インターネットは、全世界に拡がるコンピュータ・ネット ワークであるが、それがもっている潜在的な力を素直に表示 する言い方としては、「ネットワーク」よりも「ウェブ」の 方がよいだろう。ウェブには、織物、蜘蛛の巣、張りめぐら されたものといった動的な意味があり、完成された回路を思 わせるネットワークよりも、いままさに拡がりつつあるイン ターネットにふさわしい。 しかし、インターネットは、依然としてインター「ネット」 であって、インター「ウェブ」ではない。ウェブになるのは、 むしろこれからなのである。 自発的に網の目のように拡がってきたといっても、それは、 インターネットの回線が増殖したのであって、必ずしもその ネット上で地域や国境を越えた持続的な交流関係が劇的に拡 がったわけではない。そして、今後、使用料金が安くなり、 アクセス方法も簡易になるとしても、それだけでは、そうし た交流がインターネットによって自動的に活気づくわけでは ないのである。 問題は、ハード的な条件よりも、国や地域、言語や文化の 違いを越えて交流しようとする好奇心や熱意である。 しかし、そうした好奇心や熱意があれば、電話とちがって インターネットは、地理的条件や時計時間に制約されない持 続的な協同の「たまり場」をネット上に作ることが簡単にで きる。人は、そこに世界の各地から「立ち寄る」ことができ るし、いやになったらいつでも姿をくらますこともできる。 しかも、その「たまり場」は、別の「たまり場」とたがいに リンクしあい、全体として複雑なウェブを形成することがで きるので、人は、「たまり場」から「たまり場」へのハシゴ をかぎりなく続けることができる。 昔からインターナショナルな都市には必ずカフェやクラブ、 そしてサロンのような「たまり場」があり、そこをハシゴす る遊歩者(フラヌール)がいた。インターネットは、こうし た都市の遊歩者に加えて〈ウェブの遊歩者〉を生み出す。 だが、電子的なウェブには、都市の街路や建造物のような 身体的な抵抗感や重みがない。それは、どこにでも作ること ができ、電子の遊歩者にかぎりないハシゴを許すが、その代 わり、都市の遊歩者がその身体に刻み込むことによって確か なものとする持続的な交流関係は極度に薄い。その分、しが らみからは逃れられるが、そのたまり場への執着が薄いだけ、 その場を維持しようとする熱意も持続しにくい。 バブル経済の終焉とともに空中に消え失せたのは、土地神 話であったが、土地信仰は、「確固とした拠点」という観念 にもとづいている。だから、バブルの消滅とともに、この観 念も危うくなったのであり、実際に、政党、組合、宗教団体、 家庭、学校、会社・・・あらゆる組織体が、その拠り所を問 われるようになった。 他方、インターネットは、「確固とした拠点」という観念 を侵食する性格をもっているので、インターネットの浸透は、 こうした組織体が直面している危機にさらなる油を注ぐこと になるだろう。が、そのことが示唆しているのは、それが危 機であるということではなくて、いまこそ組織体とは異なる ものが必要なのだということである。それを仮に「ウェブ」 と呼ぶかどうかは別にして。 思想の科学、1996年1月号、「ポストバブルの思想論」特集、pp.22-24