためだろう。
「架空」「仮想」「虚」というような言葉は、何かが「ある」か「ない」かという存在論的な区別をする言葉である。だが、「ヴァーチャル」という言葉は、そのレベルの言葉ではない。「ヴァーチャル・イメージ」というのは、問題の映像が一方では「あり」、他方では「ない」というようなことを問題にしているのではなくて、どちらもちゃんと「ある」のだが、そのあり方が違うということを問題にしているのである。
実際に、よく磨かれた歪みのない鏡に映った映像を見て、それが「実像」であるか「虚像」であるかを決定するのは難しい。鏡のなかの映像の方が、「リアル」に見えるかもしれない。それは、手で触ってみればわかるではないかと言っても、進んだヴァーチャル・リアリティのシステムでは、ちゃんと手や皮膚に「ホンモノ」と類似の感触を与えることができるから、感覚のレベルでどちらが「ホンモノ」でどちらが「ニゼモノ」であるかを決定することは難しい。
 

実質的=ヴァーチャル

言葉は、それが作られたときに、それがカバーする射程をあらかじめ予知している。表現するということは、ある意味で、新しい射程を配置することだ。だから、翻訳は、そうした射程を予知されている範囲までカバーする必要がある。
英語の「ヴァーチャル」(virtual) を辞書で引けば出ているが、この意味は、まず、「実質的」ということである。形や方法は違っても、類似の機能や効果を出せるもののことを「ヴァーチャル」と言うのだ。「ヴァーチャル・イメージ」というのも、知覚にとっての映像的な効果・機能の点では「実質的」に同じだから、「ヴァーチャル」なのであって、それが、手を延ばせばそこに「ある」という仕方では存在しないからそう呼ばれるのでは全くない。
「ヴァーチャル・リアリティ」も、コンピュータやさまざまなセンシングの装置を使い、生身とはずいぶん様子が違うが、「実質的」に「生」の知覚と類似の状態を作りだすからこそ、「ヴァーチャル」と呼ばれるのであって、その映像がウソっぽい(たしかに初期のVRはそうだった)からそう呼ばれるのではないのである。
このことは、わたしは、くりかえし書いてきたことだが、このことをまず理解しておかないと、「ヴァーチャル」という言葉を使っての話が行き違ってしまうおそれがある。
ヴァーチャルなものは、だから、必ずしも電子テクノロジーやコンピュータを必要とするわけではない。鏡やレンズのようなオールド・テクノロジーでも、ヴァーチャルな空間は作りだせるわけだ。だが、鏡やレンズが「進んだ」テクノロジーであるような時代には、「ヴァーチャル」がいまのように包括的な意味で使われることはなかったし、「ヴァーチャル・カルチャー」も一般的ではなかった。まして、「ヴァーチャリティ」などという言い方もなかった。それが、いま、「ヴァーチャル空間」というような言い方で、われわれの日常世界に入ってきたのはなぜか?
ヴァーチャルという概念を思い切り拡大し、それを歴史に逆照してみれば、西欧的なテクノロジーは、ことごとく、ヴァーチャルなものを目指してきたことがわかる。その理念は、ヴァーチャリティであると言うことも出来る。すなわち、いまあるものを、なりふりかまわず、別の手段によって「実質的」に類似のものに転換してきた。最初は「模倣」、次は「複製」、そして「オリジナルのない複製」としての「シミュレーション」(その具体的な技術が「ヴァーチャル・リアリティ」である)へと行き着いた。その意味では、ヴァーチャルであるということが、最も鮮明に出るのは、電子テクノロジーにおいてであり、それがいよいよ日常生活のすみずみまでひろがった現代においてである。
ヴァーチャルなこととコンピュータとが親密な関係にあるのは、コンピュータが「実質性」の権化であるからだ。実質的である、なりふりかまわないという点で、いま、コンピュータにかなうものはない。なにせ、人間なら勘を働かせて省略することを、初めから終わりまでくまなくチェックして、結論を出す。この世に存在するすべてのものをデジタル信号に置き換えるということは、無理だとしても、それをあえてやろうとし、その「実質的」な類似物をもって世界の代わりにしようという野心の結晶がコンピュータである。
遺伝子を組み替えて、「実質的」に類似の生物体を作ってしまうという発想。ものを情報という別のエンティティ(実体)で「実質的」に再構築できるだろうという発想。これは、地球がだめなら巨大な宇宙ステーションを作ってそこに住んでもよいという発想にもつながる。臓器移植も、こうした実質主義がなければ生まれなかった。このようなドライな実質主義は、当面、日本では遠慮がちに展開しつつあるが、それが後退するきざしはない。
 

ヴァーチャルな居場所

そうだとすれば、現代人は、この実質的なもののなかに自分の「居場所」を見い出すしかあるまい。と同時に、この「実質主義」を追求している現在のシステムのなかにも、その逆説的なフィードバックとでもいうような動きがある。
デジタル録音の技術を使えば、全くノイズのないサウンドを作ることが出来る。しかし、それは、われわれが日常聴く音とは全く異なるものである。防音壁を張りめぐらしたスタジオで録音された音でも、最低限空気の音のノイズはある。そこで、デジタル・サウンドが人間らしい音に近づくためには、その技術を使ってノイズを合成しなければならない。これは、非常に逆説的なことだが、それがいま、尖端テクノロジーとともに起こっていることなのである。
それは、「健康」なことであり、それこそが、テクノロジーとともに生きる者にとっての唯一の選択肢である。ある意味で、あらゆる道具が、テクノロジーの産物である。言い換えれば、すべての道具は、その当初においては、ヴァーチャルなものであった。それが、「居場所」のような安定した恒常性を獲得するのは、習慣のなかにおいてであり、身体が持つ「冗長性」(リダンダンシー)のためである。現在考えられている「家庭」は、歴史の産物であり、一〇〇〇年まえには存在しなかったものである。
問題は、だから、ヴァーチャル空間の人工性ではなくて、その移ろいやすさである。これまでの「ヴァーチャル空間」は、つねに身体の「冗長性」とともにあった。ところが、いま増殖しつつある新しいヴァーチャル空間は、その「冗長性」を人工的な形でしか持ちえない。コンピュータで構成されたヴァーチャル空間のスウィッチをONにしっぱなしにすることによって、それがあたかも自然の海や砂漠や洞窟と同じような恒常性を持たせることは出来ないわけではない。要は、システムさえ落ちずに動いてくれれば、そのあいだだけは、そのような恒常性を保持できる。それならば、いっそのこと、この暫定的な恒常性に賭けてみてはどうか?
ハキム・ベイは、「一時的自律ゾーン」(Temporary Autonomous Zone=T.A.Z.)という提起をしている(箕輪 裕訳『T.A.Z. 一時的自律ゾーン』(インパクト出版会)。これは、電子メディアにかぎらず、恒常的なスペースよりも、一時的に密度の高いスペースを作れという勧めと戦略である。
電子的なヴァーチャル空間に居場所を作る、あるいは見い出すとすれば、それは、「一時的自律ゾーン」としてしかない。それは、電子テクノロジーのテンポラリーな性格にも見合っている。
具体的には、日常生活を、同じことのくり返しとしてではなく、創造的なイヴェント、パーティ、ハプニング、パフォーマンス、事故等々の変形として組み替えること。ここでは、居場所があらかじめどこかにあってそこに行き、そして住み込むというのではなく、何もまだないところに、新たなものを創り、そして去るということが重要だ。ここでは、「嫌になったら、すぐやめる」というのも、新しい価値になりえるだろう。
居場所は、「居る」ということにおいてよりも、創る、仕掛けるということにおいて意味を持つようになる。これは、ホームレスの時代に残された居場所のあり方だろう。

(『現代のエスプリ』編集部 梅田光恵)