アメリカ・マルクス主義の一つの帰趨
粉川哲夫
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マルクスの残後百年たったいま、ほぼ完全に明らかになったことは、実践的・理論的活動の規範法則ないしはロマン主義的な推進力としてのマルクス主義が終わりつつあるということである。その結果、マルクス主義研究とマルクス学は、かぎりなく精緻になり、マルクスの思想は、政治的・社会的現実からは隔離された"純粋科学"的な体系となり、他方、現実の批判と変革をめざす理論的・実践的活動は、いずれも、現状況に接近すればするほどマルクスの著作やマルクス主義の教理から――少なくとも顕在的なレベルにおいては――遠ざからなければならないという皮肉な事態が充進してきた。
しかし、考えてみると、こうした事態は、マルクス主義にとって必ずしも不都合なことではなく、マルクスの著作とマルクス主義が脱神秘化されたという点では、むしろ新しい積極的な出発点が与えられたことを意味する。思想が権威主義的ないし縁科学主義的に受けとられるのは、何もマルクス主義に限られてはいない。ハイデッガーは、新カント派の権威主義と新実証主義の不毛な言語論が支配する状況のなかで彼自身のカント解釈を展開するにあたり、「言葉が語っているところのものからその言葉が語ろうと欲するものをもぎ取るためには、解釈はみな必然的に暴力を用いざるをえない」(1)と言わなければならなかったが、ソクラテス以前のギリシャの思想家からフッサールにいたる思想の言葉を解釈㌧した際にハイデッガーが示したその革命的な姿勢は、今日の思想状況のなかではほとんど忘れ去られているようにみえる。その意味では、マルクス主義が陥ってきた権威主義化や教条化も、思想自身が思想の本来的性格を忘却する一形態でしかないのである。マルクス自身は、マルクス主義理論が法則や教理になってはならないと考えていたのであり、一八四三年九月のアーノルト・ルーゲ宛の手紙のなかでも次のように言っている。
「われわれは、ここに真理がある、ここでひざまずけというふうに、新しい原理をふりかざして空論的に世界にたちむかうことはしないひわれわれは世界にたいして世界の現にもつ諸原理のうちから新しい諸原理を発展させる。・・・われわれはただ、そもそも世界がなぜ戦うかを、世界にしめすだけである。そして意識とは、世界がそれを獲得しようとおもわない場合にも獲得しないではいられないものなのである。・・・われわれの全目的は、ちょうどフォイエルバッハの宗教批判がそうであるように、宗教的および政治的な諸間題に、みずからを意識した人間的形式をあたえること、以外ではありえない。
したがって、われわれの標語は次のようでなけれぱならない。すなわち、教条によってではなしに、神秘的な、それ自身不明瞭な意識を、それが宗教のうえであらわれようと政治のうえであらわれようと、そうした意識を分析することによって、意識を改革すること」(2)。
マルクスにとって、思想や言表は具体的現実――より適切には「生活世界」1を変革するためにそれに向かって問いかけ闘った結果としての一つの回答でしかないのであり、思想や言表がそのまま具体的現実にとってかわるわけではない。重要なのは、マルクスが言ったことの最終的な答ではなくて、その言表のなかで彼自身が彼の現実に対して投げかけている――それは今日でもまだ完結しているとは考えられない1問いと闘いであり、読者はそうした問いに出会うことによって自分自身の現実に対する自分の間いの方向と様式をつかむのである。
それゆえ、マルクスの思想やマルクス主義への忠誠さとは、それらが述ぺていることの単なる論理的内容への忠誠さではなく、マルクスやその後継者たちがそれぞれの且ハ体的現実に対してそれぞれのしかたで問いかけた問いの方向と様式のなかにある協同性に対する連帯的な忠誠さにほかならない。マルクスおよびマルクス主義の思想的テキストは、それが語られた歴史的文脈と、それを読む状況的文脈とが熾烈に接合されることを要求するわけである。
とはいえ、マルクスにおいても、その後継者においても、そしてわれわれにおいても、間題はその具体的現実への間いかけそのものだとすれぱ、さまざまなあい異る且ハ体的現実に対応しているこの問いのなかに求められる一貫性――すなわちマルクス主義――は、時代が下れば下るほど、理念的なものにならざるをえず、この一貫性をあえて"マルクス主義"と呼ぶ必要がないというような事態もたちあらわれてくる。しかし、これは、マルクス主義の忘却ではなくて、マルクス主義という思想の発展から帰結する不可避的な事態でもある。
このことは、現実に対する間いの一回答としてのあらゆる思想にあてはまることであり、一九三〇年代において「思潮」としてはすでに「過去のもの」とみなされはじめていた現象学についてハイデッガーが次のように言っていることは、そのまま今日のマルクス主義にもあてはまるだろう。
現象学は「その時麦に自己を変化させ、つねにそういうしかたでありつづける思考の可能性であり、思考されるべきものの呼びかけに応答するための可能性である。現象学がそのように経験され、とらえられるとき、現象学は、その開明性が依然秘密のままザツヘである思考の事柄を尊重するために、標題としては消滅してもかまわないのである」(3)。
とはいえ、ソル・ユーリソクが言ったように、「記憶を管理する者が歴史を管理する」(4)のだとすれば、マルクス主義思想の記憶は、つねに非あるいは反マルクス主義的な思想によって管理され、マルクス主義の歴史は歪曲されるよりも、むしろ忘却の危機にさらされてきたと言うことができる。もし、マルクス主義が第ニインターナショナルの後半以後に直面した理論的・実践的な諸間題についての記憶が保持され、とりわけ、なぜパネンケック、ホルターらの評議会マルクス主義者、ルカーチ、コルシュ、グラムシ、そしてフランクフルト学派のマルクス主義者たち――つまり、「へーゲリアン・マルクス主義者」(5)あるいは「西欧マルクス主義者」(6)、そしてより積極的には「現象学的マルクス主義者」(7)と呼ぱれる思想家たち――が、正統派マルクス主義を離脱してゆかざるをえなかったかということについての記憶が保持されているならぱ、一連の"マルクス葬送派"やフランスの"新哲学派"のような歴史忘却的な発言は決してあらわれはしなかっただろう。その意味では、今日の"マルクス葬送派"的マルクス主義批判の多くは、ベルンシュタインが十九世紀末にすでに行なっているマルクス主義批判の二番煎じ以下であり、少なくとも一九二〇年代にへーゲリアン・マルクス主義者たちが最低限の出発点にしようとしていた自己批判をこと新しくマルクス主義に投げかえしているにすぎない。
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アメリカのマルクス主義の歴史もまた、その起源――つまりアメリカのマルクス主義者たちがそれぞれの具体的現実に対して間いかけた間いの究極的方向と様式――の忘却の歴史である。より実証的なレベルにおいても、北アメリカにマルクス主義が、まずユダヤ人移民によってひじょうに早い時期に移入されていたこと、そして何よりもマルクス自身が一八五二年以後「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」に多くの文章を寄稿していること、そして北アメリカには第一次世界大戦以前にすでにダニエル・デ・レオンのような自律的なマルクス主義者もいたということ、こうした事実はとかく忘れられがちである。また、北アメリカは、一九二〇年代からスターリニズムの時代にかけてヨーロッパのマルクス主義理論活動が沈滞した時期に、ヘンリク・グロスマン、フリードリッヒ・ポラック、ローマン・ロスドルスキー、テオドル・W・アドルノ、エルンスト・ブロッホ、マックス・ホルクハイマー、ヘルベルト・マルクーゼといった亡命マルクス主義理論家の活動の場となったが、彼らの理論活動は、ヨーロッパとは異なるアメリカの新しい現実によって挑発され、資本主義の新しい段階(独占資本主義)に対応できるマルクス主義への方途を見出そうとするのである。そこには、今日、マルクス主義の終焉ともマルクス主義の普遍化とも両方の解釈が成り立つマルクス主義の両義的状況の端初をみることができるが、一九三〇年代におけるマルクス主義への主要な理論的貢献は、すぺて北アメリカからもたらされたと言う者さえいる(8)。
しかし、そうした理論的貢献は、マッカーシーイズムによってその展開をはばまれ、それがふたたびアメリカ的現実への批判的・実践的対応として展開しなおされるには、一九六〇年代後半のニュー・レフトの活動をまたなくてはならなかった。ここでは、限られた紙面のなかでアメリカのマルクス主義理論活動の今日的な位相1しかも、その最も問題的な側面――に主眼をおくために、一九六〇年代から一九七〇年代にかけてのアメリカン・ニュー・レフトの理論活動の基本動向に問題を限定しようと思う。
アメリカのニュー・レフトのうち、ヨーロッパとアメリカにまたがるマルクス主義理論活動の積極的な部分――とりわけへーゲリアン・マルクス主義1を意識的に継承しようとした気鋭の理論家たちが期せずして一堂に会することになった記念碑的な書物がある。それは、ディック・ハワードとカール・E・クレアによって編集され、一九七二年にベイシック・ブックスから出版された『知られざる次元――レーニン以後のヨーロッパ・マルクス主義』(9)であるが、この論集に登揚する執筆者たちは、編者のハワードとクレアをはじめとして、アンドリュー・アラトー、デイヴィッド・グロス、スタンリー・アラノヴィッツ、バーテル・オルマン、マーティン・ジェイ、シェリー・M・ウェーバー、ジレミー・J・シャャピロ、といった今日ではアメリカのマルクス主義思想ないしはラディカル思想の分野で代表的な論客となっている人麦である。また、「序文」で謝意をおくられている人々のなかには、『ラディカル・アメリカ』のポール・ビュール、『ティロス』のポール・ピッコーネとポール・ブレインズ、『ソーシャリスト・レヴォルーション』グループ、バークレイ大学社会学部ラディカル・コーカス等の名がみえ、本書を一九六〇~七〇年代のアメリカン・ニュー・レフトの理論的に最も先進的な部分の共同的成果の一つとみなすことも、あながち不当なことではない。
本書で論じられているヨーロッパのマルクス主義者億、ルカーチ、ブロッホ、コルシュ、グラムシ、パンネケック、ライヒ、アドルノ、ホルクハイマー、ベンヤミン、マルクーゼ、ハバマス、サルトル、ルフェーブル、ヴォルペ、アルチュセール、マレ、ゴルツであるが、巻頭論文「日常生活の批判、ニュー・レフト、知られざるマルクス主義」のなかでクレアは次のように言っている。
「ニューレフトは、その行動を明確にし、自覚的にしようとして、しばしばマルクス主義に失望し、これから離脱してきた。というのも、急速に変化する社会の中での新しい運動の実践が、これまでマルクス主義的世界像と解されていたものの境界を突破してしまっているからである。だが、この本が教えるように、学界の先生方や正統派の左翼諸党が『マルクス主義』としてわれわれに教え伝えているものは、マルクス主義の運動の歴史的な軌道から離れつつある、制度化されたイデオロギー的加工品であり、マルクス自身の知的な試みの前提や、それに内在する可能性とは似ても似つかぬものである。マルクス主義とは、要するにわれわれがマルクス主義として知っているもの以外なのである」(-o)。
このことを明確にしたのが、クレアによると本書で個別的に論じられている「アンダーグラウンドのマルクス主義」であり、ここにおいて、経済決定論に代って人間的主体性の要素が、工揚労働者の単なる労働現場をこえて個々人のあらゆる日常生活の社会・文化的状況の全体が、革命の鍵をにぎるものとみなされるようになる。アンダーグラウンドのマルクス主義には、第三インターナショナル、ファシズム、ペシズムに由来する政治的孤立主義、単に日常生活を批判するだけでなく、「資本主義の超克を可能にする諸勢力の分析」の欠落、「第三世界や、資本主義システムの国際的な性質への関心」の欠如、「大学教育を受けた学者たちにしか近づき得ないようなスタイル」でしか論述できないその「反啓蒙主義」等々の「内的弱点」があり、そのためにこそこのマルクス主義は、これまでその十分な政治的体現者を見出すことができなかったのであるが、アメリカのニュー・レフトは、「アンダーグラウンドのマルクス主義が抱えていた政治的主張と意味を事実上再現し、具体化する」(11)。
むろん、アメリカン・ニュー・レフトは、こうしたマルクス主義を理論学習することによって生まれたわけではない。その活動と闘争の多様な形態は、まだ十分に包括的な歴史記述を手に入れてはいないが(12)、その多様な運動体と小集団に共通するものは、自己表現、自己実現、自律的共生をはばむ状況への批判とそれらを可能にする諸条件の探求であった。そこでは当然、個人意識と日常生活の質的変革、被抑圧者の自己解放が主要な課題になり、新しい人間関係(性、結婚、家族、文化)、全員参加の民主主義、対抗的な諸制度.諸機関、コミュニティ・コントロール、労働者によるコントロール、そして労苦としての労働の廃止が求められる。ヨーロッパのアンダーグラウンド・マルクス主義に対するアメリカン・ニユー・レフトの共鳴は、それがこうした諸々の活動の指針を与えてくれたからではなくて、ニュー・レフトがアメリカの資本主義的現実に対するなかぱ無意識的な対応のなかでくりひろげた諸寿の活動のティロス(究極目的)が、このヨーロッパ・マルクス主義によって理論的に洞察されていたからである。ちなみに、マルクーゼは、一九三二年に発表された「経済学的労働概念の哲学的基礎」を、『資本論』第三部からの次の引用でしめくくっているが(13)、このきわめて的確な引用によってマルクーゼは、いわぱマルクスの洞察とニュー・レフトの実践とを電撃的に媒介する準備を四〇年近くまえにととのえていたわけである。
「自由の領域は、窮迫や外的な合目的性によって規定されている労働がなくなるところではじめて、事実上はじまる。つまりそれは本性上本来の物質的生産の場の彼岸にある・・・この領域での自由はただ次の点にのみ存在する。すなわち、社会化された人間、連帯した生産者が盲目的なカとしてのかれらと自然との質料変換によって支配される代りに、このような質料変換を合理的に規制し、それを自分たちの共同管理下におき、最小限の労力で、またその人間性にもっともふさわしい適切な諸条件のもとで、それを完遂するということである。だが、依然としてこのことは必然性の領域である。その領域の彼岸で、自己目的としておこなわれる人間のカの発展や、その基盤たるかの必然性の領域の上でのみ開花しうる真の自由の領域がはじまる」(14)。
マルクスのこうした洞察は、アメリカのニュー・レフトにとっては、もはや単なる原理的考察ではなくて、先進資本主義とりわけアメリカの資本主義においてはすでに現実となりつつあるものとみなされた。マルクスは、『経済学批判要綱』としていまでは公刊されているノートのなかで、「・・大工業が発展すればするほど、現実的尚口田の創造は、労働時間と充用された労働の量とに依存マハトするよりも、むしろ労働時間中に動員される諸作用因のカに依存するようになる。そしてこれらの作用因はそれ自身ふたたび・・・それらの生産に要する直接的労働時間に比例しないで、むしろ科学の一般状態とテクノ・ジーの進歩うまたはこの科学の生産への応用に依存する」。従って「労働はもはや生産過程に内包されたものとしては現れないで、むしろ人間が生産過程それ自体にたいし監視者ならびに規制者として関係する。・・・もはや変形された自然物を客体と自己とのあいだの中間項として挿入するのが労働者なのではなくて、むしろ労働者は、彼が産業過程に変換させた自然過程を、自己と彼が自分の制御下においている非有機的自然とのあいだの仲介物としてねじこむのである。労働者は生産過程の主作用因ではなくなって、生産過程とならんで現われる」1と言っているが(15)、ニュー・レフトのマルクス主義者の眼からすると、このような事態はアメリカの資本主義体制のなかですでに現実化しつつあるというわけである。
実際に、アメリカの産業体制の重心は、一九四〇年代以降、生産労働からサービス労働へ移行しはじめ、いわゆる「脱工業化社会」、「豊かな社会」の時代がはじまった。ここでは、労働の性格そのものが変化し、人々はもはや生存のための物質的生活を再生産するために労働する必要がはるかに軽減される。そのため、労働者や労働現場は明らかに、社会変革の基軸とはなりにくく、実際にアメリカの労働運動はこのために骨抜きにされてきた。しかし、ニュー・レフトは、こうした事態のなかに革命の潜勢力をみたのである。
こうした認識は、黒人解放運動やヴェトナム反戦運動が高揚する一九六〇年代後半には、教条的な左翼を除くほとんどすべての左翼とりわけニュー・レフトのあいだに浸透しつつあったが、すでにジェームズ・ボッグスは、一九六三年の『マンスリー・レヴュー』にその七・八月合併号の全ぺージをさいて発表された長い論文「アメリカン・レヴォルーション」のなかで、同様の認識に到達している。黒人としてながい労働運動の経験をもつボッグスは、オートメイションとサイバネイションが急速に進むアメリカの労働状況をおさえながら、「今日アメリカでは、生産力の発展は、すでにマルクスが共産主義のもとでのみ実現しうるとのべた階級なき社会が存在しうるところまできてしまっている」(16)と言う。オートメイションによる省力化・無人化は、このまま進めば、「生きる権利を手に入れるためには働かなければならなかった時代」を急速に終わらせるであろうが、それは、「資本主義社会が労働者大衆を必要としない段階」(17)にまで行きつくことを意味する。すでに一九六〇年代の時点で、オートメイション化によって生産現場から放逐された労働者の数は日に日にふえており、それはやがて、この失業者とまだ職のある者との敵対関係を激化させるだけでなく、「失業者はいつまでも社会の大きな負担になるくらいならいっそ餓死してしまえばよいのだと主張する連中と、一方社会がそんな野蛮な状態にまで退化してしまうのにたえ切れない連中との対立」(18)を激化させるだろう(ボッグスのこの予言は、今日のレーガン体制において現実のものとなった)。
問題は、「アメリカ政府は、すでに労働なき社会の入口にあるこの時代にわれわれを労働させようとやっきになっている」ことであり、また、「労働組合がいまだに生活のためには働かねばならないという思想にかじりついている」(19)ことである。そこでボッグスは、労働なき社会をもはや避けられない事実として冷厳と受けとめ、労働、つまり生産力としての人間という考え方を改めて、逆にこの「強制された労働」の社会を全面的に変革する契機アメリカ・マルクス主義の一つの帰趨243を求めるべきだと主張する。
こうしたボッグスの主張には、明らかに問題状況の単純化がみられるが、にもかかわらず、彼の主張は、一九六〇年代の反体制運動がもっていた最も積極的な部分をとらえていると言うことができる。というのも、資本主義体制がその発展過程のなかで不可避的に労働を排除し、「労働なき社会」をつくり出してゆくとすれば、たとえこの「労働なき社会」がいささかも労働を止揚した社会ではなく、単に労働を欠如した社会にすぎないとしても、この社会を質的にちがったものに止揚する闘いの場は、労働過程の外部とならざるをえず、そのためここでは、狭い意味での"労働者"や〃プロレタリアート"が革命の主体であるといった革命観とは異なり、労働者、失業者、生活者を含むあらゆる被抑圧者の多様な闘争が、暗黙のうちに一つのアンサンブルとしての反体制的勢力にならなければならないわけで、これは、たとえつかのまのことであったといえ、実際にアメリカの一九六〇年代に起ったことだからである。
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資本主義の高度化が、革命的潜勢力を準備するという洞察は、一九六〇年代末にはアメリカン・ニュー・レフトの理論家のあいだで十分にエラボレイトされるにいたった。マルクスは、『要綱』の先に引用した有名なくだりの少しあとのところで、「ブルジョア経済の体制が今日の時代にはじめてしだいに発展しつつあるとすれぱ、同様にこの体制の最後の結果である体制それ自身の否定もまた発展しつつある」(20)と述べているが、『要綱』のこれらの含蓄を、マーティン・スクラールは、一九六九年に『ラディカル・アメリカ』に発表したブリリアントな論文「プロレタリァ革命と政治経済学の終焉について」(21)のなかで、「脱蓄積」(disaccumulation)という概念に結晶させた。
しかし、この論文があらわれた一九六九年はリチャード・ニクソンが大統領に就任した年であり、それはアメリカの高度経済成長の終焉、景気の後退、そしてニュー・レフトとブラック・パワーに対する体制の反撃の開始の年でもあった。ニクソンは、「過去五年間われわれは失業者のための計画、都市のための計画、貧困者のための計画に取り囲まれてきた。そしてわれわれがそこから刈り取ったものは、アメリカ全土にわたる欲求不満、暴力、失敗という醜い収穫であった」(22)と言い、ただちに社会計画のための支出を最小限に切りつめる政策にうって出た。ニュー・レフトに対する諜報活動や弾圧は陰険になり、シカゴでは八人の警官がデモ隊に無差別な暴力を加えて起訴されたが全員無罪になるという事態("シカゴ・エイト")も生じた。ウェザーマンやブラック・パンサー党に対する陰謀的な裁判もはじまる。ニュー・レフト運動は、当然、後退し、ニュー・レフトのなかにも、体制との政治的"対決"よりも"意識の高揚"を課題とするフェミニズム運動やコミューン運動へのりかえる者、旧左翼グループのなかに逃避する者、武装闘争に走る者、ニュー・レフトとの関係を清算して、リベラル派の政治やコミュニティ運動に加わわる者、組織からは離れて教育、研究、執筆といった"自立"的な活動に向かう者などがふえてきた。
こうした状況がニュー・レフトのマルクス主義理論に与えたインパクトは、スクラールの「脱蓄積」という概念を継承し、独自のマルクス主義理論を構築したジェイムズ・オコーナーが、スクラールの概念に加えた微妙なニュアンスのなかにもあらわれている。オコーナーは、彼の学問的名声を一躍高かめることになった一九七三年の『国家の財政危機』(23)においてすでに、なぜアメリカの資本主義システムが円滑に機能しないかを詳細に分析し、あわせて、そのような有効な分析のためには伝統的な経済学が全く破産していることを示したが、より原理的な問題をあつかった「生産労働と不生産労働」という論文(一九七五年)のなかで次のように言っている。
「一般に、理論というものがもし、社会がなぜ機能するか、いつ機能するか、ということについての解明だとすれば、その解明は、なぜ社会が機能しないか、いつ(文字通りの意味においても、象徴的な意昧においても)機能しないかについての理論でなければならない。資本主義社会に対しては、もしわれわれが生産労働、蓄積、資本主義的発展についての理論を有しているならば、われわれは、不生産労働、資本の脱蓄積、社会主義的発展についての理論も必要である」(24)。
ここで注目されるのは、スクラールにおいては「脱蓄積」の概念がどちらかというとポジティヴに用られており、脱蓄積は同時に資本蓄積の解放過程であるかのようなひびきをもっているのに対して、オコーナーがこの概念を用るときには、社会がなぜ機能しないか、いつ機能しないかといった問い方で示唆されているように、「脱蓄積」と解放とのあいだにはある種のへだたりがおかれ、資本の脱蓄積億共産主義的発展としてではなく、「社会主義的発展」として考えられていることである。ここにはいわば、「豊かな社会」,がただちに"共産主義的"な革命に転換しうるかのような、六〇年代のニュー・レフトの多くがいだいていたオプティミズムは影をひそめ、決してトータルな解放への展望を捨てたわけではないのだが、そこへ至る道程の長さと屈折を冷厳にみすえた眼があると言うことができる。
解放の潜勢力が現代の管理体制のなかでどのようにして骨抜きにされるかを徹底的に論述しようとしたのはアドルノだが、彼の方法をペシミスティックと非難するのは完全に誤っている(25)。
むしろ、本当に破壊的なカをもった解放の潜勢力は、最高に厳しい批判の極限地平からしか発見されないのであり、抑圧がますます強まる状況のなかでは、いたずらに解放の甘い認識にのせられて抑圧の罠にはまり、せっかくの潜勢力を浪費するよりも、それを骨抜きにする装置や条件を批判的に検討し、解放の潜勢力を備畜することが重要であろう。オコーナーの問題意識は、あきらかに、こうした備蓄の戦略から発しており、それゆえ彼は、資本主義システムがなぜ機能しないかを論じると同時に、いつ――どのような場合に――機能しなくなるかをも論じるわけである。
オコーナーによると、労働の不生産労働(資本の脱蓄積)的側面を生産労働(資本の蓄積)に「極小化」(minimize)する労働があり、それは、「実現労働」(realization labor)と呼ばれる。具体的には、イデオロギーや文化の操作、広告、出版、マーケッティングなどがそれに入るが、この「実現労働の機能は、財産警備、金銭出納などではなくて、商品が一定の使用価値であると思わせるためにその商品についてのシンボルを伝達することである。・・・この労働が必要なのは、資本家は物やサービスの生産を組織するだけではなくて、物やサービスについての観念の生産をも組織しなけれぱならないからである」(26)。従つて、たとえば「交換労働」、「分配労働」、「警備労働」、「流通労働」といったものは、それ自体としては「不生産労働」の側面を多くもつ「再生産労働」なのだが、これらは「実現労働」と組みあわせられることによって、資本を生産する「生産労働」に変換されるのである。
しかしながら、残念なことに、オコーナーは、この実現労働がどのように資本蓄積を正統化(legitimate)するかを詳細に分析しようとはせず、ふたたび労働者運動主義の定式に飛びうつってしまう。なるほど、「賃労働者としての個人の客観的な身分を宿命論的に受けいれること」に対して、「主人と、自主管理的な階級社会の抑圧機構の両方に対する闘争」が「政治領域における総体としてのすべての労働者グループないしは労働者階級によって組織される」とき、それが』不生産的」(脱蓄積的)となり、システムの脅威となる、ことはたしかである。しかし、問題は、労働者がどの程度まで「政治領域における総体」であるかである。オコーナーは、「生産的労働は、賃労働を宿命論的に受けいれることの増加を意味する」、「また、不生産的労働の増加は、賃労働を宿命論的に受けいれることの減少ないしは、保守的か進歩的な形態の自主組織の増加を意昧する」(27)と言っているが、問題は、こうした原理がもっと多くの屈折をはらんで現象する点である。結局のところ、オコーナーは、「生産と労働の資本主義的性格は社会主義的労働によってのみ土台を浸食される」(28)とし、すべての課題を、「生産者の集団的かつ創造的・理性的な属性をはらみ、社会的ないしは集団的な要求を反映する」「社会主義的労働」なるものに託すにとどまる(29)のである。
この点で、ジェイムズ・オコーナーと理論的な共闘を組みながら政治学の分野でマルクス主義的分析を展開しているアラン・ウォルフは、オコーナーが十分に展開していない正統化1つまり資本蓄積がいかに正統化されるかーのレベルを集中的に問題にしている。これは、オコーナーが経済学者であるのに対してウォルフが政治学者であるという専門領域のちがいから出た必然的な結果であるとも言えるが、それ以上にこれは、両者における状況認識のちがいにもとづいているようにみえる。アメリカ国家の抑圧装置を歴史的かつ社会的に分析した一九七三年の『デモクラシーの裏面アメリカにおける抑圧』(30)のなかで、ウォルフは、彼の問題意識と彼の状況認識との関連を次のように示唆している。
「本書のリサーチは、抑圧が絶頂に達する時代の一九六九年にはじめられた。実際、本書のアウトラインは、"シカゴ・エイト"公判がはじまった直後にひろがったのであり、あの公判は本書を直接触発した。しかし、そのとき以来わたしが学んだことは、資本主義社会において抑圧とは、劇的な公判や警察のスパイを意味するだけではなく、日常生活をも意味するということであった、・・・ニクソン政権の最初の四年間は、暴力的な抑圧の量の減少によって特徴づけられるが、ニクソン政権はアメリカにおいてこれまでに最も抑圧的に(その語のより一層全般的な意昧において)権力を維持した政権であるという証拠もある」(31)。
ウォルフは、それゆえ、すべての解放要因が閉塞させられてしまう諸条件の批判的分析にカを入れ、一九七三年の『正統性の限では、資本蓄積のコントロール装置――正統化の装置――としての国家を主題にし、アメリカの国家形態の歴史的にたどりながら、正統化と蓄積とのあいだの矛盾をえぐり出そうとする。ウォルフによれば、アメリカの「後期資本主義」は、「自由民主制」(liberal democracy) という政治体制を形成しているが、これは、「資本主義的な支配階級が政治システムに対して維持してきたヘゲモニーと、もっと感応しやすい国家に対する民主的な要求に何らかの表現を与えもするヘゲモニーとを同時に表現している」(33)。資本主義国家は、資本主義的生産様式を正当化(justify) するために「自由主義」(liberalism) の市場イデオ・ギーに頼らなければならないが、同時に、「万人の相互の、敬意にみちた相互作用にもとづき、共通の了解に立った目標をめざす共同体をつくるために全市民の最大限の参加を主唱する政治的理想」(34)を最低限何らかの形でみたさなけれぱならないわけで、このような矛盾した形で資本蓄積を行なう政治形態1つまりは正統化の形態1が「自由民主制」なのである。
しかし、ウォルフによると、後期資本主義においては、この正統化の機能が窮地に追いこまれる。「後期資本主義の出現は、西欧と合衆国の政治システムに沈滞した性格を与える。すなわち、社会は、フラストレイション、閉塞、政治的不分明、消耗、硬直化、翰晦、方向の全面的欠如、混乱によって支配されるのである。・・・あぶなっかしい安定性が後期資本主義国家を特徴づけることになり、それは、正統性の全面的な危機が、国民にのしかかる大きな支配か国民によるより大きな支配かへつき進むところまでゆく」(35)。この場合、資本蓄積が正統性を凌駕してしまえば国家はファシズム的な方向へ向かい、また正統性が蓄積をおさえることができれば民主的な方向が確保されることになる。
それゆえウォルフは、この「正統性の危機」にのぞんで、正統性を変革することを模索する。ここには、民主制の強化と活性化が資本蓄積をおさえこみ、究極的には「脱蓄積」の増進をもたらし、資本主義システムの根本的な止揚の条件をととのえるだろうという予料があるが、それと同時にここには、資本蓄積の歴史はそう簡単には終わりはしないという認識がはたらいている。「歴史的な観点から考えて、自由民主制はその最後の段階に達しているかもしれないが、その段階は決定できない長さをもっている」(36)とウォルフは言っている。
換言すれば、資本主義は、「蓄積の危機」に陥っているのではなくて、「正統性の危機」に陥っているのであり、その危機は、市民が従来通りの政治システムに順応しているかぎり、支配階級にとってのみ有利な条件-蓄積のシステムがより一層効率よく機能する条件1をととのえ、蓄積を延命させてゆく。しかし、もし市民が、与えられた政治システムー市民が"政治的生産"を強られるシステムーに従わない場合には、そこから「蓄積の危機」が生まれる可能性も出てくる。それゆえ、ウォルフは、「人々が生産する社会的力を"備蓄すること"(hoarding)」と「それを人々が自分で決定する諸活動のために使うこと」(37)という「長期の戦略」を提唱する。それは、要するに、「後期資本主義社会で政治という名のもとに行なわれている組織された儀礼に参加することを拒否する」(38)ことによって市民がそれ自身の政治的生産力を"備蓄"し、それを資本主義的蓄積とは全く質の異る政治的生産のために用ようというわけである。
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マルクス主義理論とは、法則やイデオロギーではなく、具体的現実に対して問いかける運動、あるいはそうした問いかけのそのつどの回答であり、マルクス自身はこうした問いかけの出発を方向づけたにすぎない。それゆえ、アメリカのマルクス主義理論のなかでエラボレイトされた「脱蓄積」という概念がマルクス主義にふさわしいものだとすれば、それは、マルクスが考えるべきであったこと――しかし彼の時代にはそれが十分顕在化していなかったので十分には考えられなかったこと――をこの概念がアメリカの現実への問いかけを通じてひき出しているかぎりにおいてである。
しかし、スクラール、オコーナー、ウォルフらの「脱蓄積」論の出現したあとでより顕在化したことは、程度の差はあれ「脱蓄積」を主体的に促進できると考えた彼らの思わくとは反対に、「脱蓄積」の経済(不況)と「脱蓄積」の文化(反抗)が充進しながらも、資本蓄積は依然進行しているというアメリカ資本主義の現実である。その意味で、ポール・ピッコーネが、一九七六年ごろから提起しはじめた「人工的否定性」(artificial negativity) という概念(39)は、「脱蓄積」が蓄積を補完し、システムを一層活気づける側面を開示している点で、注目に値するだろう。
ピッコーネの「人工的否定性」については、もはやそれを詳しく論ずる紙幅がないが、一九六八年以来、へーゲリアン・マルクス主義の導入と展開の最もすぐれた機関の一つとして機能してきた『ティロス』誌の理論活動が、編集長ピッコーネのこの「人工的否定性」という概念において、やはりマルクス主義をアメリカの資本主義的現実の最先端に抵触させるところまで行っているように思われるのである。実際に、ピッコーネと彼の僚友ティム・ルークはこの概念について次のように書いている。
「これは、マルクス主義を、まさにマルクス主義が他の競合するすべての教理をあつかってきたのと同じやり方であつかうのである――が、一つの重要なちがいがある。これは、従来型の思想をさまざまな形態の存在の歴史的に特有な表現として弁証法的に相対化しながら、マルクス主義的弁証法を、フッサールの現象学にもとづくある種のへーゲル的弁証法でおきかえることによって、マルクス主義的弁証法の内部に巣食う全体主義の癌にかかる分を入念に避けるのである」(40)。
しかしながら、この先進的なマルクス主義理論も、それが真にマルクス主義的であるためには、説明のための方法や"実践"のための準則にされてはならないのであり、それば、あくまでも資本の支配原理として、あるいは1資本主義の歩みが後退するときには――資本の無意識の支配原理として、批判的な距離をおかれなければならないのである。
注
(1) Martin Heidegger: Kant und das Problem der Metaphysik, 1929, 2. Auf., 1951, S.183.
(2) 大内兵衛・細川嘉六監訳『マルクス"エンゲルス全集』第一巻、大月書店、382ぺージ。
(3) Martin Heidegger: Mein Weg in die Phaenomenologie, Zur Sach des Denkens, 1969, S.90.
(4) Sol Yurick: The Politics of the imagination: the problem of consciousness, Literature in Revolution, 1972, p.513.
(5) 「へーゲリアン・マルクス主義」については、George Lichitheim: From Marx to Hegel, 1971, 小牧・岩田・川澄・鈴木・村上訳『マルクスからへーゲルヘ』未来社、を参照せよ。
(6) 「西欧マルクス主義」については、Maurice Merleau-Ponty: Les Aventures de la dialectique, 1955、滝浦・木田・田島・.市川訳『弁証法の冒険』みすず書房、所収の同名の論文を参照せよ。
(7)「現象学マルクズ主義」については、Paul Piccone: Phenomenological Marxism, Telos, no.9, Fall 1971, pp.3-32、粉川哲夫編訳『資本のパラドックス――ネォ・マルクス主義をこえて』せりか書房、21~66ぺージを参照せよ。
(8) Paul Piccone: On infantile diseases and senile diagnoses: The case of Morton and Filsoufi, Telos, no. 33, p.147.
(9) Dick Howard and Karl E. Klare(eds.): The Unknown Dimension, European Marxism sice Lenin. 川喜多喬他訳『レーニン以後のヨーロッパマルクス主義』上・下、現代の理論社。
(10) 前掲邦訳書、21ぺージ。
(11) 同、26ぺージ。
(12) ニュー・レフトの文化については、Morris Dickstein: Gates of Eden, American Culture in the Sixties, 1977、その政治闘争については、Irving Louis Horowitz: The struggle is the Message: the Organization and Ideology of the Anti-war Movementが参考になる。
(13) Herbert Marcuse: Ueber the philosophischen Grundlagen des eissenschaftlichen Arbeitsbegriffs, Archiv fuer Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, 69, Bd., 1932、良知・池田訳『初期マルクス研究』未来社、155~157ぺージ。
(14) 長谷部文雄訳『資本論』青木書店、第三部下、1155ぺージ。
(15) 高木幸二郎監訳『経済学批判要綱』大月書店、第3分冊、653~654ぺージ。
(16) James Boggs: The American Revolution, Pages from a Negro Worker's Notebook, Monthly Review, vol. 15, no.3&4, July-August 1963、山本達訳『アメリカン・レヴォリューション』、合同出版、99ぺージ。
(17) 前掲邦訳書、87ぺージ。
(18) 同、81一~82ぺージ。
(19) 同、122ぺージ。
(20) マルクス、前掲邦訳書、661ぺージ。
(21) Martin J. Sklar: On the Proletarian Revolution and the end of Political-Economic Society, Radical America, no.3, May-June 1969, pp. 1-41.
(22) Sar A. Levitan and Robert Taggart, The Promise ofBreatness, 1976, pp. 3-4
(23) James O'Conner: The Fiscal Crisis of the State, 1973.
(24) Pruductive and Unproductive Labor, Politics & Society, vol. 5, no. 3, 1975, pp. 3-4.
(25) 現状の徹底的な否定を敢行するアドルノの戦略については、Tetsuo Kogawa: Adorno's "Strategy of Hibernation", Telos, no. 46, Winter 1980-81, pp. 147-153. および粉川哲夫「アドルノの"越冬の戦略"」『批判の回路』創樹社、139~151ぺージを参照せよ。
(26) O'Conner, op. cit., p. 305.
(27) Op. cit., p. 318.
(28) Op. cit., p. 330.
(29) Op. cit., p. 332-333.
(30) Alan Wolfe: The Seamy Side of Democracy, Repression in America, 1973.
(31) Wolfe, op. cit., pp. vii-viii.
(32) The Limits of Legitimacy, Political Contradiction of Contemporary Capitalism, 1977.
(33) Op. cit., p. 9.
(34) Op. cit., p. 6.
(35) Op. cit., p. 252.
(36) Op. cit., p. 253.
(37) Op. cit., p. 343.
(38) Op. cit., p. 344.
(39) ピッコーネは、この概念を一九七五年十一月にブラウン「合衆国における社会変革の社会主義的パークティヴ」についてのコンフェランスのパネル・ディスションですでに言及している。Symposium on the Class, Telos, no. 28, Summer 1976, pp. 153-154を参照せよ。よりエラボレイトされた議論としては、The Crisis of One-Dimensionality, Telos, no. 35, Spring 1978, pp. 43-54. 『資本のパラドックスネオ・マルクス主義をこえて』149~166ぺージを参照せよ。なお、「後期資本主義の"延命策"を異化する」『批判の回路』7~26ぺージで、わたしは、この概念をオコーナーやウォルフとの関連で論じている。
(40) Tim Luke and Paul Piccone: Debrizzi's Undimensionality, Telos, no.37, Fall 1978, p.148
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