2000-02-16
 

ラジオ=ワイヤレスの現象学

ラジオは、一九一〇年代から一九二〇年代に普及しはじめ、一九四〇年代にピークに達し、やがてテレビに凌駕されるというのが、教科書的なラジオ史だが、ラジオの歴史はそれほど単調ではない。ラジオにもさまざまな形態がり、今日でも、今日流のラジオがあり、ラジオそのものは依然として生き残っている。一九一〇~一九五〇年代は、AM方式によるマス・ラジオが全盛であり、一九六〇年代にはFM方式のローカル・ラジオが新たに現れた。このなかからコミュニティや大学の専門ラジオ局が生まれた。一九七〇年代にはイタリアを発祥の地として自由ラジオが生まれた。これは、免許なしで誰でもが放送を行なうという画期的な形式のラジオだった(ただし、ラジオの誕生を歴史に刻んだマルコーニのラジオ実験の多くは、早期にイギリスが電波帯の国家所有を決定していたので、すべて非合法の「自由ラジオ」だった)。日本でも、その余波として「ミニFM」がブームになったが、これは、一九九〇年代後半のアメリカ/イギリスで急速に活気づく「マイクロ・ラジオ」を先取りしていた。一九八〇年代のアメリカのローカル・ラジオでは、「トーク・ラジオ」という、個性的なパーソナリティを中心に政治も娯楽もごちゃまぜに好き勝手な放送をやるスタイルが登場し、ハワード・スターンというスキャンダラスなスターを生んだ。一九九〇年代には、インターネットの先進技術を使った「ネット・ラジオ」が登場し、今日、それが、既存のラジオとテレビを凌駕しかねない勢いになっているが、画像も見えるネット放送が、「画像付ラジオ」(net.radio with picture)とよばれているのは、おもしろい。なぜ「ネット・テレビ」とは呼ばれないのだろうか? このあたりに、ラジオが単に音声を伝達する放送メディアにとどまらず、まさに「ラディオ」の語源をなす「ラディエーション」(放射する)が含意している複合的な次元がからんでいるように思う。
 

「失われた世代」の時代は、ラジオが普及しはじめる時代と重なる。おもしろいのは、この時期のイギリスでラジオが「ワイヤレス」とも呼ばれていたことである。「失われた世代」の喪失・欠如(ロスト)と「ワイヤレス」の無・不在(レス)とは、どこかで交錯しあうのではないか? そのような交錯点を見ることによって、ラジオと「失われた世代」の両方を異化するだけでなく、今日あらわになっている事柄へ合流する一本の流れが鮮明になるかもしれない。もしそのような流れが見いだされるならば、その流れは、これから支配的となる動きをも示唆してくれるだろう。
 

「失われた世代」を、第一次世界大戦後の喪失と欠乏の意識や虚無感との関係で見るならば、今日との接点を見いだすことは難しい。「狂乱の二〇年代」を正負のセットにして考えるのも安易すぎる。が、「失われた世代」とともに顕在化した有力な具体現象は、ボヘミアン知識人のライフスタイルである。それは、パリのキャフェから世界中のアンダーグラウンド・カルチャーを通底し、そして今日のホームレス・カルチャーにまで流れ着いたところのものである。「失われた世代」が失ったのは、「ホーム」であった。その「ホーム」は、家庭にとどまらず、あらゆる意味での〈拠点〉〈よりどころ〉であり、恒久的に固定された避難所があるという観念である。
 

二〇世紀の八〇年代に意識化されたことは、ホームレスとは、単に生活の方向を見失なった路上生活者を意味するだけでなく、あらゆる意味での〈拠点〉を拒否する者をも意味するということである。家庭や家を拒否するだけでなく、安定した生産点での労働、つまりは強制された労働、さらには絶対化された一点に集約される遠近法――同じことだが、一点から一望を見渡せる「パノプティック」な観点。これらを根底から拒否することも、ホームレスのカルチャーに属しているという認識である。
 

「失われた世代」のボヘミアンは、まだ根拠の喪失を嘆いていたが、ホームレスは、もはや根拠など問題にしない。現在から過去へ向かって無窮に引き延ばされた線状の果てにある「起源」を放棄すること。はじまりなき意識。線から面へ。表象される場所としてのユートピアから、その語の本来の意味でのウ・トピア。ユートピアは、ギリシャ語で無を意味する「ウ」と場所を意味する「トピア」から出来ている。その意味では、ユートピアとは「無場所」のことである。
 

究極的な「無場所」とは身体である。アントナン・アルトーは、創造の瞬間、恍惚に燃え上がった身体、発生期状態の身体を「器官なき身体」と名づけた。身体は、場所を展開すると同時に、場所を解消する。肉体と精神の二元論では、身体が器官を失う特定の相を「精神」と名づけて肉体から区別した。が、身体が「器官」を失うのは、連続的なプロセスのなかにおいてであり、その切れ目は、観念的な操作なしには定かではない。たえずそこにあるが、関係は変化しつづけている地平線のように、そこにあり、そしてそこにない。
 

「狂乱の二〇年代」が求めた熱狂とエクスタシーは、忘我のヴァリエーションである。忘我とは、惰性的に慣れ親しんだ自我の場、同一性の場を失うことであり、そうした場からの解放である。自我を確固とした拠点・根拠とする者には、忘我の恍惚は体験できない。エクスタシアとは、ホームから極限的に脱出することである。
 

ホイットマンは、『草の葉』のなかで、「ボディ・エレクトリック」という言葉を使っている。これは、「荷電した身体」というように訳されるが、さしあたりラジオとも電気とも関係のないホイットマンのこの表現は、電気に荷電し、恍惚状態にある身体を想像させる。電気に打たれるということは、雷の被害者になるということよりも、電波のなかに身体をさらすことにおいて普遍化する。ラジオ、テレビ、モバイル、ケータイ・・・無数の電波スモッグのなかで生きている現代人は、つねに電波に打たれ、荷電した身体をかかえているので、その打たれ、荷電する経験を自覚できない。
 

現代人は、ホームレスになったが、ホームページはもっている。が、ホームページは、コンピュータ・ジェネレイテッドな場所であって、肉体の諸器官や建築物や都市のような場所性をもった身体空間ではない。それは、「器官なき身体」ではあるが、発生期の流動する時間のなかで器官を失う身体ではなくて、無理矢理器官を剥奪された身体の形骸であるところが違う。ラジオは、恍惚としての「器官なき身体」を生み出すとともに、身体を形骸化しもする。
 

日本でラジオ放送が開始された当時、「影も形も無けれども、二本の線が伝わりて、雨のあいたも風の夜も、よろずの家を一様に、同じ時刻に訪れて・・・」という「ラジオの唄」が作られたという(『読売新聞』一九二五年一二月二〇日)というのがあったらしい。まさに、ラジオは、「無線」であるにもかかわらず、「二本の線」で結ばれたものなのであった。
通信衛星とインターネットの時代になって、電子メディアが、(たとえ電線で信号が送受されるとしても)点と点とを結ぶ伝導パイプであるという発想は失われつつあるが、いまでも、情報の「送り手」と「受け手」というような言い方をするように、ラジオ現象を線の関係で考える傾向は根強くある。が、それは過渡期の発想にすぎない。線(ワイヤー)の発想は、ラジオに歴史の初めの段階においてすでに破綻していた。ラジオは線を否定し、線とは異なるロジックによって動かされていた。
 

一九世紀末にマルコーニが、「ワイヤレス・テレグラフィ」(無線電信)の実験を行なったとき、それまでケーブルでつながっていたものを無線に変えたという意味で「ワイヤレス」だった。しかし、一年もしないうちに、ワイヤーが全く通ってはいない場所を電波で結ぶようになり、有線ではできないことを拡大していった。たしかにワイヤーはないのだが、そもそもワイヤーを考えることが比喩にすぎないという状況が生まれたのである。だから、「ワイヤレス」が、「放射」を意味する「ラディオ」と言い換えられるようになったのは、理の当然であった。
しかし、ここでは、まだ線の発想が支配的で、一八九四年以来、マルコーニが、ワイヤレス・テレグラフィーから肉声の送信、短波によるネットワーク、さらにはプログラムのあるラジオ放送、ラジオ局の設立へと、探険家や侵略者に通じる意識で電波の到達範囲を拡大していったとき、重要なのは、二点を結ぶ線であり、だから、その成果は、「コーンウォールとニューファウンドランド島とのあいだを無線でつなぐことに成功」というような言い方で評価された。
 

この点では、自動車の方が、線の発想を越えていた。自動車の普及は、ヘンリー・フォードが、フレデリック・W・テーラの新しい「科学的管理システム」を採用したことによって起こったが、線状のベルトコンベアにおいて重要なのは、その端緒と末端ではなくて、その間に区分されたさまざまなパートであり、点よりも面が問題なのであった。
だが、ラジオと自動車との違いは、前者が身体的な空間の延長なしに面を拡大するのに対して、自動車は、あくまでも身体空間を拡大することに終始したことである。実際、自動車の普及は道路を変え、郊外都市を生み、職場と生活の場とを分離した。つまり、面の拡張が、その内部に複雑な線を増やすことになったのである。それは、線の思想を離れることができなかった。テーラー・システムには、「部分の集合を全体」とみなす近代科学の数理的合理主義と分業の経済学が流れ込んでいるわけだから、それは必然的なことだった。
 

リンドバーグの大西洋横断とともに次世代の乗り物として印象づけられた飛行機は、身体の〈ラジオ化〉の極限である。身体的なレベルを維持しながら行なえるぎりぎりの脱身体化。飛行機は、遠近法の終焉と「一望に見渡せる」(パノプティック)世界を目ざす。しかし、この時代に、現象学の創始者エドムント・フッサールが指摘したことだが、知覚はつねに動的な遠近法的「地平」をともなっており、「一望に見渡せる」ということは不可能である。自分の体を他者の目で見ることはできないし、まなざし自身を見ることはできないではないか、とフッサールは言った。にもかかわらず、近代科学とそれにもとづくテクノロジーは、パノプティズムがあたかも可能であるという前提のもとで「発展」してきた。
 

空中への進出は、地上(都市と建築)では、強度の管理を徹底させた監獄のような、個々人を非人間的な条件のなかに閉じ込めることなしには実現できないパノプティズムとパノプティコンへのあくなき願望である。高層建築とは、飛行機から見た都市を理想とする建築様式であり、ハイウェイとは、飛行機の観点から再構築された道路を意味する。以後、乗り物は、自動車も列車も、飛行機を理想モデルとしていく。自動車にシートベルトが付き、ナビゲーターがつき、列車の窓は密閉式となる。だが、いくら空中にかぎりなく飛翔しても、身体的世界での飛翔にはつねに「地平」が伴う。身体空間は嵩を消去しつくることはできない。それゆえ、音の世界に限定しながらも、実際の世界と〈実質的〉(ヴァーチャル)に同じ条件を構築してくれるラジオへの期待と願望が高まる。
 

いまや人口に膾炙したフレデリック・L・アレンの『オンリー・イエスタデイ』を引用するのは、安易かもしれないが、一九二二年の春には早くも熱狂的な流行になったアメリカのラジオについての次のような記述は、依然、説得力がある。

三軒に一台の割合で全国に浸透したラジオ。全国に中継電波を送る巨大な放送局。アンテナの林立する共同住宅の屋根。旧式なフローレンス風のキャビネットに納まった受信機からささやくように歌うロキシーとその楽団やハビネス・ボーイズ、A&P・ジプシー楽団、そしてルディ・ヴァリー(当時最も人気のあった流行歌手)。「とうとう彼はやりました。確かに彼はやった。タッチダウンです。みなさん、これこそ最高の試合の一つだと申し上げたい・・・」という叫び声を、居間のわれわれに聞かせて、いかなるアメリカ市民よりも民衆にとって親しい存在になったグレアム・マクナミー(人気アナウンサー)の声。一九二七年になって、遅ればせながら競合する放送局の波長の割当を主張した政府。イースト菌や練歯磨についてのちょっとした選り抜き文句をつけてベートーヴェンを紹介する特典に莫大な金を払う広告主。そして、個人で、アメリカ・ラジオ会社(RCA)の株を一九二八年に八十五ドル四分の一に安値から、二九年の五百四十九ドルという高値にしたマイケル・ミーハンなどが、それである。(藤久ミネ訳、筑摩書房)
 

ニーチェは、『力への意志』のなかで、「真の世界」というものは、「遠近法的仮象」だと言っている。遠近法が存在するかぎり、世界に無限の地平がつきまとう。一望のもとに見渡せる絶対的な観点はない。だから、それがあるとすることも、「遠近法」のなせるわざであり、それは、したがって、「遠近法的仮象」だというわけである。この「遠近法的仮象」の増殖とその構築物(ハイデッガーは、これを「世界像」と呼んだ)の支配を「力への意志」と名づけた。そして、あくまでも身体にとどまりながら、それをのり越える方法の一つとして、「楽しい知識」を提起する。それは、カビの臭いのするアカデミックな知識ではなくて、恍惚と〈無場所〉(ウ・トピア)へいざなう動的でセンシュアルな知である。同名の書(『悦ばしき知識』とも呼ばれる)の巻末に置かれた詩には、次の一節がある。

われらは吟遊詩人たちのように踊ろう
聖者と娼婦とのあいだで
神と世界のあいだで踊りを!
 

ラジオの歴史は、ニーチェ的に言えば、「遠近法的仮象」と「楽しい知識」とのあいだを揺れ動いている。一九一〇~二〇年代に普及しはじめたマス・ラジオは、本当は消去できないはずの身体をあたかも消去したかのような形で押し広げられた「見せかけ」(仮象)の空間のなかに進出した。それは、巨大な「仮象」、ラジオに不可欠の三極真空管を発明したリー・デフォレストが言った「見えない空気の帝国」を構築する事業であった。これに対して、「楽しい知識」は、身体の固執なしには不可能であるから、これに属するラジオは、身体サイズのラジオであり、たとえ地球規模のネットワークを持つとしても、個々人の身体を活気づけ、「楽しい知識」をよみがえらせるラジオである。これは、マス・ラジオの「仮象」性が暴露されたあとでも、なかなか登場しなかった。
 

「見えない空気の帝国」は、通常、それが「仮象」であることを覆い隠す。それは、あたかも身体の延長上に存在する「実在」的な世界であるかのように受け取られる。が、一九三〇年代になって、この「仮象」性が公開的に暴露される事件が起こった。オーソン・ウェルズが仕掛けた「火星人襲来」事件である。
一九三八年一〇月三〇日(日曜)、ニューヨークのWABCをキーステーションとしてCBSの全米ネットワークに流されていたレギュラー番組「マーキュリー劇場」で、ウェルズは、H・G・ウェルズの小説『世界戦争』をドラマ化した。これは、「実況中継」の形式のドキュドラマであったが、その放送を実際のニュースだと勘違いした聴取者がパニックを起こした。
放送中最初と中間に、ウェルズの小説にもとづくドラマであることがアナウンスされ、また、聴取者の電話による問い合わせに対しても局側は、これがフィクションであることを説明したにもかかわらず、多くの聴取者が、ニュージャージーの郊外に火星人が飛来したと信じ、火星人の攻撃を逃れるために右往左往したのだった。

【訂正】
『宇宙戦争』→『世界戦争』(The War of the Worlds)
これは、音楽と疑似的な「ニュース」とを混ぜ合わせた形式のドキュドラマ→音楽は最初だけで、すぐに「実況中継」のスタイルになる。
放送中幾度か「これはドラマである」ということが報じられ→1度、放送開始後30分ぐらいして、クレジット的な説明が入っただけ。
 

番組を途中や仕事のあいまに聴き、途中で流された「これはドラマである」というメッセージを聴きのがした聴取者がいたために、こういうパニックが起こったというのは、表面的な解釈である。もともと、マスメディアは、記号と記号との偶然的な戯れのなかで読まれ、聴かれ、観られるものである。精読するようにラジオを聴き、テレビを観る者は少ない。むしろ、問題は、ラジオが、宇宙というような、個々の身体とは無関係な世界の「仮象」になるとき、現実か非現実かを判断する基準が喪失すること、現実か非現実かは、あくまでの身体を基準として判断されることである。
 

オーソン・ウェルズの実験は、進行中のラジオが、「仮象」の増殖に向かって進んでいることを自ら明らかにした。ヒトラーは、近代テクノロジーのこうした「仮象」性をさまざまな分野とさまざまな方法で駆使したが、ラジオは、最大の武器であった。ヒトラーが、部下(一九三四年まで)のヘルマン・ラウシュニンクに語ったとされる、次の言葉は、彼がマス・ラジオの「仮象」的機能を十分知っていたことを示唆する。

威圧策をあまり頻繁に使いすぎるのはよくない。無感覚をうみだすテロよりもずっと重要なのは、大衆の観念の世界、感情の構造を組織的に変えることである。大衆の思考と感情とを制御しなくてはならないのだ。ラジオのある今日においては、これまでの時代とは比べようもないほど、これは容易である。
(船戸満之訳、ヘルマン・ラウシュニンク『ヒトラーとの対話』、学藝書林)
 

一九一〇~五〇年代のラジオが、「遠近法的仮象」を目指したということは、この時代のラジオが、必ずと言ってよいほど、絶対者や権威を祭りあげる記念碑的イベントとともに発展したことからも理解できる。
「世界最初」のマス・ラジオは、一九二〇年一一月、アメリカの大統領就任が決まったハーディングの選挙勝利宣言の放送であった。
一九二五年(大正一四年)に始った日本のラジオ放送は、国民統制にとって強力な影響をもつラジオ体操を一九二八年(昭和三年)に開始するが、それは、昭和天皇の「御大礼」の記念事業であった。
一九三〇年にマルコーニが始めた短波による最初の「世界放送」は、ピウス一一性治下のヴァチカンにおいてだった。
 

ベルトルト・ブレヒトは、ヒトラーのラジオ戦略を予見するかのように、一九三〇年の時点で、ヒトラーとは根本的に異なるラジオ論を提起している。まず注目しなければならないのは、聴取者のとらえ方がヒトラーとは全く違う点である。ブレヒトにとって、聴取者とは、与えられたものを受動的に受け入れるヒトラー的な「大衆」ではない。もしそのような「大衆」がいたとしても、それは、そうしむけられているにすぎないとブレヒトは考える。
ブレヒトは、ラジオの使用を前提とした『太平洋横断』という台本を書いているが、「『太平洋横断』は、現在のラジオの使用に供するのではなく、[以下、文末まで強調点]それを変革しなければならない」と言い、そのためには、「聴き手のある種の蜂起、その能動化、[消費者ではなく]生産者としての復権」が必要なのだと言っている(野村 修他訳『ベルトルト・ブレヒトの仕事 6』、河出書房新社所収)。
 

ブレヒトは、「コミュニケーション装置としてのラジオ――ラジオの機能に関する講演」(一九三二年)では、聴取者の「蜂起」についてもっと具体的に述べている。彼は、進行中のマス・ラジオが、どんなに普及し、刑務所のなかにも、ホームレスのねぐらとなる橋桁の下にもラジオ受信機があるというような状況が生まれても、それだけではラジオの機能は変わらないということを鋭く洞察していた。実際に、いまは誰でもがラジオを持っているが、聴取者が受動的であることはあまり変わっていない。ブレヒトが言うように、マス・ラジオにおいては、「万人むかってあらゆることを語りかける可能性が、突如として生み出されたが、よくよく考えてみると、語りかけるべきことは何もなかった」のである。「公衆がラジオを待望したのではなく、ラジオが公衆を待望した」。これは、新しいテクノロジーが登場するときの変わらぬ状況である。
 

マス・ラジオは、聴取者に語らせない――傾聴する――黙って聴くということを要求する。しかし、条件が変われば、全く反対のことが起きる。放送局には、「語りかけるべきことは何も」ないとしても、聴取者の側には語るべきことはいくらでもある。そこで、ブレヒトは言う――「もし、ラジオが送信することも受信することもでき、聴取者に聴かせるだけでなく、語らせることもでき、彼らを孤立させるのではなく、参加させることができるとしたら」、「ラジオは、パブリックな生活の、考えうるかぎりにおいてもっとも大規模なコミュニケーション装置、巨大なチャンネル組織となるだろう」。
 

しかしながら、ブレヒトのこの提案が具体化するのは、彼の発言から四〇年もたって花開くコミュニティ・ラジオのパブリック・アクセス(聴取者が自由にスタジオを使って番組を作る)においてであり、それがさらに彼のいう「考えうるかぎりにおいてもっとも大規模なコミュニケーション装置、巨大なチャンネル組織」となるのは、さらに二〇年以上あとの一九九〇年代半ばに展開するインターネットのラジオにおいてであった。
 

インターネット・ラジオは、当面、ワイヤレス(無線)ではなく、有線で結ばれている。だが、世界中に張りめぐらされたインターネットの回線のなかには、通信衛星やマイクロウェーブも使われており、また、近年、コンピュータと回線とを結ぶケーブルの代わりに無線(ワイヤレス・ラン)がよく使われる。ケータイやモバイルでメールを受信するときには、ワイヤーはない。つまり、ワイヤーは、さまざまな形で地球上を覆っているが、ワイヤーとワイヤーとのあいだをワイヤレスの電波が複雑につながりあい、ワイヤーの線としての意味が、メッシュや網の目の方にかぎりなく近づいていくのである。「ワールド・ワイド・ウェブ」(WWW)という今日のインターネットの別名は、こうしたメタファーとしても含蓄がある。

(毎日新聞社 シリーズ・20世紀の記憶 西井一夫)