別のページで映画についてのメモを載せているが、もうやめようと思う。自分のなかでマンネリ化してきたからである。こんなものを公開しても、誰も関心を持たないだろう。どうせ素材を載せるのなら、そこからどんなものが出て来たか、どんな映画評が書かれたかのプロセスがたどれるようなレイアウトをすべきだろう。
そういえば、このウェブページ全体のデザインに飽きてきた。[Wed May 19 07:13:00 JST 1999]

「21世紀のメディア」について、新聞社や放送局は、総力をあげて取材している。2000年の特集記事にしようというわけだ。
しかし、どうだろう? いずれ、メディアは、もっともっと個人化し、ネット化し、放送局や新聞社などにたよらなくても、事件情報でも、スキャンダルでも、ニュースでも自分で「取材」できるようになるだろう。
いまでも、個人がネットに入れている情報は、サーチエンジンで整理すれば、マスコミなどが太刀打ちできないほどのニュースヴァリューをもっている。だから、記者のなかには、そういう情報をせっせとあさっている者もいる。
個人が出しているWebcamやストリーミング・ライブも、事件の瞬間を映し出すニュースメディアになる。これに、さまざまな監視カメラをハックする技術が加われば、パパラッチの出番は、かぎられてくる。
少なくとも、いまのやり方をしていては、マスコミは、先がないのだ。[Sat May 8 03:45:28 JST 1999]

ストリーミングの実験などをすると(自由ラジオのときもそうだったが)、マスコミは、すぐものめずらしがって近づいてくる。だが、結局は、運動のメディアをフォロウすることができないことに気づいて遠ざかっていく。というよりも、本当は、「魂をゆさぶっている」はずのアクションがわからなくて、「なんだたいしたことないじゃないか」「つまらない」と断定するのである。そりゃそうさ、アクションは、自分でやらなければダメなのさ。[Sat May 8 03:24:17 JST 1999]

かつてガタリは、「分子革命」という概念によって、メッセージや観念の伝達や植えつけ、組織の再編による再管理ではなく、個々人の情感や無意識、知らず識らずのうちに身ぶりや表情、自律神経の変化としてあらわれてくるような変化を起こさせる諸活動を示唆したことがある。
運動(人を動かす)のメディアが目指すのは、そういう活動であり、アクションである。
それは、意識のコントロールボックスのようなレベルにではなく、もっと基底の――まだどこを操作すればどう反応するかわからない――レベルに働きかける。[Sat May 8 03:20:29 JST 1999]

LinuxとOpen Source Codeの時代には、物を蓄積して利潤を得るような経済は終わりになる。情報は流さなければ、なんの「価値」も生まないから、情報回路では「蓄積」はポジティヴなことではない。具体的には、「儲け」を最低かゼロにして、利潤は消費者に返すような商売が浮上する。儲けないで、次の商品開発と消費者の購買力に利潤分を回し、商品=情報の回路の流通を加速させる・・・。別にわたしは、商売の新しい方法を説いているわけではない。すでに、こういう商売がはじまっているのだから。[Mon Feb 1 06:41:35 JST 1999]

Linuxの生みの親のTorvaldsが、「Javaについてどう思う?」ときかれて――
「I dislike the hype.[...] Right now, if somebody notices a bug in Java, it's pretty hard to fix unless you're inside Sun.」と答えている。痛快である。
ちなみに、'hype'には、「くわせもの」、「いんちき」といった意味がある。[Mon Feb 1 03:39:38 JST 1999]

ストリーミングによる「放送」(ラジオホームラン・イン・ザ・ネット)をはじめてから、もう全く使わなくなっていたビデオテロッパーが復活した。リアルヴィデオのいまの画質では、往年のアマ用で十分なのである。オーディオ関係も、同じことが言える。
おそらく、そこで生起している声・話し方・身ぶりも、「洗練」された現状の放送では絶対に通用しない「未熟」なものばかりだろう。が、それが、実に生き生きしており、おもしろい。[Mon Feb 1 01:58:23 JST 1999]

Linuxが市民権を得はじめて、多くの人が気づいたはずのことは、ローテクの再生ということがあり、またそういう時期があるということではないか?
多くの人が捨ててしまった60MHzぐらいのPCが、Linuxをインストールすることでよみがえるのに驚く。この分でいけば、CPUのスピードが400や500という時期が今年中に訪れる一方で、古機の復活という現象が平行して起るはずだ。
これは、単に機械のレベルでだけでなく、文化的・生活的なレベルでの変化をもたらすだろう。[Mon Feb 1 01:54:16 JST 1999]

インターネットラジオは、ネットのあるとことならどこでも聴くことができる。だからそのままではのっぺりした「世界放送」になってしまう。
だから、インターネットラジオは、送信地点を自在に移動し、そのトランスローカルな特性を活かしてこそ、インターネットらしいメディアになることができる。
公園のかたわらの公衆電話のISDN端子からだってストリーミングができるのだから、やらない手はない。
要するに「中継」という発想ほどインターネットにとってくだらない発想はない。[Wed Oct 28 23:19:21 JST 1998 ]

インターネットは、ラジオやテレビのような〈キャスト〉(放射)メディアではなくて、〈ストリーム〉(流れ)のメディアなのだという認識がまだない。だから、インターネットは、まだ、ラジオやテ レビを目指し、映画を夢見たりする。[Wed Oct 14 02:58:48 JST 1998]