メディアテクノロジーの行方

1 二〇〇〇~一九九八

 最近では「キャピタリズム」という言葉を耳にすることは
あまりないが、二〇世紀の終りごろまでは、社会・経済・文
化を全般的に規定するキーワードとして誰でもがこの語をよ
く使った。
だが、いまの時代にこの語がなぜあれほどポピュ
ラーだったのかを理解するのは難しい。
  語源的には、この語は、ラテン語の「キャピタリス」に由
来するが、「キャピタリス」とは、「頭に関係のある」とい
った意味だった。そして、ここから、「元手」とか「首都」
といった意味が派生し、一〇世紀ぐらいたってから「キャピ
タリズム」が定着したわけである。
 してみると、古い二〇世紀の経済学の文献のなかで、カー
ル・マルクスなどを引きながら「利潤」がどうの「蓄積」が
どうのと言って七面倒くさい定義をしていたが、それよりも、
まず《元手主義》とか《首都主義》とか言ってしまった方が
わかりやすかっただろう。
 実際、「キャピタリズム」の時代に経済を支配していたの
は、最小の「元手」で最大の「利潤」を上げようという《元
手主義》と、街があれば必ず中心を設定しないではいられな
い《首都主義》だった。
 「主義」というものは、本末が転倒するのを特徴とする。
《元手主義》も例外ではない。もうけというものは、《元手》
に見合ったものであるはずだが、《元手主義》においては、
もうけるということが先行した結果、《元手》が何であり、
どうであるかということはどうでもよくなった。食べられな
い品物でも、それ相当の理由をつければ、《元手》になるの
であり、むしろ、実質的な価値のないものをいかにすぐれた
《元手》にするか、要するに《元手》の希少価値を捏造する
かが、《元手主義》の本領であった。
 しかし、「キャピタリズム」の問題は、こうした「詐欺」
性にあるというよりも、むしろ、たくさんあるものをたった
一つに代表させてしまったり、代表させるものが見つからな
いときには、何かを捏造して代表させる「虚構」性にあると
言った方がよいかもしれない。いわば、手足、胴体、頭があ
る人間を頭だけで済ませるようなもので、無理であることは
最初からわかっている。だから、その意味では、「キャピタ
リズム」は、《元手主義》や《首都主義》というよりも、端
的に《頭主義》と言い直した方がよいだろう。
 マルクスが「キャピタリズム」に反対したのは、彼が「頭」
よりも「下半身」を重視したからであるが、そもそも問題は、
多様な存在をどれか一つに統合・還元してしまうことにあっ
たわけだから、問題が「頭」か「下半身」かで片づくはずも
ない。そんなわけで、「マルクス主義」も、「キャピタリズ
ム」と手を取り合うようにして世の関心から消え失せていっ
た。
 もっとも、厳密さを好む歴史学者からすると、両者がとも
に終末を迎えたというのは不正確だという。マルクス主義は、
「キャピタリズム」よりもはるかに先に滅びていたはずだと
いうのである。
 たしかに、マルクス主義は、《下半身主義》としては徹底
しなかった。人々の飢えや過酷な労働条件という「下半身」
の問題を危機に陥れる状況に対してマルクス主義は厳しい抗

議と反抗をくわだてたが、「下半身」のもう一つの重要問題
すなわちセックスの問題に関しては徹底しなかった。本当は、
ウィリアム・ライヒやハーバート・マルクーゼのような「異
端」のマルクス主義者が説いたように、マルクス主義は、
「飢えからの解放」の次は、「やりたい・やらせろ・やっち

まえ」のスローガンだけで行けばよかったのである。
 その点、「キャピタリズム」の方はもっと過激でしたたか
だった。それは、本来、「頭」のことしか関心のない《頭主
義》だったのだが、適度に「下半身」にも意を用いた。すな
わち、世界を徹底的に「頭」に還元し、「下半身」など存在
しなくてもよいような方向を進める一方で、ある限られた人
々と階級に対して、「下半身」の限りない自由を許容した。
 もっとも、「キャピタリズム」の命を縮ませることになっ
たのも、この手前勝手なしたたかさであった。
 「下半身」なしで済ませようという「キャピタリズム」の
理念は、二〇世紀の後半になって、物品や土地ではなく、
「情報」がすべての基礎になることによって、具体化しはじ
めた。電子的な情報テクノロジーでいくらでも「ヴァーチャ
ル・リアリティ」を構築することが出来るようになるにつれ
て、「下半身」のフィジカルな世界は否定されるのではなく
て、別の形で肯定されるようになり、ついには、情報だけか
ら成るバーチャルな世界、そしてさらには人体=アンドロイ
ドを創ることができるようになったからである。


2  一九九八~一九九七

 セックスが、単なる社会風俗や習慣ではなくて、国家政治
の有力な要素であった時代があった。二〇世紀の後半から短
期間世界経済を支配した日本の「奇跡の成長」の秘密も、そ
の独特なセックス・ポリシーにあったと主張する学者もいる。

 われわれの体は、どの部分をとっても性的なのだから、か
つてのように身体の特定の場所だけを「性器」と呼ぶことは
矛盾なのである。だから、今日では、「性器」という言葉は、

ほとんど死語になっている。しかし、このような考え方は、
二〇世紀にはまだ、危険な「性の遍在主義」ないしは「性の
アナーキズム」とみなされた。
 このことは、「ポルノ」という性器を見せるか隠すかだけ
に終始する映像ジャンルがあったことでも明かだ。「ポルノ」
に登場する身体には、時代によって一定の身ぶりパターンが
ある。一般に、一九六0年代以後の「ポルノ」は、画面に性
器をまるでかたきのようにひんぱんに露出させるようになる。
そして、登場人物は、むさぼるようにたがいの性器にくらい
つき、いじめあうのである。

 ところが、その後、時代が下るにつれて、情勢が変わり、
白けた感じが強くなる。白けたという言い方が適切ではない
とすれば、ある種の多様化が進み、それまで男と女が登場し
たセックスシーンに代って、男と男、女と女、人とマネキン
といった組み合せのセックスが主流になってくるのである。

 最初は、おそらく、AIDSの影響からだと思うが、次
第に、人間の体とそっくりに作られた人形をそなえたセック
ス・クラブが増えはじめた。その手の世界を描いた映像とし
ては、『オマニュエル夫人』という有名な作品があるが、い
までは、その断片しか残っていない。二〇世紀には、多くの
国々で「売春」を禁じていたが、このようなセックス・クラ
ブの出現によって、「売春」はスポーツ・クラブと同じよう
なあたりまえの施設になった。
 が、二一世紀になると、
人は裸になって体(それがアンドロイドであれ)を寄せ合う
こと自体に関心を失っていく。わたしが歴史資料館で見た
『ディープマウス』という作品では、二人の人物が(服を着
たまま)テーブルに向き合ってコンピュータのマウスを握り
ながら「ワー」とか「ウー」とかうめき声をあげていた。
 しかし、こうした動向とは無関係に、日本の「ポルノ」は、
どんなに粗雑なものでも、性器の部分を隠し(とりあえず黒
丸や画面のボカシで隠しているものさえある)、見る者の
「劣情」をそそるように作られていたようだ。この傾向は、
二〇世紀末になっても変わらなかった。
 おそらく、これが日本の「経済成長」の秘密だったのだろ
う。隠蔽と露出の弁証法は、たしかに「工業化」に向いてい
た。隠蔽し、適度に露出することによって、性欲をかきたて
たり、抑えたりするわけだが、抑えられた性欲は、働く「意
欲」や「体力」に転換されるというわけである。つまり、セ
ックスをコントロールすることによって労働をコントロール
できるのである。  このことは、やがてアメリカが注目する
ところとなり、クリントン政権は、一九九六年、通信法を改
訂し、一九六〇年代以後「自由化」されてきた性表現を厳し
く管理し、インターネットのみならず、あらゆるメディアに
対して隠蔽と露出の弁証法を復活させようとした。言うまで
もなく、これは、日本のつかの間の高度成長に度胆を抜かれ
たアメリカの財界人の一部が、あわてて「日本的経営」を取
り入れようとしたのに似ていた。
  しかし、暴く、晒すということを本質機能とする電子テク
ノロジーと、個々の自立的な単位に依拠するウェブ・テクノ
ロジーが、国家による一元的な管理とは根底から相容れない
ものであり、そのようなことをすれば、このテクノロジーが
もっている本来の機能を発揮できないことは自明である。時
代は、もはや工業化の時代ではなかったからである。だから、
アメリカでは、一年もしないうちに、新通信法の「品位」条
項は、有名無実となってしまったのだった。
 だが、日本の場合は、通信法を改めなくても、すでに厳重
な表現管理が貫徹していた上に、産業構造とセクシャリティ
の関係についての洞察が貧しかったために、アメリカにおけ
る(一時の)性表現規制は、時の権力者たちに妙な自信(
「日本は正しかった」)を与えてしまい、性表現に対するま
ともな対決がなされぬままに、二一世紀を迎えることになっ
た。
  このようないいかげんな対応は、何もセクシャリティの問
題に限られたものではなかったが、とりわけこの問題は、二
一世紀になって、日本の致命傷になったのだった。


3  一九九七~一九九五

  かつて、すべてを知っているのは神だと考えられたが、そ
れは、人間が無知であるかぎりにおいて「真理」であった。
同様に、二〇世紀には、すべてを知っているのはコンピュー
タだとされたが、それは、人間が記憶を放棄し、程度の差は
あれ、記憶喪失に陥ることによって「真理」となった。が、
二〇世紀は、二一世紀にくらべれば、その「無知」の度合い
は、表層にとどまっていた。それは、たかだか知のレベルの
問題であり、まだ感覚や情念の深層にまでは及んでいなかっ
たからである。しかし、注意して見れば、二〇世紀末にすで
に感覚的レベルの根源的変容――無感覚と無情念への――は
始まっていたと考えなければなるまい。 
  一九九〇年代に、電子的な映像技術とコンピュータによる
やヴィデオ処理技術は飛躍的に進み、あるレベルでは人間の
神経システムと同等の人工的身体環境が生み出された。しか
しながら、その「触覚」――インターフェース――として存
在するものは、あくまでもスクリーンやウィンドウ型のモニ
ターであり、「窓」から世界をのぞいている点では、ルネッ
サンスの絵画から何も変わってはいなかったのである。が、
ヴァーチャル・リアリティ(VR)は、単にヴィデオやコン
ピュータのスクリーンを湾曲させたり、球状にしたりすると
いうよりも、もっと本質的な点で「窓」の思想と現実を終ら
せる端緒となった。
 「窓」の思想は、「五感」を前提としたうえで、それぞれ
の知覚器官に三次元の知覚情報をインプットするような幼稚
なやり方をしていたが、これでは、「五感」などという境界
をあっさりと取り払ってしまうドラッグにも太刀打ちできな
いのだった。すでに、周波数の高い送信機の回路で起こる発
振や同調の実に多様な(「神秘的」とすら言える)現象が知
られ、そうした機能を応用した装置がアーティストのあいだ
ではよく使われていたが、一九九〇年代後半になって、よう
やく生身の人間の意識や身体反応に構造的に《感応》する装
置が続々と作られるようになった。
 《感応》は知覚とは異なる。知覚は、それがどんなに「全
体的」に考えられても、それは、依然、個別器官による知覚
の「総合」でしかない。これに対して《感応》は、最初から
「全体的」なのであり、その意味では「全体」という概念そ
のものを無意味にしているのである。
 遠近法的な知覚と「窓」の時代から《感応》とヴァーチャ
ルな身体の時代への移行は、インターネット上で三次元立体
をインタラクティヴに動かせるVRML(ヴァーチャル・リ
アリティ・モデリング・ランゲジ)の普及によって、一般化
した。その際、急速にクローズアップされるようになったの
が、手話であり、やがて、この流れは、二〇世紀には全盛だ
ったキーボードとマウスというインターフェース装置を時代
遅れなものにしていった。
  すでに、一九九〇年代の前半期に手話の流行があったが、
それは、ある意味で、ボランティア活動の流行(これまた
「キャピタリズム」の終末と関係のある現象)の一環(身障
者に対するボランティア活動として手話を習う)という面も
あったが、もっと深いレベルでは、その後に展開する事態の
予徴だったと言えなくもない。
  いずれにしても、VR技術は、手話をラディカルに簡略化
した。それは、手と身ぶりの動きを感知して、その意味する
ところを補完するAIシステムの成熟によって可能になった
のだが、これに関しては伝統的なサイナー(手話を行なう人)
からは強い反発があった。コンピュータに頼らずに行なえた
手話が、コンピュータへの依存を極度に深めることによって、
手話自身の蓄積と文化が壊されてしまうというのがその理由
であった。
  事実、VRの技術と手話との結合によって、コンピュータ
の操作は、簡略化された結果、人々は、キーボード恐怖から
解放される一方で、「裸一貫」で何かを行なう能力をますま
す失うことになった。


4  一九九五~一九九一

  オウム真理教に対する世の批判が昂進するなかで、「身体
離脱」とかテレパシーのような観念がすっかりうさんくさい
ものになってしまったが、それは、必ずしもオウム事件が生
み出した動向ではなかった。「身体離脱」やテレパシーを日
常化する技術がすでに普及しはじめていたために、それらを
売り物にすることが出来なくなったというのが事実である。
  しかし、麻原彰晃の名が初めて知られるようになった一九
八〇年代後半の時代的雰囲気のなかでは、それらは新鮮な驚
きで受け取られた。この時代には、テクノロジーや科学その
ものとしては生半可な「ニューメディア」と「ニューサイエ
ンス」の流行が同時並行的に起こっていたことからもわかる
ように、オカルトや神秘現象は、当時の電子テクノロジーや
電子メディアの生半可な実体を補完する役割を果たしたいた
わけである。
  人間は身体を捨てることはできないが、二〇世紀の電子テ
クノロジーはその身体の「愚鈍さ」(リダンダンシー)を抜
き取ることに秀でているようなテクノロジーである。一般に
電子テクノロジーは、身体性をかぎりなく消去する傾向をも
っている。たとえばコンピュータに向かうと人は、大なり小
なり自分の体が存在しなくなるような意識をもつ。あるいは、
存在しなくなればよいと思う。もっと早くキーボードを叩き
たい。手が邪魔だ。目もモニターに直結してしまえばいい
・・・。そんな意識の果てでは、脳とコンピュータとを一体
化して身体を離脱してしまいたいとう意識が働いている。初
期のヴァーチャル・リアリティの諸技術は、そうした願望の
具体化という側面をもっていたが、まさにそれだからこそ、
あの時代は、これまで以上に「ナマ」の身体性への郷愁が強
まった。
  しかし、「ナマ」が純粋な形で存在した時代などありはし
ないし、現実は、そのつど何らかのテクノロジーの規定を受
けてきた。いつの時代にも、新しいテクノロジーは身体に対
する脅威として出現する。だから、順応がやがて急速に進む
としても、身体に過剰な要求が加わることは避けられない。
新しいテクノロジーの便利さや刺激と引き替えに、われわれ
の身体は、沈黙したままその過重に耐えているのである。
  この忍耐が限度を越えれば、身体の反乱や暴走が始まる。
そして、それらは、一個の身体の不調や病気のレベルを越え
て、社会全体の不調や困難として全般化していく。
  電子テクノロジーの発達によって「われわれは中枢神経組
織を全地球的規模に拡大し、あらゆる人間経験を瞬時に相互
関連させることができるようにな」り、その結果われわれは、
「いまだかつてなかったほど遊牧的になり」、電子的な「地
球村」を形成するというマクルーハンのアーギュメントは、
いまでは小学生の本にすら登場しかねないほど有名だが、マ
クルーハンは、こうした言い方で脳天気なメディアのオプテ
ィミズムを開陳しているわけではなかった。
  それは、彼が『人間拡張の原理』の一つの章のなかでラジ
オについて論じながら、ラジオ・メディアがヒトラーの第三
帝国において果たした作用、すなわちラジオが「世界を村落
的規模に縮め、ゴシップ、噂、個人的恨みといった、飽くこ
とを知らない村落的嗜好をつくり出し」てしまったことを指
摘しているのを見ても明らかである。
 マクルーハンが、それにもかかわらず電子メディアの積極
的な機能を強調したのは、彼の目に映る(一九六〇年代の)
メディアの使われ方が、まだまだ旧メディアの応用の域を出
ていないと感じたからであろう。
  ラジオに関して、「古代の風習や、太古の記憶を復活させ
るものとしてのラジオの影響は、ヒトラーのドイツにはかぎ
らない。アイルランド、スコットランド、ウヱールズでは、
ラジオの登場以来、それぞれの古い母国語の復活をみている」
と言っているように、彼は電子テクノロジーの両面を押さえ
たうえで、戦略的にその積極面を強調したのである。 
 リアリティーのレベルでは、マクルーハンは、むしろこの
両面がたがいに対立しあう状況を想定していたように思われ
る。彼は、『地球村の戦争と平和』のなかで「すべての新し
いテクノロジーは、ちょうど古いテクノロジーが消え去った
後に幻覚痛が引き起こされるように、文化的憂鬱状態をもた
らす」と言っている。「新しいテクノロジーは、個別的にも、
総体的にも、その社会のイメージを乱し、その結果として不
安が生まれ、自己独自性に対する新たな追及が始まる」とい
うわけだ。従って、テクノロジーと戦争とは切り離すことが
できないのであり、またそれだからこそマクルーハンは戦争
の「教育」の側面と「退屈な」側面とを明確にしようとする
のである。 
 こう考えてくると、「マクルーハン的」な世界というもの
は、実際には、キーボードとヴィデオ・スクリーン、電子装
置といったさまざまな人工物の充満した初期SFの世界であ
るよりも、高度の電子装置と廃墟と生身の肉体とが共存・対
立するような世界であることがわかる。 
  マクルーハンは、先の『地球村の戦争と平和』のなかで、
アメリカの「テレビ世代」の若者のあいだでヘルマン・ヘッ
セの『シッダルタ』が爆発的なリバイバルになっていること
を取り上げ、この物語で描かれているのは、「自己否定の苦
行」であり、それは「戦争あるいは教育と同様に、暴力の一
形態であり、自己の内的な領域と限界を発見するためのひと
つの方法である」と言っていた。 
 その際、主人公シッダルタが目指す究極の苦行者「沙門」
の「戦略」とは、マクルーハンによれば、「いかなるテクノ
ロジーによっても侵害されず、したがって、感覚器管にいか
なる入力もなく、だから、経験あるい感覚的《閉鎖》を意味
するようないかなる入力の処理も起こらないような環境を作
り上げることにある」。 
 そのような環境が制度として成立することは不可能である
が、だからこそマクルーハンは電子テクノロジーの発展が逆
にそうした「宗教的」世界への願望と欲求を昂進させるのだ
と考えたわけである。 


5  一九九一~一九八五

 昭和天皇のプレXデイからXデイの時期にマス・メディア
が一斉に「戒厳令下のメディア」になってしまったにもかか
わらず、 日本では、「情報操作」や「支配」という発想が
もはや「時代遅れ」だという風潮が広まっていた。それから
五年もしないうちに、逆に、マス・メディアといえば、ヤラ
セや情報操作や裏取引があたりまえがという通念が浸透して
しまうのだが、当時は、マス・メディアが情報操作をやって
いるなどという発想は、六〇年代流「左翼」の妄想にすぎな
いと思われたのだった。
 もちろん、「平時」には、戦時体制下におけるような一点
集中型の司令本部が情報を操作するという一元的な操作や支
配は存在しない。それは、もっと複雑であり、その力学は偶
然性に富んででいる。が、必要とあれば、メディアは、いつ
でもその「操作」と「支配」を強化できるのであり、普段そ
ういうものがないと見えるのは、まやかしにすぎないという
ことを理解すべきである。
 アメリカのマス・メディアは、通常、日本のそれよりも
「多様」であり、一点集中型の統合的性格をもっていないと
考えられていた。そのなかには、「右」もあれば「左」もあ
り、全体として「公正」さを保っているように見えた。しか
し、湾岸戦争は、そうした一見「多元的」なアメリカのマス
・メディアですら、一夜にして極めて操作性の強いメディア
になってしまう(その結果、「アメリカ国民の八〇%近くが
空爆・地上戦を指示している」という神話が生まれた)かを
見事に示した。
 いつの時代でも、エネルギーとテクノロジーは、あらゆる
システムを規定する。二〇世紀後半の主要なエネルギーは依
然石油であったが、これは、社会の支配的な機能のなかに、
限りない「浪費」を当然のこととする習慣を植えつけた。石
油エネルギーに依存する社会と産業は、巨大な浪費を本質と
する。それは、生活の場面では、エネルギーと物品の消費と
いう形態をとるが、経済の場面では、大きな投資と貨幣のダ
イナミックな流通を強制する。軍備とは、生活を「判断停止」
した危機形態であり、戦争は、浪費経済の極限である。従っ
て軍拡(自国の軍備を増強すること、他国に兵器を売ること)
と戦争においては、生活レベルと通常の経済活動ではもたも
たと続けられる浪費が、極めて劇的に効率よく実行されるこ
とになる。その点では、消費が落ち込み、経済活動が鈍化し
たときアメリカが、戦争を選ぶのは必然であった。
 しかし、ここからレーニン流の「帝国主義論」が帰結しな
いところが皮肉である。石油エネルギーを太陽エネルギーに
転換することによって、この浪費主義を回避することは一九
九〇年代でも可能だったろう。すでに地球環境は、石油エネ
ルギーのために汚染の危機に瀕していた。だが、湾岸戦争で
電子テクノロジーが、それ自身のあらたな目的のためではな
く、爆薬という旧テクノロジーを効率よく作動させるために
使われたように、太陽エネルギーが旧エネルギーの目的論で
用いられるかぎり、浪費主義は一層激しくなり、環境汚染も
いま以上に昂進したはずである。
 すでにアドルノが、第二次世界大戦中に書いた文章(「戦
火を遠くに見て」『ミニマ・モラリア』法政大学出版局所収)
のなかで言っているように、戦争で用いられる最も基礎的な
テクノロジーは、忘却のテクノロジーである。「すでに前大
戦において、人間の肉体が物量戦に適していないために本当
の経験というものが不可能になっていた」と指摘するアドル
ノは、戦争の技術が高度化するにつれて、「健全な忘却と健
全な想起とのあいだの持続」が破壊され、「文字通り誰一人
戦争のことをまともに思い出せなくなる」と警告していた。
 トマホークやSCUDミサイルのようなコンピュータ化さ
れた兵器システムに見られるように、二〇世紀末の戦争は、
ますます人間の「経験」を越えたものになった。つまり、一
方において、戦争を必要としないエネルギーやテクノロジー
の可能性が開かれているにもかかわらず、他方では、戦争の
記憶を残さず、それを繰り返すことを容易にする方向で先端
テクノロジーが機能したのである。



6  一九八五~一九八〇

  メディアにとって、一九八〇年代は、二〇世紀のなかでも
特筆されるべき転換期であった。この時代に登場し、あるい
は普及しはじめたメディア装置を列挙してみても、そのこと
がうかがい知れる。
  ソニーが一九七九年に初めて発売した小型カセット・ステ
レオプレーヤー「ウォークマン」は、音楽とユーザーとの関
係を変えただけでなく、街や車内の雰囲気まで一変させた。
  ケーブルテレビは、視聴者をローカルに限定するとともに、
それまでの地上波テレビの限られたチャンネルを一挙に数十、
数百に飛躍させることになった。
    味気ない抽象的なコマンドではなく、アイコン(絵文字)
の操作で使えるGUI(グラフィカル・ユーザー・インター
フェース)によるパソコン Macintoshも生まれた。
    通信衛星が地球規模のグローバルなニュース番組やテレ
ビ会議でも使われるようになり、視聴者がその電波を直接受
信する衛星放送も始まった。
  レコード店の棚からLPが姿を消し始め、手の平におさま
るキラキラした円盤・コンパクトディスク(CD)にとって
かわるようになったのもこの時期である。この光ディスクは、
やがて、高容量の記憶媒体CD-ROMとして、コンピュー
タの世界でも主要なメディアになっていく。
  また、マルチメディアもヴァーチャル・リアリティもイン
ターネットも、すべて八〇年代に原形が出来ている。
  日本では、この時代、ワープロとFAXが飛躍的にに浸透
した。これらが、日本語の表現、思考、さらにはライフスタ
イルをも変化させてきたことは、いくら強調してもしすぎる
ことはないだろう。
  しかしながら、重要なことは、こうした技術装置の数では
なく、これらのメディアが、時代を世紀単位で方向づけるよ
うな新たな文化によって相互に連関しあっている点である。
  一九八〇年代になって、情報環境の電子化が急速に進む
なかで、七〇年代のシラケ文化を引き継ぎながら、「体を張
る」肉体文化が後退して、ある種の「電子文化」やアンドロ
イド志向が進んだ。それは、一時は、「体を張った」全共闘
世代を「旧人類」にしてしまうほどの勢いであったが、日本
の常として、急速にはラディカルな変化は見られなかった。
「新人類」や「オタク」という名称は生まれたが、その名に
値する電子文化やアンドロイド・カルチャーは随分後まで生
まれなかった。そして、其の代わり、ある種の「肉体」主義
が復活し始めたのだった。オカルト、新宗教、シェイプアッ
プ体操、室内スポーツ、グルメ、そして「いじめ」という
「笑顔のテロリズム」等々の流行が、電子文化を圧しはじめ
た。
  しかし、いまでは、誰の目にも明らかなように、こうした
「肉体」志向は、すべてメディアの媒介を受けたヴァーチャ
ルなものであり、ド根性の肉体主義ではなかった。が、この
時点では、「直接的なもの」、「生のもの」、「フェイス・
トゥー・フェイス」、「実力行使」等々がより価値あるもの、
よりリアリティのあるものとみなされる傾向が強かったので
ある。
  考えてみると、こうした悪循環は、昭和という時代の基本
的性格に属していた。昭和天皇裕仁は、肉体と電子(彼の
「象徴」としての実存は「玉音放送」とともに始まった)と
のあいだを浮遊していた。昭和人が、「肉体人間」に徹する
ことも《電子人間》になりきることもできなくなったのは時
代の趨勢だったのである。 

アサヒグラフ別冊、シリーズ20世紀――4、1996年6月5日発行、pp.155-160