『幕張アーバニスト』(1999年12月号)

バーチャル・ユニバーシティとフィジカル・キャンパス
――いかにして大学を再生するか (1)


粉川 哲夫


「ケイタイ」メディアの蔓延、ネットワークを介したディスタンス・エデュケーション(遠隔教育)の広がり――。いま大学の存在意義が大きく問い直されようとしている。



学校というシステム自体の終焉

 大学は終わったという実感が、わたしのなかでますます強くなっている。ただし、終わったとうことは、そこ から崩壊や消滅へ進むということではかならずしもなく、むしろ変革の転機に立っているということである。崩壊や消滅は、変わることが出来ない硬直したシス テムにおいて起こる。学校というシステム自体の終焉という事態のなかで、すでに、小・中・高の学校で非常に危機的な終末現象が起きているのは、それらが、 システムとしての柔軟性を失っていて、それ自身では再組織化が出来ない要素が強いからである。その点で、大学は、どうなのか? この20年間に、大学は、 内部の変化を甘受してきた。耐えてきたと言った方がよいかもしれない。そうすることによって、大学は、一応の存続を維持してきたのである。

 近年、多くの大学で、大学改革のプランが検討されている。それは主として、大学入学者数の減少を懸念しての予備的対策に端を発している。たしか に、統計的な数字から予測すれば、その懸念は当たっている。しかし、それならば、いまの学生とは全くちがう学生層を作り出す構想があるかといえば、それ は、ほとんど皆無である。たかだか、高年齢層や留学生を新しい予備層として考えている程度である。

 その上、改革プランのためにかけられている時間の長さにくらべて、現場はあまり変化していない。これは、基本的に、大学ですら、文部省の指導に 安んじできた悪習のために、構想は色々あっても、なかなか実行に移せないという日本システムの宿命のようなものがわざわいしているからである。
 つまり、日本の大学は、経営、組織運営、カリキュラムのレベルでは、まだ大した変化を起こしていないが、その深層構造レベルでは、徐々に変わ りはじめているということである。そして、これまで進められてきた表層レベルの改革は、今後、この深層構造のレベルでの変化を参照しなおし、もっと根本的 な改革に進まなければならなくなるだろうということである。



20世紀メディアの帰結「ケイタイ」

 深層構造というものは、かならずしも瞑想的な思考や特殊な洞察のなかであらわになるわけではない。むしろ、それ は、最初、つまらないささいな出来ごとのように姿をあらわし、やがて「あたりまえ」のものになる。しかし、それが誰でもが知っているあたりまえの現象に なっても、その意味はあまり知られることがない――というような屈折したあらわれかたをする。

 近年の大学で目立つのは、ケイタイ(携帯電話)の普及だ。教室でケイタイが鳴ることはいまではめずらしいことではないし、それをどんなに厳しく 禁じている教師でも、いったん教室の外に出れば、ケイタイを片手に、「独りごと」を言いながら歩いている学生たちの姿を目にしないわけにはいかない。
 では、ケイタイとは何か? それは、1980年代の中頃から始まった「ニューメディア」革命の帰結であり、それが一つの帰結としての度合いを 強めれば強めるほど、当然のことながら、「ニューメディア」以前のメディア的要素をさらに内包し、いわば20世紀のメディアの一つの帰結といった様相を呈 するようになったところのものである。
 実際に、ケイタイには、電話はもとより、トランジスターラジオ、電卓、デジタルウォッチ、ウォークマン、FAX、ポケベル、トランシーバー、 ゲーム機、ミニFM、カラオケ、液晶ミニテレビ、そしてパソコンの諸要素が統合されているのであり、そして、そのパソコンは、さらにさまざまな要素を自分 のなかに取り込むことをやめていない。

 こういうものを学生が所有し、彼や彼女らの現場に持ち込むということは、教室を改装したり、カリキュラムを変えるなどというレベルの変化とは全 く比較にならない大変化である。これまで外部から切り離されていた教室は、常時外部とつながり、学生は、禁止されても、授業を聞きながら、その文字盤に目 をやって、メールを調べたり、ゲームを楽しんだりすることができる。少し工夫すれば、教師の言ったことをデータベースでチェックしたり、自分のコンピュー タにその話(それだけの価値があるとして)を録音したりすることも可能である。
 ここで変えなければならないのは、学生の方ではなくて、大学そのものであることは明らかだ。大学の歴史は、中世ヨーロッパにさかのぼるとして も、いまの日本の大学の形態は、近代[モダン・エイジ]の産物であり、そのスペースと諸制度を支配しているのは、近代の集団管理とモダン・テクノロジーで ある。そして、いまはっきりと姿をあらわしはじめたのは、そういうものの終焉とそれらを越えた新しい社会関係とテクノロジーである。
 しかし、だからといって、学生たちが自分たちのやっていることを自覚しているわけでないことは言うまでもない。だから、せっかく20世紀のメ ディア的可能性を統合したケイタイを所持しながら、その可能性を十分には展開できないでいる。少しまえわたしは、教室で期末のレポートを書かせる際に、ケ イタイでもMDプレーヤーでもノートパソコンでも、身近なメディアを最大限利用してもよい、と告げたのだったが、実際にそれをした者は一人もいなかった。 教室、「試験」、教師といった手垢にまみれた概念が、大胆な活動を阻んでしまうのである。



「観客」を講義に引き込むために

 大学は、いま、根底から考え方を変えなければならない。依然として、何百名もの学生を一カ所に集合させて行なう大 教室講義はどこの大学にもあるが、傾向的には、こういう方式を廃止し、少人数講義を重視しようとしている。しかし、10人たらずのゼミでも、ケイタイのベ ルは鳴るだろう。私語や居眠り、読書量の減少は避けられない。問題は、スペースのサイズではないからだ。大教室講義がダメでも、横浜アリーナや武道館の何 万人クラスのコンサートは盛況である。問題は、スペースの使い方が、大学の場合、旧態然としているということなのである。大教室で、マイクも使わずに、 90分間緊張感と満足感を与えることのできる古典的な教師がいないわけではない。しかし、スペースに対する「観客」の姿勢自体が変わってしまったいま、そ ういう古典的な講義をやるのは、至難の技である。それには、大学の教師は、あまりに修業が足りないし、そういう機会もない。

 いっそのこと、大教室を「劇場」やクラブのスペースとして使ってしまってはどうか? わたしは、この十年あまり、そういう発想で大教室を使うこ とにしている。さいわい、最近の大教室には、ビデオプロジェクターやオーディオ装置が備わっている。場所によっては、プロジェクターにコンピュータをつな ぐこともできる。音や映像の素材を準備するのは大変だし、コンサートやクラブで手際のよいメディアてさばきを見ている相手を飽きさせないで音や映像を見せ るのは、多少の修業がいるが、しかし、そうしたVJ[ヴィデオジョッキー]的な講義をやっていると、「いまの学生は?」というような、よく耳にする教師の グチとは全く異なる学生の反応を、目の当たりにする。