権力について書こうとしながら無為に数日が経過している。 それは、今日の権力が複雑で見えにくいからではない。むしろ、 権力そのものを無化すること、権力自体が存続できなくなるよ うな条件、権力の空気を抜くことを問題にしなければならない とき、果して「書く」という方法が適切であるかどうか、わた しが迷っているからである。 書くという方法、とりわけいまわたしがここでやっているよ うに論述調で書くということは、極めて〈権力内属的〉な方法 であるかもしれない。わたしは権力について書くことによって、 権力の空気を抜くどころか、権力を増殖させているにすぎない かもしれない。 権力とは、わたしたち一人ひとりが逃れがたく関わっている 綱引き運動のようなものである。みながそのロープを引っ張れ ば引っ張るほど全体の緊張が強くなるが、問題は、それが綱引 きのロープのように直線状をなすとはかぎらないことだ。 そのロープの引き手が二方に分かれ、「敵」と「味方」、 「権力」と「反権力」、「右翼」と「左翼」といった非常に明 快な対立運動を起こすこともたまにあるが、大抵は、ロープの あちこちに強度の違うさまざまなループやもつれができ、ロー プが全体としてどの方向に動いていくのかがはっきりしない。 誰かがロープを強く引っ張ることが動きの発端であることは 確かだが、別の誰かが別の方向からロープを強く引っ張るため にその動きが相殺されてしまうこともある。このとき、権力は 一見、それがあたかも存在しないかのような中間状態のなかに 身を隠す。むろん、それは、権力の消滅ではなく、権力の自己 隠蔽にすぎない・・・。 このような記述なら多少はマシだろうか? だが、こうした 記述の機能は何だろうか? それは、幾分でも権力の空気を抜 くことに通じるのだろうか? ハイデッガーのニーチェ論やドゥルーズ=ガタリの「権力」 論を読むことは、つかのま権力からの解放されたかのような気 分に陥らせてくれる。少なくとも、そうした経験のさなかには、 わたし個人のレベルで権力の空気が抜かれる瞬間があるのだろ う。そして、その経験は、幾分手のこんだ権力装置の仕組みを 見抜く(つまり、そこから脱することはできないにしても、そ れに対して批判的な距離をとる)ことを可能にしてくれるのか もしれない。また、極めて些末なレベルで自分が知らぬまに 「権力」を行使したりするのを防いでくれるかもしれない。 しかし、その一方で、「権力の暴挙」がくりかえされ、それ はとどまることを知らない。精緻な権力論が人口に膾炙しても、 権力の無化は一向に進まないばかりか、逆に、権力をよりした たかなものにしてしまうかのようだ。実際、権力は、権力を隠 蔽する最も巧みな方法として、さまざまな場面に、たがいに相 殺しあうモメントをつくることを知っているし、その技術的条 件は確実に「進歩」している。多元主義、価値の多様化、ロー カリズム、分権主義は、電子テクノロジーと手をとりあってそ うした操作を行使している。 湾岸戦争、朝鮮人慰安婦、PKO法案の可決強行・・・とい った「権力の暴挙」は、幾分アドルノ的な言い方になるのを許 してもらうならば、反権力の反対にもかかわらず実行されたの ではなく、反対を予期した形で実行されたのである。あれだけ のことをやって反対を予期しない者はいないというだけではな く、これらの問題が反対勢力とセットになって生み出している 要素のなかにこそ権力の実質があるということである。 少なくとも今日の権力は、このことを承知しないでは起動し えない。PKO法案の究極目的は「国連平和維持活動」を「円 滑」に行なうための手続きにすぎないわけではない。法案可決 の「暴挙」を直接実行した「権力主体」を特定することは可能 だが、それらを「糾弾」するやり方は、権力のプログラムにす でに書き込まれている。権力主体とは、つねにある種の「かか し」にすぎない。それが倒されても、権力自身は生き残る。だ から、権力への「闘争」は終ることがない。闘争を続けようと する構えがあるかぎり、拮抗しあう一組の権力主体が〈措定〉 され続けるからである。 だから、PKO法案は、誰しもが日本の政治に馬鹿くさくな るような状況、政治への失望と無関心を普遍化することをより 本来的な目標にしていると考えるべきである。このミクロな操 作の勢いをそぐことができるのは、失望と無関心へのアンチで はなくて、それらの悪意ある過剰化である。 しかし、いままでかつて、「大事件」をテレビや新聞のマス メディアが意図的に悪意ある無視を行なった例は少ないい。マ スメディアのなかには、言葉や身ぶりの上でその「暴挙」に異 議をとなえるポーズをとったところはある。しかし、それらは、 どのみち「報道」するということによって政治的シニシズムの 再生産に貢献してしまった。 権力はつねに型を重んじる。だから、われわれが、型に執着 し、「ええ格好」をしようと思えば思うほど、権力の機構に深 くまきこまれることになる。 論述というものは、その意味で、格好がよすぎる。「盛り上 り」のよい反対集会やデモも最悪である。行動をふるいたたせ るような映像や言語も権力に内属している。政治に感動や共感 は危険だ。が、どのみち納得を前提にしている論述文は、中立 的な風貌をそなえているだけ余計に危険かもしれない。 マスメディアや「批判的」な論述とならんで、日々権力を内 側からミクロに増殖させている権力機械は学校である。わたし は、論述の世界で権力に奉仕しているだけでなく、学校という 権力機械にも内属している。 最近、大学の教室でこんなことがあった。教室に行き、講義 を始めて数分もしないうちに、二人の学生が席を立ち、うしろ の出口から出て行こうとした。瞬間、わたしは動揺し、自問し た。 〈自分はそんなにつまらないことを言っただろうか? なぜ 彼らは、わたしの数十語ですべてを判断したのか?〉 が、瞬時にその答えは出ず、わたしは彼らにたずねた。「聴 講する気を失うようなことを言いましたか?」 自分の意識を分析するならば、わたしは、明らかに自分を抑 えていた。欲望の一部には、〈おれがしゃべりはじめたばかり なのに、おまえたちはどうして出て行くんだ!〉という怒りが あった。これは、学生を支配したいという明白な「権力への意 志」である。 だが、学生の答えはそうしたわたしの意志の空気を抜いてく れた。その一人がこう答えたからである。 「いえ、会おうと思った友だちがいなかったので・・・」 彼らは、たまたま友人をさがしにやってきたわけではない。 彼らにとってこの教室は、最初から、講義を聴く場所ではなく て、友だちに会う一種のサロンだったのだ。出て行こうとした のは、この日は、この場所をそのような目的で使うことができ なかったからである。 皮肉なことに、これは、わたしにとって意外なことではなか った。というのも、わたしは、かねがね教室というスペースの 中央集権的な構造を指摘し、講義の際に学生が教師の話を一方 的に「拝聴」するのはおかしいということ、学生は、その場を 自由に、自発的に〈使用〉すべきであることをとなえてきた。 このクラスでも、たしか四月の開講時にこの趣旨のことを述べ たように思う。「学生ほどおかしな存在はありません。お金を 払って出席というタイムレコーダーに管理され、課題や試験の 強制された情報労働につとめるのですから・・・」とも言った。 その点では、問題の学生は、教室の権力的構造を異化したの であり、大学の権力装置に外部の空気を注入したのである。 もう一つの皮肉は、わたしがこの講義で、普通の意味での講 義形式を採用していないということである。わたしは、この時 間にしばしば学生と映画を見る。映画について解説めいたこと をするときもあるが、むしろ経験の共有を多くもとうとしてい る。その際、中央の権威主義的な教壇は使わない。また、天気 のよいときは、外に出て、散歩をしながらおしゃべりをする。 この日も、あと一、二分しゃべったら、映画を上映する予定だ った。要するに、わたしは、この講義で、大学=権力装置とし ての機能を極力薄くしようとつとめてきた。 従って、二人の学生の行動はわたしの欺瞞を暴露した。すで にわたし自身が書いたように、権力は遍在しており、その網の 目を逃れることはできない。そして、それを「誠実」に改めよ うとするような行為は、結局、より手のこんだ権力操作を起動 させてしまう。わたしのやり方は、大学=権力装置を隠蔽する ソフトな管理方法の一つにすぎなかったのである。 が、そうだとすると、大学=権力の空気を抜くにはどうすれ ばよいのか? だが、権力の顔はいくらでもすげかわる。 かつてワルター・ベンヤミンは、「あとをくらませ」という リフレーンをもつブレヒトの「都市住民のための読本」という 詩を引用しながら、「披搾取者階級のための戦闘者は自国のな かでの亡命者だ、ということを忘れてはならない。・・・潜在 的亡命は本格的亡命の先行形態だったが、非合法活動の先行形 態でもあった」、と書いた。 権力のただなかで「亡命者」でいるというテーゼは、少しも 新しくはない。しかし、権力の技術はたえず更新されていると しても権力それ自体は少しも新しくはならない以上、「亡命者」 でいるということは依然として、権力の空気を抜く有効な方法 であり、そのような「亡命者」であることの技術は依然、更新 の余地がある。 はてさて、わたしは、論述のディスクールに対して疑問を提 起しながら、ここまで書いてしまった。が、ブレヒトは、前述 の詩のなかで、「きみの考えを他人がしゃべったら、きみの考 えとは違うと言え」と言っている。わたしも、この論述に対し て「亡命者」をきめこもう。権力なんて知らないよ。 思想の科学、1992年7月号、pp.4-7