矛盾の根源

 
 天皇は、日本国家と日本国民統合の「象徴」である、と日本
国憲法は規定している。しかし、いまどき「象徴」がなければ
存立できない国家や「象徴」によって「統合」されなければな
らない「国民」というのは、何とも幼稚でなさけない存在では
ないか?
 そもそも、生身の人間が「象徴」になるということ自体が矛
盾したことであって、一旦「象徴」にされてしまった人間は、
政治活動はむろんのこと、生身の人間に与えられた権利や能力
の大半を捨てなければならない。天皇が「象徴」に徹するなら
ば、天皇は、稼働している制度や歴史のなかから通常は忘れ去
られた存在になるしかないはずなのだ。
 それにもかかわらず、天皇は、「国事行為」という立派な政
治行為を行っており、諸国訪問というレッキとした外交行為に
加担している。そして、ここから、日本の政治から経済、国家
から家庭までのあらゆる場面に見出される矛盾が日々複製され
ている。
 この矛盾にはいまや多くの人々が気づいている。ひょっとす
ると、天皇制に反対している人以上に、この矛盾を痛感してい
るのは、既存体制に深く関わっている政治家や企業人の方かも
しれない。とりわけ、諸外国との折衝や取引に身を置かざるを
えない者のばあい、その矛盾に直面する度合いはいちじるしい
からである。
 たとえば、いまたまたま手にした、『OCSNEWS』(6
月24日号)というニューヨーク在住の日本人向けの新聞に、
大前研一がニューヨークで講演して、日本の景気の後退の根源
は、「永田町という狭い中央政治の単一価値観」であり、この
「戦後50年間」の構造を変えなければならないと言ったとい
うことが載っている。
 また、同じページに、元日航常務の藤松忠夫が、「日本も十
ぐらいの国(州)に分けて連邦にすればいい」と書いている。
「細川さんは規制緩和と抜本的行政改革という最重要な課題を
残してやめられたが、九州共和国ができればこの問題[「熊本
でバスの停留所を百メートル動かそうとすると、中央官庁の許
可を貰わなくてはならない。こんなバカなことをやめさせたい」
と細川が言ったという]は解決する」、と。
 しかし、こうした「バカなこと」の根源が天皇制にあること
については大前も藤松も言及しようとはしないし、天皇制を廃
止しなくても問題の解決が可能だと考えているようだ。
 この新聞の第一面のトップに、「天皇皇后両陛下ニューヨー
クご訪問」とあり、「各地で大歓迎を受けながらの天皇皇后両
陛下の訪米の旅」と書かれている。
 しかし、今回の天皇・皇后訪米には、アメリカのマスコミは
随行の日本側マスコミが驚くほど冷淡であり、また、各地で、
戦中の日本の侵略行為に対する抗議デモがあった。
 わたしがインターネットで受け取ったニュースによると、天
皇と皇后がサンフランシスコのアジア・アート・ミュージアム
で開かれたディナー・パーティにやって来たときにも、600
人以上の人々が、口々に「ウソは沢山。正直に言ってほしい」
と抗議の叫びをあげ、警官隊はその姿を天皇・皇后の視界から
隠すのにやっきとなったが、その抗議の叫びを隠蔽することは
出来なかったという。
 が、こうした事実がありながら、それを正しく報道できない
のが日本のマスメディアなのであり、天皇制を廃止しないでは
共和制などありえないのに、そのことには触れず、どこかにあ
いまいな不可織領域を作っておかなければ何ごとも進行しない
のが、日本の組織と制度なのである。
 職業政治家は、選挙区制よりも、天皇制の廃止についてとく
と考えなければならない時期にきている。

情報センター通信、152号、1994年6月30日発行