ストーカー論

  ストーカーが増えているという。いいことではないだろうか?
  マスメディアで「ストーカー」というカタカナ語を広めた本
の一つであるリンデン・グロスの同名の本(秋岡 史訳、祥伝
社)を一読すればわかるように、ストーカーがやっていること
自体には特別の新しさはない。最初から関心のない相手に交際
を求め、拒否されてもしつこくつきまとい、ついには危害まで
加えてしまうというようなケースは、昔からあった。ストーカー
は、基本的には「偏執狂」と同義である。
  しかし、いま問題なのは、ストーカーが実際に増えているか
どうかであるよりも、「ストーカー」という言葉の出現によっ
て浮上してきたもの、これまで「偏執〈狂〉」として特殊化さ
れてきたことが外来語を使って世間化されたということ、であ
る。
  グロスの本で不満なのは、ストーキングという行為が、もっ
ぱらその〈やられる〉側の観点からしか問題にされておらず、
それを〈やる〉側は最初から「異常者」や「犯罪者」と暗黙に
みなされていることである。しかし、今日のストーカー現象で
重要なのは、万人の意識のなかにストーカー的なものが増殖し
ていることであり、誰しもが潜在的なストーカになりつつある
ことの背景である。
  一〇年ぐらいのタイムスパンでいまの状況をながめてみると、
人々は、以前より「しつこく」なっている。購入した商品が思
い通りのものでなかったというので、メーカーに苦情の電話を
する件数は増えているし、三〇年まえだったら「言いがかり」
と一笑に付されかねなかったことについての裁判件数も増えて
いる。
  日本には、もともと「水に流す」文化があり、問題を少し詰
めようとすると、「くどい」と言ってすべてを帳消しにしてし
まう傾向がある。五月みどりのヒットソングから始まる「いい
からいいから」は、三五年たったいまでも生きているし、それ
は、たとえば「ま、いいか」(北浦共笑のCMのせりふ)とい
うような形でリサイクルされている。ここには、「あっさりし
た味」と「淡泊」を評価する大衆美学があり、それは、無責任
と忘却の政治学を補強しながら、現在の日本を支えてきた。
  とすれば、ストーカーの、いや、ストーキング意識の増殖は、
こうした日本の「伝統」と現状に変化があらわれている予徴で
あるのだろうか?
  トニー・スコット監督の『ザ・ファン』(一九九六年、日本
ヘラルド配給)では、ロバート・デ・ニーロが、サンフランシ
スコ・ジャイアンツの打点王ボビー(ウェズリー・スナイプス)
につきまとうストーカー、ギルを演じたが、この映画でわたし
が興味をおぼえたのは、この映画ではエレン・バーキンがスポー
ツ・キャスター役を演じるラジオ放送の電話とリンクした番組
がギルのストーキング行為を動機づけ、そして最終的に彼を追
いつめる役割を果たしていることだった。
  ストーキングを動機づけるメディアとして、最も多い事例を
提供するのは電話である。無言電話、盗聴、偶然の電話から発
展した一方的な偏愛・・・。最近は、これにパソコン通信やイ
ンターネットが加わった。ただし、インターネットといっても、
ストーキングを動機づけるのは、そのうちの電子メール機能で
ある。
  いずれの場合にも、電子的に構築されるヴァーチャルな世界
と、生身の身体世界との解離がストーキングの基礎になってい
る。しかし、問題は、この解離そのものではない。いかなるメ
ディアも、生身の身体に対する解離と距離を生み出すが、それ
だけでは、ストーキングを動機づけることはできない。電話や
電子メールが、ストーキングに向いたメディアであるのは、そ
れらが、それらを使用する者の身体をかぎりなく変容し、さら
には消去するような本性を有しているからである。
  その点では、電話よりも電子メールの方が、ストーキングを
生みやすいメディアである。電子メールには、文字が中心であ
るという制約があるわけだが、その制約のためにユーザーは、
さまざまなヴァーチャルな仮面をつけることができ、生身の素
顔を隠すことができる。電話で作り声をするのには特技がいる
が、電子メールは、それほどの文章技巧を用いなくても、多様
な演技が可能なのだ。これは、ある点では、表現の豊かな可能
性であるはずだが、それは、あくまでも同じメディアの次元で
コミュニケーションが行なわれる場合である。
  友人関係でも(むしろ友人関係だからこそ)、顔を合わせた
ときに、「あのメールは一体なんだ!」と文句を言ったり、
「メールを出したのにどうして返事をよこさないんだ」と相手
を難詰する(あるいはそれに近い意識をもつこと)は、それほ
どめずらしくない。このようなことは、電話の場合には、起こ
りにくいだろう(すくなくとも、両者が知り合いの場合には)。
  手紙を出したのに、返事をよこさないというので、督促の手
紙を書くというのは、すでにストーカー的な意識と身ぶりのな
かに身を置くことであるが、電子メールの場合には、手紙の場
合よりも、「返事がすぐ来て当然」という意識が強くなる。督
促をするのにも、同じメールをもう一度送るとか、あらかじめ
用意した「先日の件どうでしょうか?」という一行メールをポ
ンと送れるので、手紙ほど手間がかからない。こうして、われ
われは、電子メールを利用しながら、メール・テクノロジーの
おかげで知らぬ間にストーカになっていく。
  ガタリとドゥルーズが言ったことを拡大すれば、カフカにとっ
て手紙は「くもの巣」(ルゾー=ウェブ)であり、手紙を通し
て女性たちをリーモートコントロールした「手紙の人」カフカ
は、「手紙の毒蜘蛛」というよりも、〈ウェブのストーカー〉
である。しかし、手紙をこのような「ウェブ」にするには、カ
フカは、一日何通もの手紙を書かなければならなかった。いま、
われわれは、その一〇〇分の一の労力で、ウェブに身を置くこ
とができる――すくなくとも形の上では。
  コンピュータ・テクノロジーには、人を大なり小なり「ストー
カー」にする要素が潜在している。コマンドラインで入力しな
ければならなかった時代にくらべれば、はるかにファジーな要
素をそなえてきたとはいえ、身体のファジーさにくらべれば、
現在普及しているコンピュータのインターフェースは、依然と
して「精密」すぎる。電話なら、少しぐらい発音をまちがえて
も、意志の疎通十分はかることができるが、コンピュータでは、
手の動作を一ミリまちがえても、意味不明な表現をしてしまう
こともある。コンピュータを使っていれば、おのずから「精密」
指向になってしまうのであり、とくにコンピュータで文字を打
ち込む場合はそういう傾向が強まるのである。だから、インター
ネットは、ストーカーの味方であるはずだが、実際には、そう
ではない。
  メディアの発達は、一方でかぎりない開放を追求しながら、
他方では、かぎりなく隠蔽と閉塞を指向するという矛盾のなか
で進む。そしてこの矛盾は、問題のテクノロジーの爛熟期に頂
点に達する。インターネットとはいえ、その実、郵便のテクノ
ロジーを継承している電子メール(ここで郵便テクノロジーは
完成のピークに達する)は、それが洗練されればされるほど、
インターネットのもつ未来的なポテンシャルを抑えるという傾
向が出るのもこのためだ。
  メーリングリストが格好の例である。そこにはさまざまな人
の意見や情報が集積されていて、便利ではあるとしても、それ
は、所詮、パソコン通信の電子掲示板や新聞やテレビと同じよ
うなデータベース機能を展開しているにすぎない。が、それよ
りも、問題は、メーリングリストが、電子メールのもつストー
キング的な機能を排除しており、そのためにまた、メーリング
リストをめぐってストーキング的な行為が起きてしまう点であ
る。言い換えれば、メーリングリストは、コンピュータ・テク
ノロジーが必然的に連れ込むストーキングという矛盾に真正面
から直面して、それをのりこえる機会をうやむやみする機能を
果たしている点である。
  メーリングリストでは、一見、電子的なコミュニティや電子
的な「公共性」が成立しているように見えながら、コミュニケー
ションの質という点では、ぞっとするような並行関係しか存在
しない。せいぜい5、6人までのメンバー(身体的レベルでも
交流のある)で構成されたメーリングリストで、彼や彼女らに
まさにカフカ的な「しつこさ」と時間の余裕があって、メール
のやりとりで生まれるズレをたがいにかぎりなく埋めて行こう
とする場合は多少ちがうとしても、最低でも十数人はメンバー
がいる通常のメーリングリストでは、個々のメイラーが、一見、
「対話」風にメールをポストしてはいても、その「対話」には
和解不可能な断絶が生まれ、それがどんどん放置されたまま先
に進む。結局、「うまくいっている」メーリングリストという
のは、「対話」風の並行儀式が延々と続いているにすぎないの
である。
  だから、メーリングリストが「コミュニティ」として機能す
ればするほど、その〈外部〉との落差はますます拡がっていく。
しかし、この「コミュニティ」は、極めて擬制的なコミュニティ
であり、集団性としては、そこに属しているというラベルしか
意味をなさないので、その〈外部〉との関係においては、権威
的な機能をもつか、あるいは、被害者妄想的な孤立性に陥るか
のいずれかになってしまう。
  ストーカーには、甘えた「連帯」はないし、そのヴァーチャ
ルな世界とその〈外部〉との距離を儀式的に保持しようとする
「上品」さや「淡泊」さもない。ストーカーとは、いわば、ハ
キム・ベイが『 T.A.Z.』(一時的自律ゾーン)のなかで再定
義したような意味でのシュティルナー主義者の未熟な形態、サ
イバースペースで〈カップル〉化された「唯一者」の不本意な
形態なのであり、二〇世紀末の人間がすべて〈ホームレス〉で
あるというの同じような意味で、二一世紀の人間のあり方を予
描しているのである。
  だが、創造的なストーカーは、〈ホームレス〉とはちがって、
最低限ヴァーチャルな〈他者〉を「所有」している。おそらく、
ここには、今後の社会が「みんな」というのっぺりした集団性
ではなく、〈カップリング〉を基礎単位にした新たな〈リンク〉
的な社会性もったものになるだろうということを示唆している
のである。

図書新聞、1997年1月1日号、p.3