ドキュメンタリーと「やらせ」の腐れ縁は、いまに始まった ことではないが、1992年に放映された「NHKスペシャル /奥ヒマラヤ 禁断の王国・ムスタン」ほど、マスメディアの スキャンダラスな話題になった例はなかった。残念ながら、そ こから帰結したものは、例によって、「報道倫理」の再確立や 「社内規制」の強化であったが、この事件には、今日の映像メ ディアが内包する可能性とリアリティの根本的な問題が潜んで いた。 映像の「やらせ」が問題になる場合、映像の出来の悪さや不 完全さからそれが暴露することも少なくないが、「ムスタン」 の場合には、ある種の「リーク」から「やらせ」が暴露した。 映像を見るかぎり、それが「やらせ」であるかどうかはほとん ど判断できないのである。たとえば、有名になった高山病のシ ーンだが、この100秒ほどのシーンを凝視して、それが「や らせ」だと喝破できる視聴者はほとんどいないだろう。それが 「やらせ」だと判明したあとで見なおせば、演出者みずからが 画面に登場し、しきりに(患者を)「降ろしましょう」、「降 ろすしかないね」と言っているのが不自然に思えてくる(最初 からヘリコプターで現地入りすることが決まっていたが、映像 の効果を上げるために、やむおえずヘリコプターを利用したか のようにドラマづくりをした)が、酸素マスクを当てられなが ら苦しげにもだえる「患者」の身ぶりは真に迫っていた。 この「やらせ」に対して、もし視聴者側が、ヴィデオリテラ シイのような批判的意識を身につけるならば、「やらせ」にひ っかかることはないだろうと仮定するのは単純すぎる。このよ うな視聴者批判は、放送局の「倫理」を追求するのと裏腹のも のであって、決して根本的な解決にはならないのである。それ よりも、この「やらせ」問題が示唆しているのは、今日の映像 テクノロジーが、うそ/ほんとによって構成される二元論的な 真理を無効にしてしまったのだということを出発点にしなけれ ばならないということなのである。 * オウム報道は、1995年4月23日、ついに教団幹部の暗 殺現場をテレビで映し出すところまでエスカレイトした。しか し、被害者が料理包丁で何度も刺され、血を流して倒れるその シーンは、局によって撮り方が異なるさまざまなヴァージョン を見ても、どこかドラマっぽい印象を与えるのである。実際に 人が殺され、一人の生命が代償になっているそのシーンが、非 常事態とはいえ、決して手抜きとは思えない撮影体勢にもかか わらず、何かウソくさい感じをまぬがれないのである。これは、 F1のレース中に競技場の壁に激突して死んだセナの事故シーン に関しても同様だった。また、時代をもっとさかのぼれば、文 字通りのライブで放映されたロバート・ケネディの暗殺場面も、 映画ドラマの一シーンよりもリアリティがなかった。 * テレビは、クールなメディアなのだからという説明は、聞き あきている。映画にくらべてテレビの画面が小さいということ は、リアリティの質を量に還元して説明しようとする俗論にす ぎない。問題は、今日のリアリティの質に関わっている。明ら かに、リアリティの質が変わりつつあるが、それはまだメイン ストリームにはなっていない。その結果、テレビは、ある種の 逆リアリティのメディアすなわち、ある出来事の深刻さをあい まいにし、うやむやにする文化装置 [cultural appatus] とし て利用されるようになる。そして、このようなメディアがます ます環境化し、管理や教化やコントロールの装置であることが わからないほど「自然」なものになってくるとき、そのような テレビを「無意識の植民地化」[colonizing of the unconsciousness] や「身体性の剥奪」とかいったクリシェで批判しても、批判し たことにはならない。 * カメラが被写体を「模写」するというのは、近代という時代 のカメラ・テクノロジーに対応した単なるメタファーであり、 便宜的な単純化にすぎなかった。確かに、これまでのカメラは、 その映像を被写体とは無関係に変更することはできなかった。 だから、特撮やSFXとは、それらの原語である special effect という言葉が示唆するように、何かに対する「効果」であり、 その何かとは、カメラの前に実存するオブジェ、被写体であっ た。手を延ばせば身体的に知覚可能な存在者としてのオブジェ があり、それに対して効果を加えることが特撮なのである。し かし、特撮は、次第に、カメラの《外部》においてではなく、 映像そものものなかで起こされるようになり、いまや、撮影さ れる被写体が全く実存しない映像が登場しはじめたのである。 ここでは、被写体を基準にして、うそ/ほんとうを云々するこ とは不可能である。 * ウディ・アレンの『カメレオンマン』[Zeilig] の主人公ゼイ リークは、実体的な身体を持たない。そのため、彼をとりまく 雰囲気や状況次第で、どんな人格にもなりかわる。『カイロの 紫のバラ』[The Purple Rose of Cairo] にも、重みのない身 体の持ち主が登場する。彼は、タイトルと同名の映画の登場人 物なのだが、ある日、この映画を何度も見に通っている観客 (ミア・ファーロー)に興味を持ち、スクーリーンを越え出て、 こちら側の世界に来てしまう。むろん、現実には(身体世界で は)起こり得ないことだが、映像と「現実」との関係を考える インデクスとしては、ブリリアントなひらめきに富んでいる。 おもしいことに、映画のなかから抜け出してきたこの人物は、 セックスと金に全く関心がない。というのも、セックスは、き わめて身体的なものであり、貨幣とは、身体=労働を《参照の 極》(refering pole)として成立しているものであり、もともと 身体性を欠いているこの人物には無縁のものだからである。 * 映像や貨幣を《参照》することはできるが、それらとセック スすることはできない。しかし、近代の映像技術と資本主義経 済は、あたかも映像や貨幣が身体になり代わるかのようなドク サ [doxa] のもとで動いてきた。そのため、近代のテクノロジ ーは、逆説を自ら体現することになる。そして、近代の終わり にまたがる半ポストモダン・テクノロジーである電子テクノロ ジーにおいては、この逆説がピークに達する。というのも、電 子テクノロジーは、現前し、いつも〈ここに〉表象=再現前さ れる身体の神話性をあばき、その実体を消去することが本来の 特性であるにもかかわらず、そのことを悔やみ、やがて、それ 自身の方法によってその喪失を取り返そうとするからである。 表象=再現前される身体に代わる新たな〈いまここ〉を隠蔽す るために、レトロとポストモダン美学と電子テクノロジーとが 馴れ合う。 * 近代主義的な動向の延長線上で考えられたヴァーチャル・リ アリティの技術は、それまでの電子テクノロジーによって〈初 期化〉[initialize] された身体を再構築しようとする。それは、 ある種トリックの方法で行われる。従来、身体の人工的再構築 は、身体と同等の存在者を構築しようとしてきた。ロボット、 サイボーグ、アンドロイド。が、VRは、そうした存在そのもの においてではなくて、存在についての意識のレベルで同等性を 獲得しようとする。身体は、同じ肉の組成を保持しながら、意 識を人工知能にすること。なるほど、これならば、稚拙な映像 でもリアリティを生み出せよう。感覚が変わってしまえば、ジ ャンクフードもグルメ料理である。実の所、これは、一面で、 ヴァーチャル・リアリティの脱近代的 [transmodern] な可能性 を示唆してもいるのだが、VRテクノロジーの開発者たちは、あ えてそのような可能性には目をつぶろうとする。もっとも、そ うでもなければ、この技術は、近代の慣習的な枠組みのなかで はおさまらなくなってしまうだろう。「器官なき身体」[body without organ]の逆説と陰謀。 * 今日の手術は、次第に、患部を医者が直接知覚するのではな く、モニター・スクリンを通じて行われるようになりつつある。 医者は、患部に挿入されたマイクロ・カメラが映し出す映像を 見ながらメスを動かすのであり、さらには、メスと医者の手と のあいだが、無線/有線のリモートコントロール装置によって 隔てられていることもある。テレメディシンは、もはや実験段 階を終えている。だから、手術の教育用ないしは実験用の装置 として、内臓のあらゆる手術をモニター画面上でシミュレート できるヴァーチャル・メデシンのシステムが開発されている。 * ヴァーチャル・メデシンが普及するにつれて、人は、身体の 直接的知覚を重視しなくなる。といっても、このことは、第1 次的な [premier] 知覚をその第2次的な [secondary] 知覚で 代えるといことを意味するのではなくて、第1次的知覚という ものそのものが無意味になることを意味する。というのも、世 界は、いまや、シミュレートされ、操作されたヴァーチャルな 現実によって構成される部分が多くなり、われわれは、まずそ のような世界を知覚するようになりつつあるからである。が、 問題は、こうした動向を推進しているとされる「進んだ」メデ ィアやコミュニケーション・テクノロジーに対する批判の方向 である。マルチメディアやインターネットは、人と人との関係 を遠ざけ、フェイス・トゥ・フェイスの関係を希薄にし、映像 の見過ぎは、人を離人症 [depersonalization] にしてしまうと いうわけだが、これだけではラダイトに向かうしかない。 * 『バーチャルウォーズ』[Virtual Wars] のなかにおもしい場 面がある。主人公は、コンピュータで構築したサイバー・スペ ースと人間の脳とを連結できるようなヴァーチャル・リアリテ ィのシステムをつくりあげ、自分でもヴァーチャル・スペース の浮遊に夢中になっている。例によって、ある日、天井から釣 り下げたフロジストン・チェアー[Flogiston Chair](このソフ ァーは、その使用者を宇宙遊泳の状態に近づけるという)の上 に寝そべり、VPL社のHMDをつけてヴァーチャル・スペースを浮 遊している。そこへ、いっしょに住んでいる彼のガールフレン ドが、ぷんぷんした様子で近づいてきて、いきなり装置のスイ ッチを切ってしまう。そして、「落ちて、浮いて、飛ぶの? その次は何? ファックするの?!」[falling, floating, and flying? What's next? Fucking?] と罵る。そういえば、ダ グラス・トランブルの『ブレインストーム』[Brainstorm] に は、実験室の装置でVRセックスに耽り、身を滅ぼす初老の学者 が登場していた。 * しかし、こうした電子テクノロジー批判は、この技術のポテ ンシャルを少しも洞察していないように思う。電話や衛星通信 が普及し、さらにはマルチメディアのインターネット通信が浸 透するにつれて、メディアの上だけの人間関係がフェイス・ト ゥ・フェイスの関係を上回るようになるのはあたりまえであり、 だからといって、人間が身体を喪失するわけでもないし、アン ドロイドになってしまうわけでもない。そんなレベルの話であ れば、クロネンバーグの『ヴィデオドローム』の方がはるかに 洞察力にあふれていた。そこでは、ヴィデオが「新しい肉」 (new flesh)と呼ばれていたが、これは、メルロ=ポンティが『 見えるものと見えないもの』[The Visible and the Invisible] のなかで論じた「肉」(chair)にまで関連づけられる。電子テ クノロジーの浸透のなかでは、むしろ、これまで「身体」や「 肉体」と呼ばれ、一つの「聖域」とされてきたものが脱神秘化 されはじめているのである。そして、その「身体」の向こう側 に、われわれは、久しく近代哲学の慣習のとばりに覆われてい た〈いまここ〉をとりもどす可能性がある。いま、こうしたテ クノロジーからひそかに呼びかけられているのは、その技術へ のこれまでとは異なる対応なのである。 * ハイデッガーは、『存在と時間』のなかで、アリストテレス以 来、存在論が、〈いまここ〉(Jetzt-hier) つまり「いま」とい う時間と「ここ」――目の前に現前するかぎりでの空間が基準 になっていることから出発し、「西欧形而上学の転倒」の作業 に進んだ。そして、彼は、マルクスが、『ドイツイデオロギー』 の断片のなかで、「現状を止揚する現実の運動を、コミュニズ ムと名づける」と言っていたことを十分に予知していたが、し かし、のちにガタリとネグリが『自由の新たな空間』[英訳タイ トル:Communists Like Us] で行なったようなやり方でこの〈 いまここ〉を「近代形而上学」のなかから救い出すことはでき なかったし、する気もなかった。ベンヤミンは、ハイデッガー を仮想の敵としたのも、この問題と関連がある。『歴史哲学テ ーゼ』で論じられている〈いまここ〉からガタリ/ネグリをへ て、ハキム・ベイのT.A.Z. (Temporary Autonomous Zone) に 至る道筋には、評議会運動からパリ5月、シチュアシオニスト の運動から70年代のイタリアのアウトノミア、そしていまイ ンターネットのなかで起こりつつある〈ウィーヴィング〉 [weave] の諸活動が、まさに、「ミシンとコウモリ傘との手術 台の上での突然の出会いのように」リンクされ、ウィーヴされ なければならない。 * ラテン語の imagoに由来する image (映像)は、語源的に imitateとも類縁関係を持っている。そして、その分だけ、近 代の慣習的な思考は、映像を「現実」の「虚構」や「模倣」と 解してきた。しかし、imagoの積極的な意味は、今日のimagoと いう英語に残っている意味、つまり「成虫」のなかにわずかに 残されている。これも、近代のフィルターがかかった思考によ れば、「成虫」とはその虫のイデアの実現されたものだという ことになる。しかし、ドゥルーズの『差異と反復』[Difference and Repetition] 以後のわれわれにとっては、イデアとは、 〈いまここ〉の内在的な一貫性 [immanent consistency]である。 従って、imago (映像/成虫)とは、来たるべき未来のために 設定された理念や形式の実現ではなくて、内在的な一貫性のな かで突然変異的に起こる〈リコンビナント〉[recombinant] な 出来事[event]なのだ。映像が《参照》する「現実」は内在的 なのであるが、近代の(しばしばデカルトに帰される)発明は、 この《参照の極》を、手をのばせば触れることのできる身体的 な無言の「現実」に求めたことだった。近代とは、こうした 《参照》関係の、ある安定した長持続 (long duration) の名 称にすぎない。いまや、その「幸福」な関係が完全に崩れよう としている。映像は、必ずしもそのような「現実」を《参照》 しないで済む方法を見出したからである。 * ワルター・ベンヤミンは、映像を「機械的複製」[mechanical reproduction] のテクノロジーとの関連で考察したが、それは、 彼がフィルムのテクノロジーが優勢な時代の思考者だったから である。が、映像がフィルムからコンピュータの手に引き渡さ れるとき、映像は、もはや複製をその思考のパラダイムにはで きなくなる。なるほど、コンピュータは、無限数の映像を複製 可能である。そこでは、オリジナルは無効になる。しかし、 オリジナルのない複製とは、複製のパロディであり、複製とい うことの意味を露呈させるとしても、複製という機能を無意味 にする。そのような複製は、もはや複製ではない。 * ジャン・ボードリアールは、「シミュレイションとはオリジ ナルのない複製である」と言ったが、シミュレイションは、な るほど、複製よりも今日的な概念である。複製は、依然として 起源に執着しており、その起源は、究極的に「世界のゼロ点」 としての身体なのである。これに対して、シミュレイションは、 身体からかぎりなく遠ざかろうとする。シミュレイションにと っては、つねに暫定的な起点しかない。もし、シミュレイショ ンによって構築された映像が、現実に(身体世界に)実存する オブジェと類似したとしても、それは、むしろ偶然にすぎない。 しかしながら、コンピュータは、それが複製装置でないと同程 度にシミュレイションの装置でもない。そしてVRも、決して 「シミュレイター」ではない。シミュレイションという概念は、 依然として起源コンプレックスをいだいている。 * コンピュータによって無数に複製される映像で重要なのは、 その複製性ではなくて、リコンビエントな《参照》性である。 コンピュータの機能は、複製のシステム化ではなくて、《参照》 のシステム化なのだ。その複製的機能は、その《参照》的機能 を単一化したものにすぎない。記号論は、映像のなかに《参照》 のシステムを見出したが、その「外部」を単に括弧に入れて放 置しただけだったので、決定的な解決つまりは近代を越える地 平に達することができなかった。コンピュータは、当初、その ような理論を実践的なものにしたにすぎないように見えたが、 実践の常として、それはすでに理論を越えていた。アラン・チ ューリングは、記号の方からコンピュータを考えるのではなく、 可能的なコンピュータ(チューリング・マシーン)から記号を 考えることによって、記号論の限界を越えた。コンピュータは、 すべてを同じ次元に引き寄せるが、それは、世界を一次元的に 同一化するためではなくて、世界を《参照》関係として組み替 えるためである。その関係は、映像内のシンタックス的なコー ド関係から映像「外部」の社会的・歴史的・文化的等々のさま ざまな係数を持った諸関係にまで及ぶが、それらを統括する決 定的な係数や中心点は決して存在しえないから、《参照》関係 から生まれるリアリティは、つねにヴァーチャルなものとなる。 * 生命体を「オートポイエシス」[autopoiesis] つまり「決定 論的で相対主義的な自己言及する自律的システム」として再定 義したウンベルト・R・マトゥラーナとフランシスコ・J・ヴ ァレーラ [Humberto R. Maturana, Francisco J. Varela] は、 「認知の生物学」[Biology of Cognition]のなかで、「言語は、 情報を送信するのではなく、その機能的役割は、参照の共通枠 の発展を通して話す者同士のあいだに協同的な領域を創造する ことである」(河本英夫訳)と言っているが、このアーギュメ ントは、映像にもあてはまる。映像によるコミュニケーション を規定するのは、「模写」される「現実」に忠実であるかどう かではなくて、映像が生み出す「参照の共通枠」である。マス メディアは、この「参照の共通枠」を慣習化することに加担す るが、映像の実験は、慣習化した「参照の共通枠」を解体し、 たえずこの「参照の共通枠」を組み直す。重要なことは、「知 覚は、外的現実の把握としてではなく、むしろ、外的現実の明 確化・特殊化と見なされるべきである」[perception should not be viewed as a grasping of an external reality, but rather as the specification of one] ということだ。 * テレビのニュースキャスターが、路上でいきなり視聴者から あいさつされたときとまどうのは、彼や彼女は、その相手を身 体的なレベルでは知らないからであるが、視聴者にとっては、 逆に、身体的レベルでの知覚がメディアによる知覚に優先され、 身体的知覚も、メディア的知覚の延長線上に位置づけられる。 ここで、視聴者の「単純さ」を笑うのはまちがっている。視聴 者は、マスメディアに「マインド・コントロール」(オウム事 件とともに普及した時代遅れの言葉)されてボディスナッチャ ーかゾンビにでもなってしまったというのだろうか? どんなにテレビに淫した視聴者でも、身体を喪失することは ない。問題は、むしろ、身体の異なる位相のあいだで起こって いるのである。映像を通じて知っているということと、「直接 的」な知覚を通じて知っているということは、同じことではな い。テレビに出演しているニュースキャスターは、視聴者の顔 を知らない。しかし、彼や彼女らは、あたかも万人を知ってい るかのようにしゃべっている。言い換えれば、彼や彼女らは、 万人を〈知っている〉。ただし、この〈知っている〉は、わた しやあなたが隣人を知っているというのとは異なるレベルに属 する公共性である。とはいえ、そうだとしたら、視聴者が、そ のニュースキャスターを見て、親しげな態度をとるのは当然で ある。要するに、この〈知っている〉は、《参照》[reference] のレベルの出来事なのである。 * 《参照》のレベルの出来事は、今後ますます慣習化していく。 いま、それが「うそっぽい」と感じられるとしても、それは、 いずれ「リアル」すぎるものとなるだろう。恋人フェリーツェ に対して極力手紙だけの関係を持とうとしたカフカは、彼の時 代(1910年代)には、特殊であり、またそのためにユニー クであった。しかし、インターネットに時代には、むしろ、こ うしたエートスが普通になる。だから、逆に、インターネット のような、人との直接的出会いを省略させるメディアを、逆に、 出会いを省略するメディアとしてではなく、積極的な出会のメ ディアにすることが、少なくともこの過渡期には意味をもって くる。《参照》の〈ウエブ〉をより多形的 [polimorphous] で複雑なものにすること。 イヴァン・イリイチは、すでに 1970年に、「ネットワーク」の代わりに「機会のウェブ」 [oportunity web]という用語を用いる提案をしていた。 * VRテクノロジーは、依然として、「現実には存在しない」 「仮想空間」を構築する技術とみなされることが多い。しかし、 それは、この技術を近代主義的な思考の枠でしか見ていない発 想である。VRは、本来《参照》の装置であるコンピュータが、 ようやくデータ「処理」[processing] 装置という近代主義的 な拘禁服を解かれてはじめてその本性を具体化したものなので ある。コンピュータをデータ・プロセッシングの装置とみなし ているかぎり、コンピュータは、複製装置としてのレベルを越 えることができない。データ・プロセッシングとは、データを 高速に複製し、データ同士を比較処理することにほかならない からである。 * VRテクノロジーは、コンピュータの別の側面を使う。考えて もみて欲しい。年々向上するVR技術は、やがて、「本物そっく りの現実」を作り上げるところまでいくだろう。かって、ジョ ン・ケージは、「私達がテレビの画像と現実の光景の違いを忘 れてしまうほど技術が進歩してしまえば、テレビについてもは や考えられなくなるでしょう」(『ジョンケージ 小鳥たちの ために』)と言ったが、VRの場合も同様である。しかし、むし ろそのときこそ、テレビもVRも、現在押しつけられている複 製機能を離れて、《参照》の機能に専念できるようになるだろ う。そして、それらは、異なる「現実」をすべて「似たもの」 としてではなく、逆に、一見「似た」ように見えるもののあい だに微妙な差異をかぎりなく見出すインターフェイスとして用 いられるようになるだろう。 * 映像は、これまで、遠近法と《窓》にしがみついてきた。VR は、こうしたしがらみに決着をつけうる。VR があつかう画像 は3D画像だが、現在のVRはまだ、3D画像は《窓》という枠 のなかに捕らわれている。遠近法によらない映像の知覚。ウイ ンドウ・スクリーンを使わないインターフェイス。3D画像と われわれの〈身ぶり〉とがヴァーチャルにシンクロナイズする 〈感応〉[resonance]のインターフェイス。これらは、夢の技 術ではなくて、生身の、〈いまここの〉身体にかぎりなく近づ く技術であり、現状の技術に対する明確な批判と技術政治 [techono-politics] にもとづいてのみ可能である。従って、こ うしたメディア・テクノロジーは、現存する映画やヴィデオと は異なる形態の表現や形式を生み出すことになるが、だからと いって、映画やヴィデオが消滅するわけではない。むしろ、そ れらは、このメディアによって再構成されるのであり、遠近法 に代わる《参照》、窓に代わる全方位的なインターフェイスを それなりのやり方で受け入れ、その内部から自己変容するので ある。 アーロン・ジェロー編 DOCUMENTARY BOX #8 (日本語版) 1995年10月3日 p1~5