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2013年03月04日

両手か片手か
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たまたまMさんとメール対話をしていたら、ひらめいたことがあるので書いておく。
それは、<片手のメディア>か<両手のメディア>かということなのだが、紙メディアの場合、ケータイやスマホが普及する以前には、〝片手メディア〟といえば圧倒的に本メディアだった。なかでも文庫本や新書本は、片手メディアの主役だった。〝両手メディア〟のほうは、週刊誌、新聞、漫画本が主要なものだった。

が、やがて、〝両手メディア〟は、両手でキーボードを操作するコンピュータによってうばわれていく。さらに、〝片手メディア〟のほうは、ケータイとスマホが手の平におさまる本を排除するようになり、いまでは、〝片手メディア〟とケータイ/スマホは同義になった。スマホは、〝両手メディア〟としてのデスクトップ・コンピュータの位置をも奪うようになったから、いまは、〝片手メディア〟の時代であり、メディアの冒険は片手でおこなわれるのである。

いまの時代に、本がダメなのは、こうしたケータイ/スマホのような片手メディアのまえで、本が、片手か両手かの点で中途半端な状態にあるからだろう。最近わたしは、三田格と『無縁のメディア 映画も政治も風俗も』(Pヴァイン)という本を作ったが、やわらかい表紙とラフな紙のページで出来ているこの本は、片手で操作できはするが、ときには別の手で支えてやらなければならないことがある。つまり片手だけで操作するというわけにはいかないのだ。その意味ではスマホも完全に片手だけでは無理かもしれないが、今後は片手性がもっと徹底されるだろう。機能的にはそれが可能だからだ。

当分、電話メディアによるこうした片手メディアの独占は終わらないだろうが、両手メディアのほうは、FMやデジタル放送によって〝廃墟化〟したAM帯のように、無限の可能性を秘めながら、放置されるという状態に進むのではないか? つまり、紙メディアに関していえば、雑誌や新聞の復活の可能性である。片手を使うことに飽きた者は、両手の冒険に関心をいだくだろう。両手で広げて読む新聞や雑誌。文庫本より何倍も大きいサイズの紙メディア。

そういえば、ビフォことフランコ・ベラルティが、ラジオ・アリチェと並行して発行した『A/traveRso』という雑誌のサイズは、50センチX35センチもあった。しかし、この雑誌は、両手で持って読むには快適ではなく、むしろどこかに置いて、広げて読むのに適していた。必ずしも両手の冒険を狙ってはいなかったように思える。

雑誌におけるサイズの冒険は日本でもいろいろあったが、電子メディアが変えてしまった状況を意識した紙メディアとりわけ両手のメディアのチャレンジは、むしろこれからだと思う。そして、本の場合も、両手か片手かの問題もふくめて、電子メディアとの関係を意識するならば、試みるべきことはかぎりなくあるだろう。文庫本やCDの普及は、手の平サイズのメディアをつくった点にある。しかし、CDは単独ではメディアにはならなかった。両手メディアとしての本のひとつの可能性の鍵は、DSやPSPにあるかもしれない。それは、電子本ということではない。両手で操作するDSやPSPの両手の位置とその動きぐあいである。

無縁のメディア 映画も政治も風俗も』の場合は、そこまで実験する余裕がなかったが、執筆、打ち合わせ、ゲラ直し、校正もすべてネット経由のリモートでおこない、一切フェイス・トゥ・フェイスの打ち合わせや赤字入れをしないでつくった。(が、これには後日談がある。編集担当の水越真紀さんによる「編集後記」を読んで知ったのだが、彼女と三田格さんは、わたしがPDFに直接デジタル的に書きこんだ〝ゲラ〟を紙にプリントアウトしなおして校正したりしていたらしいのである。メールでの打ち合わせも、スムーズに進んだとわたしは思っていたが、そうでもなかったらしい。いまの出版体制のなかでは、全部リモートでやってしまうことは逆にコストとストレスを生むようだ。が、わたしには面白い実験だった。)