東京スポーツ、フジテレビ、ドワンゴへの突然の〝訪問〟を通じて、ノエルは、〈プライバシーはプライバシーを守らない〉という逆説をあばいた。
これらの3社は、いずれも、警備員を置き、随所に検視カメラを配置して自社の「プライバシー」を守っている。ここは「私有地」だから、カメラの使用は一切不可だとして、ノエルが生配信しているのを阻止しようとする。それは、論理的には正当であるかに見える。「私有地」なのだから、自分の法律に従えということだから。
しかし、「私有地」ならば、すべて所有者の自由であるということにはならない。「私有地」だからそこに入って来た者は生かすも殺すも自由だというわけにはいかない。日本でにわかに強まった「プライバシー」なる概念の発祥地(極端化した場所)は、イギリスやアメリカ合衆国だが、とりわけアメリカでは、「プライベートなテリトリーを侵害した」と称して、いきなりライフルで撃ち殺すなどということも起きる。が、それでも、殺人罪が適用され、無罪ということにはならない。
監視カメラは、急速に性能が増し、被写体の「プライバシー」を軽々と侵略する。3つの会社はどれもメディア産業だから、セキュリティシステムには金をかけているはずだ。場合によっては、エアポート並のスキャニング機能をそなえたカメラをつけているかもしれない。その場合には、被写体の下着から身体の局部まで鮮明な記録を残すことが可能である。普通のカメラでも、インターフェイス次第では、被写体の体温ぐらいは感知できる。「私有地」内であれ、他人に対してそのような監視をする権利があるのだろうか?
もし「プライバシー」が尊重されるならば、いかなる場所でも、双方の個々人が自分の身体や個人的な秘密を侵害されない保証は守られるべきである。「私有地」に入った者が服を着たままでいる権利はあるはずだ。ノエルにとって自分の顔を配信するコンピュータ装置は、意識の衣服である。それが、彼と話す者の声や身体の一部をとらえてしまうのは、彼に向けられた監視装置が彼の身体的特徴や衣服の背後までとらえてしまうのと同等のことではないのか?
他方、ノエルのカメラとマイクが厳密に彼の顔と声だけを切り抜くことができないように、彼に向けられた監視システムは、彼が「私有地」の人間ではないということ以上のことを検知し、記録する。また、生身の警備員は、監視人としての機能に徹することはできない。彼らが、監視すべき人間の個人的感情や人格を損なわないという保証はない。個人感情はプライバシーの重要要件だが、警備員が相手を威圧してその個人感情をおびやかすことは日常茶飯事である。
監視カメラも、ノエルの生配信のように、その映像と音を公開してしまえば、話は別だ。監視システムが普及しはじめたころ、スーパーなどがモニターを客にも見える位置に置いていたようにすれば、監視システムの勝手な機能は多少薄まる。いまのように、監視映像・音がどう使われるかわからないという状態は、一方的すぎるのである。まして、道路や広場のような公的な場所の監視映像・音は、とられた者にも見・聞くことができるようにするのがあたりまえである。
だから、ノエルは、問題の「私有地」を出て、街路(「パブリック」な場所)で関係者と話をすることを提案する。が、「私有地」や「プライバシー」を盾にする東スポやフジテレビやドワンゴは、ノエルと直接のコンタクトを避けることが主要目的だから、その提案には応じない。ようするに、「私有地」や「プライバシー」は、単なる言い逃れにすぎないのである。
大企業が、ユーザーに製品やサービスの直接の担当者との直接の接触を避ける傾向は、近年極度に強まった。「苦情」を一手に引き受けるエイジェントがひとつの産業として成り立つところまで来ている。それは、「クレーマー」を排除するためと、訴訟社会化した状況のなかで、不利な条件を増やさないようにするセキュリティ対策である。
こうした傾向から帰結するのは、必ずしも極度のディスコミュニケーションの果ての「悲劇的な事態」ではない。〝賢明〟な企業ならば、早晩いまの方法を改めざるをえないだろう。だが、こういうことを続けている企業にとってもっと深刻なのは、ユーザーがもやは企業の、いわば投げっぱなしの商品やサービスに飽き飽きし、個々人が独力で管理できるような商品やサービスに向かうことである。つまりは、DIYへの転換である。ノエルたちが、配信の手段として、いま、ドワンゴの「ニコ生」などよりも「アフリカTV」に傾斜しているのも、このような変化と関係がある。「ニコ生」は、規模が過剰に拡大し、平均値を右顧左眄して自己規制の自縛に陥っている。対する「アフリカTV」は、最初から多様で高度な条件をあたえて、ユーザーの選択にまかせている。
(2015/03/29)ノエルは半マスクをしている。声変わりをするまえの彼は、全マスクをしていた。全から半への変化は何を意味するのか?
マスクは、覆うもの、細菌や害毒が体内に侵入するのを食い止めるためのものだと思われている。中国で売っている半マスク(→写真)の説明にも、「2.5」から守る鼻マスクだと書かれている。
しかし、マスクはいまや(とりわけ日本では)《外部から》のなにかを食い止めるのでななくて、《外部への》排出をコントロールするものとして使われている。人体とはトランスミッター(送信機)である。それは、つねに何かをこの場を越えてそちらに(トランス)置いて(ミット)している。息も言葉も唾液も口臭も、ラジオ送信機の電波のように外に向かって飛び出してくる。
マスクや覆面で顔を「隠す」ことは、外部から何かが侵入するのを阻止するのではなく、自分から出る何かをコントロールする行為である。身体は、生きているかぎり何かを出す。が、その出し方が強すぎるとか、思い通りではないと思うとき、マスクや覆面をする。単なる防寒のためではない衣服も同様である。
自我=トランスミッターにとって、マスクは、そのエミッション(出力や配信具合)をマッチングさせるための媒介装置(メディア)である。むき出しの身体だけでも、その身ぶりや表情や声調だけでそのエミッションを外界とマッチングさせることが出来るが、人間世界は、さまざまな人工的な媒介装置を生み出し、慣習化してきた。
マスクをしないひとは、自分が他者にとって「無害」であると思っているか、あるいは、自分のエミッションを人工的な媒介なしにあやつれるという(暗黙であれ)自信に満ちているひとだろう。鞍馬天狗や怪傑ゾロは、自分の剣術に相当の自信を持っている。本気を出せば、相手がただではすまなくなることを承知している。だから、彼らは、自分のエミッション(出力)を極度に抑えるのである。
少年ノエルは、その生物年令とはうらはらに自信に満ちている。生活のなかでのさまざまな迷いはあるとしても、生配信のさなかには自信に満ちている。が、にもかかわらず彼が半マスクをかけているのは、出すぎること(オーヴァー・エミッション)を嫌う日本的慣習に半分だけつきあっているからだろう。
川崎でも福島でも、警察の誰何(すいか)を受けたとき、名前が生配信の最中に出ては困るだろうから配信を止めなさいとお為ごかしに言う彼らに対して、きっぱりと実名が出ても構わないし、すでに出していると告げた。実際に、彼は、実名も住所も公開している。が、だからといって、彼は、個人攻撃や詮索を懸念しないわけではない。彼は、本名を明かすと同時に、その自分を生放送にさらしつづける。そうすることによって、彼の名前は、それがどんなに攻撃されても、身をかわすことができる「防犯」(防御)となるからである。
生放送をやめろと命令する川崎警察の刑事が、「なんで生放送をやるの?」と尋ねたときノエルが、「防犯のためです」と答えたのは、刑事には理解できなかった。それは、身を守るためということだ。彼にとっては、生放送が生み出す電磁波ネットワークのなかの関係が、彼の存在そのものを守っている。これは、通常、メディアによってプライバシーが侵されると考える平凡な考え方とは逆である。
電子メディアは、一方で、人間の身体から脳の奥底までデータ化し、あばいてしまうが、人間はそれを無能に受け入れているだけではない。というよりも、人間は、創造的に生きているかぎり、そうした監視的なデータ化の一歩先に出ている。監視カメラのまえで、監視側が予想する通りのことをやるのはばかげている。逆に言えば、だからこそ、監視される者は、監視の予測を裏切る冒険の可能性を付与されている。
監視装置は、こちらの創造的な使用をあらかじめ取り去っているという点で、その逆用は容易ではないが、自発的に行なう生配信の場合は、自分をそこにさらせばさらすほど、新しい表現のチャレンジの度合が高まる。わたしがかつて「デジタル・ヌーディズム」という概念で言いたかったのも、同じことである。
(2015/03/19)afreecaTVをつかったノエルの送信活動には目を見張る。2月27日の川崎警察の刑事二人とのやりとりは、それを取り囲んだテレビや新聞の報道陣のおぞましいもの欲しさの姿を含めて、マスメディアと警察の密接な関係、報道とは事実を伝えることとは無関係なことをはからずも露呈させた。
ノエルは、モバイルインターネットにつながったパソコンを〝シガレットガール〟風に装備してafreecaTV(ニコ生の同時配信も試みたらしいが、実際に機能したのはafreecaTVである)の〝生放送〟を行ったが、その〝物々しさ〟がテレビ屋の目にとまり、彼らの領域を侵す懸念を煽った。ただし、彼の映像と音は、確実にネットに流れたのだから、ネットでそれを発見した者が〝これは報道の領域侵犯だ〟と思ったかもしれない。
しかし、彼がその後、殺害された中学生の通夜の晩(3月3日)にふたたび〝生放送〟をやり、そのことが新聞(3月4日付『東京スポーツ』とテレビ(3月5日のフジテレビ「スーパーネットNAVI」)で批判的に報道されたとき、いずれもノエルが「ニコ生で生中継」したかのように報じられ、いささかもafreecaTVのアの字も出てこなかったことをみると、新聞もテレビも、ノエルの〝生放送〟はおろか、そのアルカイブすら見ていなかったことがわかる。「スーパーネットNAVI」は、名前の下に「ソーシャルメディアを利用したジャーナリズムの第一人者」というサブタイトルが付いている津田大介がキャスターをしていたにもかかわらず、〝生放送〟がニコ生で行われたかのごとく報じていた。ノエルが、ニコ生の(自主)規制がますますひどくなることにうんざりし、「アフリカの自由」に期待をかけてこの試みをしていることを全く無視しているのである。
メディアを糾弾するといったダサい態度とは無縁のノエルだが、川崎警察の刑事の追及を、「任意」の取り調べを理由にはねのけたのと同じ程度のノリで、3月6日には、「東スポ本社に自分のでてる新聞を買いに行く」。そして、3月8日には、「フジテレビに凸」をしに行く。実際、両者の報道には、明らかに意図的な歪曲があった。
いずれの場合も、突然の訪問者のノエルは、ビル管理関係者に追い払われる結果に終わるが、マスコミというものが、読者や視聴者をクレーマーや〝テロ〟予備軍ぐらいにしかみなしていないことが露呈する。アルカイブ映像を見ればわかるように、彼は、一度も東スポやフジテレビを糾弾してはいない。報道をした当人と「話がしたい」という個人的な願いを表明する。個人が重要である送信と不特定多数が相手のマスブロードキャスティングとの違いをはっきりさせただけでも、ノエルの果敢なアプローチは意味があった。
ノエルは、まさにベンヤミン風に言えば。〈異化する天使〉であり、3月12日には、東日本大震災追悼イベントが行われた福島市を訪れ、また警察の目にとまる。例によって、街頭で送信アクションを行っていると、「通報」があったとかで、警察がやってくる。が、今度は「任意」では済まなかった。警官は、未成年の「補導」という特権を持ち出したのだ。ここで異化されたのは、日本の法律では、警察官が「不審」と思えば、未成年の場合、強制的な「補導」ができるということである。このとき警察は、ノエルのこれまでの活動を察知したうえで非常に組織的に動いたとみえ、女性の「補導員」まで連れてきた。
実際、ノエルは、「任意だから答えません」という主張を無視されて、警官に身体ごと持ち上げられ、パトカーに乗せられそうになる。が、ここでさすがは震災を経験した福島だと思ったが――「不当です、助けてください」という彼の叫べを聞いた通行人(?)が、もみあっているところに割り入って言う。
こんなちっちゃな子がさあ、福島の311の現実をリポートしようとしているのをさあ、こんないい大人が何人も集まって、〝この子が心配だからっていって〟両腕捕まえて車に乗せるっていうのは、見過ごせないすも。
彼は、これで救われるのだが、警視庁からの組織的な指令で動いている福島県警は、普通なら引き下がることはなかったであろう。そうはならなかったのは、街の人々との関係が公式通りにはいかないことを経験した福島ならではのことである。
このありさまは、ノエルが自分を撮っている映像と音にたまたま入り込んだものであるが、だからこそ、これまでに撮られたいかなる記録にもまさるリアティと批判性を持っている。
(2015/03/16 ↑)新しいものは、それまでの総合と飛躍としてあらわれる。ノエルの新しさも、これまでのインターネット技術とアイデアの総合として生まれた。それは、むろん、偶然ではなく、彼が使用した機材とストリーミングサイトによって動機づけられた。
narukami793の場合、録画してすぐに送信するというアイデアは新しかったし、顔を映さないために手やその動きを効果的に映すというスタイルはユニークだった。彼は、YouTubeのような非同期メディアの機能を最大限活用したことは事実である。非同期メディアでも、ライブ性を生み出すことが可能であり、ライブ性とは、必ずしも同時間性を意味するわけではないことを教えた。
ニコニコのような、いわゆる〝生放送〟メディアを使っても、ライブ性がさっぱり出ない映像/放送はいくらでもある。むしろ、そのほうが多いだろう。その意味では、〝生放送〟メディアのほうが、〝生〟を出すのがむずかしい。事件の現場にカメラとマイクを向ければ、即、生々しさやライブ性が得られるわけではない。
日本のテレビ屋は、〝先進国〟では類のない多種類の規制のおかげで疑似的なライブ性をかもし出す恩恵にあずかっている。ズバリ出してしまえば、どうということのないものを、「プライバシー」だ「猥褻」だという規制をみずから率先的に持ち出して〝生〟を報道しないことによって、疑似的な(要するにインチキな)リアリティをまき散らし、商売のネタにしている。「突撃リポーター」という言葉は久しくあるが、そんなものは、映画(たとえば『コミック雑誌なんかいらない!』)のなかにしか存在しなかったのではないか?
ますます亢進するインチキリアリティの支配する状況のなかで、ノエルの〝放送〟が斬新だったのは、「川崎中1殺害事件」の犯人として逮捕された少年の実家に「突撃リポート」を敢行したからではない。そもそも彼は、テレビ屋がやるような「放送」は一切していない。ここでいう「放送」とはブロードキャストつまり不特定多数のリスナーに〈広く〉(ブロード)〈投げる〉こと(予想外の数のリスナーに当たることを期待した投機)である。彼は、不特定多数のリスナーに投げつけるのではなく、まずは、自分を映し、そして、彼の顔と声を受信してチャットで反応するリスナーにリスポンスする。
既存のマスメディアからすると、こういう〝放送〟は児戯にすぎない。いや、そうだ、それは既存の「放送」を「児戯」としてパロディ化している。「上村君を殺害した犯人の家」のまえで送信をしていたノエルは、川崎警察の刑事から誰何(すいか)を受ける。刑事は、「通報があったから」というが、その証拠はない。規制を理由にストレートな放送をしないテレビ屋が「通報」したのかもしれない。いや、通報がなくてもこのような誰何は行われる。ノエルがやったことは「不審」な行為なのだ。ちなにみ、彼は、その昔、物売りがよくやった(要するに「シガレットガール」方式)(ノエル本人は「お弁当屋方式」と言っている)首からベルトでトレイをつるすような感じでノートパソコンを胸の位置に固定し、カメラとマイクにむかってしゃべりつづけた。それは、表現論的にはユニークだが、一般人には〝不審〟だということなのだろう。
刑事の誰何に対して彼は、「任意」を理由に答えを避け、ここで撮影するのは「プライバシーを侵害する」という言い方には、彼は「自分を撮っている」のであって、他人を撮影しているわけではないときっぱり答える。実際に、彼が流す映像の大半は、自分の顔であり、刑事とのやりとりのあいだに彼の顔の端に映り込む顔は、この光景をネタにしようと集まったテレビ屋たちの顔である。彼が撮っているのではなくて、向こうが入り込んでくるのだ。それにしても、この種の手合いというのは情けない。
このあと、「中学生にしては立派」といった書き込みがのちにネットを賑わわせるが、ノエルは決して普通の「中学生」ではない。ニコニコに彼自身がアルカイブしている映像を見ればわかるが、彼は、まだ声変わりもしていない時代から、ネットの〝愚連隊〟たちと言葉で渡り合い、「そっちに殺しに行くぞ」といった脅しにも冷静に論理的な主張をくりかえし、やくざ口調を乱発する相手に、「こいつ面しれえや」と言わせてしまうのだった。彼は、電子メディアがつくる距離をたくみに操作して、もし電子メディアがなければまさしく「上村君」のような目に遭ったかもしれない事態を回避するのである。
ノエルにとってコンピュータは、自我を映す鏡であり、また、その自我を他者化するメディアである。ニコ二コの古い映像に、彼が「妹」と口論して敗けて泣いてしまう記録があるが、その一部始終を〝生放送〟したらしい。おそらく、彼は、この〝生放送〟によって他者性を獲得し、孤立を回避している。電子メディアのきわめて能動的な使い方である。
テレビ屋がカメラやマイクや送信機を使うやり方では、映像と音の主体は存在しない。存在したとしても、あたかも存在しないかのごとくに放送する。それが「報道の不偏不党性」だというわけだが、そんなことが言えたのは、電子メディアがまだ幼稚な技術にとどまっていた時代である。ノエルが使う機材にくらべればはるかに高度な機材をふんだんに持っているテレビ屋が、その本領を発揮できないのは、規制に安住し、また、メディア論的な創造性に欠けているからである。
既存のテレビが高解像度などにとらわれているあいだに、フリーなメディアが一般人の身近なものになってきた。ノエルは、目下、このときに使ったAreecaTVを主に、ニコニコ、TwitCastingなどを駆使して毎日送信を行っている。AreecaTVのアルカイブには、彼が、韓国をベースにするこのP2Pストリーミングメディアを使ってみて、その使いやすさに感動する姿が映されているが、ニコニコやTwitCastingにくらべて、リスナーが書き込むチャットの組み合わせがよくできており、アルカイブを再生したときも、〝生放送〟のときに書き込まれた動的な状態が再現されるのである。
すでにネットの〝生放送〟では、チャットを相手にしたしゃべりがすでにひとつの〝放送〟ディスクールとして定着している。ノエルは、AreecaTVの画面の右にあるチャットウィンドウを見ながら、書き込みをしてくるハンドルネームを、「~いらっしゃい、・・・さん、こんばんわ・・・」と語る。そのあいだで、コメントに答えたり、それを敷衍したり、ひたすら〝挨拶〟に終始したりしているときもあるが、それがひとつのディスクールになっていて、リスナーを惹きつけるのである。これは、「完成品」を求める普通のテレビでは決してやりようのないスタイルであろう。
(2015/03/15 ↑)表現にフォーマットは不可欠だ。というより、フォーマットが決まれば表現は始動する。ネットに飽きたのは、そのフォーマットを更新できなくなったからだった。紙メディアとの浮気でそのやり方に淫したからかもしれない。具体的には、HTMLのタグを組み合わせるのに飽きたのであるが、最近、古いタグを撤廃してページを書き直してみて、またHTMLページを書くことに快感をおぼえるようになった。
別に新しいことをやっているわけではない。すべてCSSで書くことにし、「HTML文書の文法をチェックし、採点する」というThe W3C Markup Validation ServiceやAnother HTML-lint gatewaで「適正化」をはかりながら書くことが面白くなっただけである。
「シネマノート」の方でアカデミー賞の顛末記を書いたのも刺激になったが、昨年来のネットの出来事が「雑日記」に書きたいという思いを加速させた。昨年末、「19歳の青年」が万引きをしてみたと称するパフォーマンスをYouTubeに投稿した。今年になると、このnarukami793というハンドルネームの人物は、スーパーに置かれた「じゃがりこサラダ」という商品に爪楊枝を刺してみる映像もアップし、そのことがテレビで報じられて警察が動くと、その逃避行の思いを録画して投稿したりした。リアルタイムではないが、YouTubeを生放送に近い形で使うことができることをあらためて示した画期的なメディアアクションだった。
これらについては、たまたま連載を担当することになった紙メディアの『myb』(みやび出版)第1号に寄稿したが、紙メディアだから、それが形になるのは4月下旬である。その間にもう一つ大きなメディアアクションの事件が起こった。2月27日、「15歳の中学生」が生放送サイトafreecaTVを使い、「上村くんの殺害現場で献花し容疑者の家に行く」という送信アクションを行った。ここで、送信をやめさせようとした刑事とクールな渡り合いを見せて、マスメディアでもとりあげられることになった。いずれも、既存のネットサイトと既存のありふれた機材を使ったアクションがマスメディアを空無化した。いかに既存のマスメディアがつまらないことしかやっていないことをきわめてマイクロなやり方で示してくれた。そして、それがいまも続いている。こうなれば、書かずにはいられないではないか。これは、映画用の「シネマノート」ではカバーできない。「ウ・トポス」というサイトも作ったが、ブログ形式なのでつまらない。「雑日記」の形式が必要なのだ。「ウ・トポス」にも重要なことを書いたつもりなので、こちらも「雑日記」に併合しよう。
(2015/03/14 ↑)