近代ヨーロッパの不滅の欲望 ミラン・クンデラをめぐって

[原稿]

人間の脳内に磁気物質が存在し、それが外部の磁界と反応しあっていることは、すでにジョゼフ・カーシュヴィンクらの研究によって実証されているが、いつの日か、その脳内磁気を細かく、しかも遠距離から感知するセンサーが開発されるかもしれない。

そんなセンサーをランドサットのような観測衛星にとりつけて、地球表面をスキャンしてみると、スクリーン上にいくつかの色別ゾーンが表示される。緑色のゾーンは創造的な変化が持続し、文化的に活気づいている地帯、赤色は殺気と憎悪でいっぱいの頭脳をかかえた人々が集積している地帯、青色は沈滞と憂鬱の感情が感知される地帯である。 一九九二年五月現在、スクリーン上には、依然として赤色と青色のゾーンが目立つが、緑色の光度が一番強いのは東ヨーロッパである。

実際、今日の東ヨーロッパの情勢は、経済的には問題だらけだとしても、文化的には活気づいている。最近、日本でも評判になっているラース・フォン・トリア監督の『ヨーロッパ』やスティーヴン・ソダーバーグの『カフカ 迷宮の悪夢』はそうした状況を暗黙の《参照点》(レフェレンス)にしているし、銀座セゾン劇場で上演されたスティーヴン・バーコフ演出の『審判』にも東ヨーロッパから吹き抜けて来る微風を感じた。

だが、こうした動きを単なる一過性のトレンドとしてではなく、もう少し射程の大きな歴史動向の一つとしてとらえようとするとき、これらの映画や舞台よりもはるかに示唆的なのはミラン・クンデラである。

クンデラへの一般的な関心は、日本では比較的新しいが、すでに六〇年代に紹介されている。わたしがクンデラという作家の存在を知ったのは、戯曲『鍵の所有者』(『線路の上にいる猫=現代チェコ戯曲集』所収、思潮社、一九六九年)を訳した村井志摩子さんからだった。この作品を博士論文で扱った村井さんは、彼がフッサールやチェコ構造主義美学の開祖ヤン・ムカジョフスキーの強い影響下にあったことなどを教えてくれた。

しかし、クンデラへの関心は、つねにプラハの春やチェコ事件とセットになっていて、小説家としての一般的な評価は一九八九年に『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳、『集英社ギャラリー[世界の文学]12』所収)が訳出されるまで引き延ばされた。『冗談』はすでに訳されていた(関根日出男他訳、みすず書房)し、アントニン・J・リームのプラハの春のドキュメント『三つの世代』(加藤晴久訳、みすず書房)にはクンデラへのインタヴューも収められていたが、小説家クンデラはなかなか日本語世界に全貌を現さなかった。

クンデラの魅力は、彼には「芸術家」的小説家のような理論コンプレックスがなく、従って自作についての理論的な韜晦を一切しないという点である。彼は、自作や自分の創作姿勢についても忌憚なく分節するし、その力がある。その意味で、彼の書く「哲学的」な文章は、日本の小説家や文芸評論家がハイデッガーやポスト構造主義の諸理論をでたらめに引証しながら書いた極めて「哲学詩」的な文章よりも信用が置ける。

『小説の精神』(金井裕他訳、法政大学出版局)の最初の章は、一九三五年にフッサールがウィーンとプラハで行なった「ヨーロッパの人間性の危機における哲学」の話から始まっている。クンデラは、ここで、小説を《ヨーロッパ》の歴史の終末の地平、すなわち「初めもなければ終りもない時間、国境のない空間」のただなかにおける産物と定義する。従ってそれは、ヨーロッパの歴史の終末とともに終りを告げるわけだが、実は、まさにその終末においてはじめて本領を発揮するような形式なのである。

フッサールが「ヨーロッパの人間性」と言うとき、これは、「インドの人間性」とか言うときのような特殊地域的な意味ではなく、従ってその「危機」とは、ヨーロッパがナチズムによって蹂躙されるといったことであるよりも、全人類の「ヨーロッパ化」(つまりは近代)の決定的な転機、つまりはのちにハイデッガーが「存在忘却」と呼んだテクノロジーの全面的支配のことである。

それゆえ、この危機と全面化の地平においては、これまでの継承と蓄積が崩壊したり、途絶するのではなくて、むしろ全面的に展開するのである。ただし、その展開は、「古典的」ではありえず、また「バロック」的でもない。クンデラが、小説を近代の終末形式と見なしながら、それを「廃棄場」にたとえるのはこのためである。これは、ベンヤミンがポスト近代の「創造」活動を「廃品回収」になぞらえていたのを想起させる。

いまや小説=廃棄場にはさまざまなものが呼び込まれ、「世界像」を形づくる。それは、それ自体としては単なる「像」「キッチ」「糞」にすぎないが、しかし、ときにはそれは、そのさまざまな「像」のめくるめく反射のなかで、この「像」化した世界の向こう側をかいま見させるのでる。

 クンデラは、すでに「いままで小説が閉じ込められていた個人の人生という時間の制約を打破し、小説の空間のなかにさまざまな歴史上の時代を導入したとする欲求」を語っていたが、『不滅』(菅野昭正訳、集英社)は、まさに、そうした方法を最も鮮明に表わすことに成功した作品である。その際、クンデラが選んだ歴史上の人物としてゲーテがいるのは興味深い。彼は、すでに一九七八年の『笑いと忘却の書』(西永良成訳、集英社)のなかで「ゲーテ」を登場させているし、また『存在の耐えられない軽さ』のなかには「メフィスト」と名づけられた豚が登場するが、いずれも、さはど決定的な役割をはたしてはいない。ところが、『不滅』では、ゲーテを小説の見事なプロットに使うだけでなく、凡百のゲーテ論が論じ忘れてきた極めて重要な問題に読者の目を開かせる。

ベッティーナ・フォン・アルニムといえば、晩年のゲーテに、彼がいささか恐れをなすほどの「熱狂的」な愛をささげ、『ゲーテとの往復書簡』を書いた女性詩人であり、ベートーベンとゲーテを仲介したのも彼女だということになっている。しかしながら、クンデラは、このベッティーナのなかに、近代のヨーロッパが求め続けてきた「不滅の欲望」の典型を見る。この欲望は、近代ヨーロッパの根幹をなすものであり、また、「市民社会」や「解放闘争」や「共産主義体制」をも生み出した当のものであった。

歴史を永遠の記憶と見なし、自分を超えてそこに書き留められたいと願う「不滅の欲望」は決して人を愛することがない。とはいえ、ここでクンデラは、ベッティーナがただただ自分の名を歴史に残すためにゲーテに近づき、彼から受け取った手紙を自分に都合のよい修正を加えて発表したといったあざとさを暴露し批判しているわけではない。彼女は、反体制的な運動に荷担した活動家たちを擁護し、救援することにも精力を投入した「勇気」ある女性である。だが、問題は、まさにそうした近代の「理想」の核心のなかに、警察国家や強制収容所を日常のものとするポテンシャルがあったということである。

チェコ事件は、その意味で、決して特殊東欧的な事件ではなかった。『存在の耐えられない軽さ』のなかでクンデラは、「中部ヨーロッパの共産主義体制は、犯罪者が作り上げたもの以外の何物でもないと考える人たちには、根本的真実が欠けている。犯罪体制を作ったのは犯罪者ではなく、天国に通ずる唯一の道を見出したと確信する熱狂的な人々である」と言っているが、『存在の耐えられない軽さ』は、プラハで現出した「不滅の欲望」の痙攣を近代の「永劫回帰」的な終末=反復的完成のエートスとしてとらえかえした。ここでは、皮肉なことに、幸福な日々はトマーシュとテレザが飼う犬だけが享受できる。

とはいえ、『存在の耐えられない軽さ』でトマーシュとテレザがその人生の黄昏においてのみわずかに享受した「非=存在の悦楽」を、クンデラは『不滅』では、ゲーテに分け与える。但し、そのゲーテは、「詩聖ゲーテ」でないことはいうまでもなく、「政治家ゲーテ」でも、「自然科学者ゲーテ」でも、「風景画家ゲーテ」でもない。

それは、元女工だった「ふとっちょ」の楽天的なクリスティアーネ(後の妻)を愛したゲーテであり、『不滅』のなかでクンデラがヘミングウェイと対話させるゲーテ、歯が抜け、髪が落ち、目の上に手製の日除けをつけ、スリッパを履いたゲーテである。彼は、「その愛によって、十八世紀から今世紀のなかばまで、ヨーロッパの広大な場に現存している」「歴史の妖精、歴史の女祭司」ベッティーナへの当てつけにこのような格好をしている。なるほど、こういうゲーテならつきあってやってもいい。

ゲーテは、ヘミングウェイに向かって、「わたしは完全なる非=存在の悦楽を味わおうと決めたんですよ」と言うが、クンデラによれば、「人生において耐えられないのは、存在することではなく、自分の自我であることなのだ」。しかし、そのような存在のかたわらに、「《創造主》が創造に取りかかる前にすでに実存していた存在」にふれることは幸福なのである。

出典:図書新聞、2105号、1992年6月13日号、編集:山本光久